プロローグ
少年が両手で構える粗末な木剣の先には醜悪な怪物がいた。並の成人男性よりも高い背丈は薄緑色の皮膚に覆われており、四肢もその胸板も少年のそれとは比べ物にならないほどの筋肉がついていた。
その丸太のような腕に持つのは、幾多の血を吸ってきたのか錆の浮いた巨大な鉈。目は血のように赤く、耳は三角帆のように尖り、口元には下あごから生えた牙が覗いており、分厚い口唇は醜悪な笑みを浮かべていた。
少年の背後には一人の少女がいた。普段は可憐な笑顔を見せるであろうその愛くるしい容姿も、今は恐怖におびえ、竦んでいる。
「大丈夫だよ」
少年は決してそんなことを言えるような心理状態ではなかった。彼が魔物を目にするのも、ましてや得物を手に対峙するのもこれが初めてだったから。気を抜いた途端に歯がガチガチと鳴り、手足が震え始めていただろう。
しかし己の背に隠れている少女の手。背に添えられているその十指から伝わってくる少女の恐怖を少しでも和らげようと、少年は自然に先刻の言葉を吐き出していた。
視線に力を込めて異形の顔を睨みつけ、木剣を握りなおす。
――女神カルドラよ。ご加護を……!!
少年――アンリは祈った。子供の頃に絵画で見てあこがれた、巨大な剣を持つ美しい戦神に。
「はっ!!」
気合一閃。アンリは木で出来た剣を振りかざした。決して素人とは言えないその一撃は見事に眼前の魔物の胸板へと命中する。しかし、それは乾いた音を立てるだけで魔物に対しては何の痛痒も与えていないようだった。アンリは一旦間合いを取り、歯を食いしばりながら再度攻撃をしかける。今度は高い位置にある頭を狙い、得物を振り上げた。
嘲りで口を歪め、怪物もその手に持つ凶器を振るった。アンリが手に持つ木製の剣を狙って。嬲る為、まずはその武器を破壊してやろうと魔物は考えたのだ。
強烈な勢いで交差する両者の武器。その衝撃に耐えられなかったのはアンリの方だった。まずはアンリの膂力がその一撃に耐えられず、柄から手が離れてしまう。そして木の刀身を半ばまで食い込ませたままの魔物の鉈が、今度は木剣もろとも地面に叩きつけられる。その瞬間、アンリの剣は武器としての命を終えた。
アンリはよろめき、片膝をつく。打つ手を無くした少年を目掛けて怪物は再び凶器を振り上げた。まずは耳か、それとも腕か。いずれにせよ、娘の方で楽しむ前座くらいにはなってくれるだろう。
そんなアンリをかばうように、自分の脊に隠れていたはずの少女が魔物との間に飛び込んできた。アンリはそんな少女を遠ざけようとするが叶わない。
怪物は予定が狂ったという顔を一瞬見せたが、まあそれもいいかとばかりにその鉈を振り下ろそうとし……。
唐突に怪物の動きが止まった。
顔に驚愕を張り付けて、ゆっくりと頭を動かし、己の分厚い胸板を見やる。先ほどまでは己の自慢の種だった、しかし今は鋭い剣先に貫かれている、その場所を。
「人間の武器でこいつらに立ち向かうなんて、相変わらず無茶をするんだから」
まるで凍りついたかのように動かない三者の耳に、やや音域の高い声が届いた。どこか茶化すような、しかし切迫していたその心情を表すかのようにかすかに震える声音。
「でも立派だったわよ、アンリ」
呆然とした表情のまま崩れゆき、やがて灰となった魔物の向こうに、アンリの幼馴染の姿があった。一年前に別れた時と同じ、藍色の瞳を持つ少女。美しい金色の髪の一部を頭の後ろから馬の尾のように垂らしているのも以前と同じだ。
しかし初めて目の当たりにする、彼女を覆う白銀の鎧と菱形の盾、そして先ほど魔物を刺し貫いた刃の輝きに、アンリは助かったことも忘れて何も言わずに目を瞬かせるしかできなかった。もちろんアンリと一緒に助けられる形となった女の子も同様である。
そんな二人を前に金髪の少女は小さく微笑んで目元を拭うと、幼馴染に向かって手を差し出した。
未だ呆然としているアンリがおずおずとその手を取ると、金髪の少女は先刻見せた微笑ではなく、人を安心させるような満面の笑顔で彼に向って言葉を紡いだ。
「執行者の世界へようこそ、アンリ」