第99話『巣穴』
アンリ達の耳に入るのは延々と続くせせらぎ。一行の中で一番背の低い姉妹の片割れが時折泳ぐ魚にちょっかいを出そうとし、するりと逃げられて彼らの笑いを誘う。
五人はいつしかこの地名の由来となった川のへりを歩いていた。かつては水底に埋まっていたであろう石ころの絨毯をアンリ達は進む。水流によって幾度も削られた為か、石は角が削られていて歩きやすい。
「昔はもっと大きな川だったのかな?」
アンリは時々転がっている大きな岩を見ながら誰にともなく語りかけた。かつて、川の流れが今よりも太くて激しかった頃に流されてきた物なのかと考えたのだ。
「多分ね。あたしも学者じゃないからあんまりよく分からないけど」
アンリの問いかけに軽く答えながらも警戒を怠らないエレン。とはいえアンリも別に気を抜いていたわけではない。朝から山中を歩いていた彼らだったが、すでに二回簒奪者とその眷属の群れに襲われている。幸い、このゆるやかに蛇行する川べりを歩き出してからはその影も見えなくなったが、それでも油断は出来ない。
「そういえば尾長竜は眷属を持たない簒奪者だったな」
アンリの問いかけが皮切りとなったか、サイファも目の前を遮る岩を迂回しながら皆へと話しかけた。しばらくは美しい渓流に心奪われていた一行だったが、いつしか慣れて同じように続く光景に飽きていたのだ。
「そう。尾長竜が強いのはそれが理由だって言う人もいるわね」
「どういうこと?」
サイファの言葉にエレンが答え、意味がよく分からないアンリがそれに疑問を呈す。
「簒奪者は自分の力を分割して与えることで眷属を生み出すって話はしたわよね? つまり十ある力の内、三を眷属に割り振ったら自分の力は七しか残らないでしょ? でも尾長竜はその眷属を持たない。だから十の力をそのまま保持してるんだって」
「なるほど」
「じゃああの双頭の蛇って奴も眷属がいなかったらもっと強かったのかな?」
先日襲い掛かってきた二つの頭を持つ巨大な蛇の事を思い出しながら問いかけるマナ。鎧に身を包んだサイファはふむ、と手甲をアーメットに覆われた顎に添えて答える。
「かもしれん……まあワタシ達には永遠の謎だがな」
「私達は簒奪者じゃありませんからね」
口元に小さな笑みを浮かべながらミナがまとめた。アンリ達もつられて笑う。そんな中、エレンの顔が引き締まる。
「見えてきたわ……あそこよ」
エレンが腕を伸ばし、遥か前方を指差した。エレンに続いて、アンリ達の表情もたちまち真剣なものとなる。
五人の視界に映った巣穴と呼ばれる巨大な洞窟。川から少し上がったところにある山の裾が一部切り立った崖となっており、その壁面に巨大な虫が張り付くようにぽっかりと空いた暗い闇があった。まだ遠いその入り口の向こうに恐るべき魔物がいる。アンリ達は顔を見合わせ、頷きあうと再び歩きだした。今度は誰も軽口を叩かない。
やがて彼らは川べりから下生えの絨毯へと足を踏み出した。この場所に住まう王を恐れてか、辺りには動く物の姿はない。空を舞う鳥達も、地を這う獣も、凶暴な簒奪者も、その手足である眷属も。
木立の間を抜けて、アンリ達は全てを遮るような壁面の前で立ち止まる。彼らの眼前にあるのは自分達の身長の数倍はあるであろう大きな洞窟の入り口。
巨大な簒奪者の住処についにたどり着いたのだ。
五人は足音をなるべく立てないように、慎重な足取りで歩を進めていた。先頭を歩くエレンの手にはランタンが、最後尾を歩くアンリの手には松明が握られており、深い闇の中ではいささか頼りない光を四方へと照らしていた。
侵入者の存在を知らせる灯りを点しながら忍び足を行うという行為に矛盾を感じる彼らであったが、闇夜を見通せないのは人間の常、それは仕方のないことであった。それに、運がよければ尾長竜が寝ている可能性もある。
