第8話『じゃれつくワンコちゃん』
「ぎゃああああああああ!?」
ワンコちゃん、というエレンの言い方からは想像も出来ないような獰猛な四足獣がアンリ目掛けて飛び掛かる。
その名が表す通り、血をかぶったかのように光沢のある赤い体毛に覆われた獣。吠え声こそは犬のそれと大差なかったが、しなやかな四肢で大地を蹴り、涎を垂らしながら犬歯をむき出しにして飛び掛ってくるそれは、執行者として初の実戦を迎えたアンリを怖気づかせるのに十分だった。
「ほら! しっかりなさい! 腰が引けてるわよ!!」
エレンはアンリを叱咤しながら危なげなく剣を振るう。金髪の少女が白い刃を一閃させる度、【血の猟犬】は頭を串刺しにされ、または胴体を真っ二つにされて地面に転がり、やがて灰となって虚空にその仮初の命を散らすのだった。
「そ、そんなこと言ったって……」
アンリも別に手をこまねいて見ているわけではなく、先日己の心が生んだ【打ち壊すもの】を振り回してはいるのだが、何しろこういった四本足の獣と戦うのは初めてなのだ。村にいる頃に訓練は積んでいたが、人間とは違う動き、爪や牙を使った攻撃に翻弄されるがままだった。
エレンの活躍により大分数を減らしたものの、周りは未だに数体の猟犬が取り囲んでいる。アンリが無事でいるのは、常に一対一で戦えるようにエレンが上手く敵を挑発し、撃破しているからにすぎない。
ターゲットをエレンからアンリへと変更し、襲いかかろうとした猟犬がいるのをすばやく察知したエレンは、剣を地面に突き立てるとその手に一枚のカードを召還した。もちろん、これも輝石に収められた神々の力の一つだ。
「【水の槍】!!」
カードをかざして神の言語を叫んだエレン。たちまちカードから一筋の水流があふれ、瞬きの内に鋭い槍の形を取り、一直線に飛翔した。エレンが生んだ水の槍はアンリに襲い掛かろうとした一体の猟犬の胴体を右から左へと貫き、やがて哀れな眷属と共に消失した。
エレンが魔術らしきものを使ったのを初めて目の当たりにしたアンリだったが、今は驚きの声を上げる余裕もなく、一体の魔物との睨みあいを続けていた。しかし、エレンが守ってくれるという事実がいつしかアンリの心を落ち着かせ、相手の動向を見る余裕を与えていた。
アンリは両手剣の構えの一つである、己の正面に剣を向け、その剣先を地面近くまで下ろす構えを取った。あくまで相手を近づけたくないという消極的な考えから至った構えではあったが、この猟犬相手にも有効だったのか、その動きが止まる。魔獣も感じ取ったのだろう、先ほどまでとは違い、眼前の剣士にある覚悟が生まれたことを。
赤い猟犬は頭を伏せて前足をたわめる。隙があり次第、いつでもとびかからんが為に。赤黒く濁った瞳孔はアンリの動きを見逃すまいと彼を睨みつけている。アンリも負けじと見返した。
やがて一瞬アンリの剣先がぶれた。それを好機と見たか、血色の胴体を躍動させ、普通の犬ならばありえない高度でアンリの剣を飛び越え、その牙で喉元を抉ろうと襲い掛かる猟犬。しかしそれはアンリの誘いだった。少年はすばやく剣を跳ね上げ、その肢体を打ち上げる。体勢を崩された猟犬は戦果を上げることなく地面にぶざまに落下し、そこに……。
「はああああああああああっ!!」
跳ね上げた剣をそのまま遠心力に、そして膂力に任せて叩きつける。それは見事に赤い猟犬を頭から真っ二つにし、やがてその体は微細な塵となり消えた。
己の勝利が未だに信じられず、呆然と地面を穿った体勢のままでいるアンリの耳に、パチパチパチという音が聞こえる。
振り向いたアンリの視線の先に、敵を全て片付けたのかにっこり笑って拍手をしているエレンの姿があった。
「ふふっ。おめでとう、アンリ。初勝利ね」
「……う、うん。ありがとう……エレン……」
「ふふふ、まだぼんやりしてるわね。でも気を抜いちゃ駄目よ。ほら」
顎をしゃくるエレンにアンリは慌てて全身を向き直らせる。そこにはいつの間に現れたのか、狩りを行う狼のように遠巻きに二人を囲もうとしている赤い猟犬達の姿があった。
そして一際大きな体躯の、全身を赤熱した鉄のごとき色彩の毛皮で包み、開いた口から燃え盛る火炎をちろちろと舌のように見せ付けるあの獣は。
「クイーンのお出ましね……」
先ほどまでの優しげな笑みと違い、不敵な笑顔を浮かべるエレン。アンリは緊張に負けまいと、先刻敵を両断した己の武器を握り直した。
「大丈夫よアンリ。さっきみたいにやれば負けはしない……まずは数を減らすわよ」