第98話『誰にも知られることの無かった戦い』
「ほら、起きなよエレン」
「ん~、あと少し~」
「あと少しじゃないってば、ほら、起きて」
ぐずる幼馴染にアンリは口元に笑みを浮かべ、しかし容赦なく彼女を揺り起こした。まぶたをこするエレンはようやくしぶしぶといった様子で毛布から顔を出す。普段はアンリよりも早く目覚めることの多いエレンだったが、見張りの順序がちょうど真ん中だった為、まとまった睡眠時間を取ることが出来なかったのである。彼女は目をしょぼしょぼとさせながら、ようやく包まっていた毛布から這い出した。
「顔を洗っておいで」
「うん……」
まだぼうっとしているらしいエレンはアンリの言葉にこくりと頷き、おぼつかない足取りで神の息吹がある泉の方へと歩いていった。
アンリは太陽が彼らを照らし始めるよりも遥かに早く仲間達を起こし始めていた。いまから巣穴に向かい、再び日が暮れる前に帰ってくることを考えるとあまりゆっくりとは出来ないからだ。
辺りではすでに起こされたマナとミナがそれぞれあくびをしたり、伸びをしたりしている。
なお、サイファはアンリが起こす前に勢い良く飛び起き、神の力で身体を清めるのだ!! と言って泉の方へと向かった。何をするのかと呆然と見送るアンリだったが、サイファは途中で振り向き、見るなよ!? 絶対だぞ!? 見たら戦闘中に後ろから光の魔術をぶつけるぞ!? と珍しく恥ずかしそうな様子でまくし立てた。一応寝ている者を起こさないくらいの小声で。
そう言われたにも関わらず、一体何をするつもりなのかとそうっと彼女の行動を窺っていたアンリだったが、泉の淵でサイファが衣服を脱ぎだすのを目の当たりにして慌てて前を向き、自分は何も見てませんよーという風情を装った。本当に戦いの最中、後ろから光の魔術をぶつけられてはかなわない。
それからしばらく続く「ひゃっ!! 冷たっ!!」というサイファらしからぬ可愛い悲鳴や、パシャパシャという軽い水の音がアンリの鼓膜を刺激した。その間、アンリの心の中では女神と簒奪者が壮絶な戦いを繰り広げていた。
――こっそり振り向いて裸を見ようぜ、見たいだろ? 一糸纏わぬ姿だぞ? あいつおっぱいも結構でかいしなゲハハハハハ!!
――アンリ、後ろを振り向いてはいけません!! そんなことをされては私……貴方の事が嫌いになってしまいますわ……。
なお、この時アンリの妄想に出てきた女神はカルドラではなくマリアベルだった。そんな闘争がアンリの中で繰り広げられていたのを知ってか知らずか、心を揺さぶる水音は彼の意思を侵食し、そしてアンリがついに簒奪者の囁きに耳を貸そうとした時、もうこっちを向いていいぞ、という声が聞こえ、我慢していたアンリはエレンが繰り出す【閃光の一撃】もかくやという速度で振り向いた。もちろんそこにはすでに衣服を纏ったサイファがおり、アンリはがっくりと肩を落としたのだった。
エレンを起こし終えたアンリは自分も出発の準備をしようと己の荷物へと近づき……その途中で身体の柔軟体操をしているサイファをそっと盗み見た。まだ残っている焚き火に照らされる銀の髪、整った細面。巨大な鎧を身に着けているのが信じられないような細い身体が逸らされると、胸が衣服を持ち上げてその豊かなサイズを世界へと知らしめる。アンリはそれに目を奪われ、心中で血の涙を流しながら呻いた。
くっ……なぜ、なぜ僕はあの時もっと早く簒奪者の言葉に耳を貸さなかったんだ!!
「ふう……やっとすっきりしたわ」
執行者としてあるまじきことを考えていた時にエレンの声が聞こえ、アンリはびくりと身をすくませた。そちらに目をよこすとエレンが幾分さっぱりした顔で泉のふちから戻ってきていた。薄闇にほの見える金髪がマリアベルのそれに思え、アンリは慌てて心の中で敬愛する女神へと懺悔した。
やがて片付けも終わり、アンリは残っている焚き火から己が持つランタンへと火を移す。さすがにまだ灯り無しで山中を歩くのは心もとない。エレンは【魂の器】を召還し、全ての輝石に輝きが戻っていることを確認して満足げに頷いた。
最後に火の後始末をし終え、アンリは立ち上がる。
「よし、じゃあ行こうか」
アンリの言葉に皆が頷いた。ある程度まとまった睡眠をとったことで気力も回復し、準備は万全だ。五人はそれぞれ歩きだす。
そんな中マナはかすかな小動物の鳴き声を耳にし、首を動かした。近くにある樹上にリスか何かの獣がいるようだ。
「またあとでね」
マナは小さく笑いながらその影に呼びかけ、少しだけ距離が離れてしまった他の四人の後を小走りで追いかけた。