とはいえ、サイファが歩くたびに隠しようもない金属音が辺りに響くので、それも望み薄ではあったが。さすがに危険が予測される場所で彼女に鎧を脱いでくれと頼める人物はこの中にはいなかった。もっとも、誰かがその意見を述べても、サイファが受け入れたかどうかは謎ではあるが。時折左右にゆるやかな曲線を描く洞穴を何も言わずに歩く五人。
「止まって」
突然エレンが立ち止まり、小さな声で後ろの人間へ声をかけた。ワンテンポ遅れてアンリ達の行進が止まる。松明が燃える音だけが辺りを支配した。
「どうした?」
サイファがエレンへと小さな声で尋ねた。
「何か聞こえない?」
そう言われ、彼らは呼吸も抑え目にして耳をすます。そんな彼らの鼓膜がある一定のリズムを捉えた。まるで風のうなりのようなかすかな音を。
「なにかな、これ?」
音の存在に気付いたマナがエレンに尋ねるが、彼女は肩をすくめた。
「わからないわ……でも、この先から聞こえてくる」
「つまり、何かが近くにいるってことだね?」
アンリの言葉に五人は顔を見合わせる。この奥に潜む何か――それはおそらく尾長竜以外にはありえない。
彼らはそれぞれ頷き合い、先ほどよりも慎重に歩き出す。歩く彼らはいつしか洞窟の横幅が少しずつ広がっていっていることに気付いた。それにつれ、先ほど彼らが耳にした奇妙な音も段々と大きくなっていく。そしてもっと大きな変化が彼らの目に映った。洞窟の奥からなぜか光が漏れてきているのだ。
アンリ達は顔を見合わせ、歩を進めた。やがて、五人が見たものは。
立たせた鶏の卵を半分に切ってその殻を伏せたような、半円形の空間だった。洞窟の奥だというのに光が漏れているのは、どうやら壁面にまだらに生えるヒカリゴケらしき物体のせいらしい。かすかに明滅するそれらに照らされ、ここはまるで巨大な宝石の中に入ったかと錯覚するかのように美しかった。
そして輝く広間の一番奥、羽をたたみ、首を曲げて丸くなり、ゆりかごの中の赤子のように眠るその魔物は。
「尾長竜……」
かすかに喉を震わせ、アンリが簒奪者の名を口にした。その小さなささやきに返ってくるのは先ほどから聞こえてきた風のような唸りのみ。どうやらそれは、目の前の竜のいびきらしい。
彼を始めとした五人は、まるで自分達が悪いことをしているかのように錯覚し、それぞれ顔を見合わせた。しかし自分達の立場を思い出し、お互いに頷き合うと武器を握り締めなおす。不意打ちとは少々卑怯な気もするが、敵は簒奪者で、自分達は執行者なのだ。容赦はしない。
アンリは手振りでエレンからランタンを受け取り、もはや必要のなくなった灯りを広間の入り口から少し離れた場所に置く。そしてエレン達のところに戻ろうとしたアンリは気付いた。彼女達の上から今まさに落ちかかろうとしている異形の影に。
「あぶない!!」
「え!?」
「きゃあっ!?」
アンリは叫びながら駆け出し、その影の真下にいたマナとミナの二人へと体当たりをする。咄嗟の行動が功を奏し、双子の姉妹とアンリが広間へと転がりでた後にその異形が降ってくる形となった。彼らの背後から聞こえるのはべちゃりという音と、続いて濁流が排水溝を流れるかのような不快な音。
数歩先んじていたエレンとサイファはいきなり背後から倒れ掛かってきたメンバーに目を剥き、振り向いた。
「ちょっと!! 何やって……!!」
奥にいる眠り姫を起こさぬよう、小声で非難するエレンの口上は途中で途切れた。倒れるアンリ達の向こうに不気味な姿をした魔物がいたのだ。
「げえっ!? 飽食の不定形!?」
通路から漏れる炎に照らされるのは触手のようなものを全方位に広げ、ゆらゆらとうごめく半透明の物体。
サイファが兜の下の可憐な顔に似合わない悲鳴で、その怪物の名を響かせた。