プロローグ(1)
首都圏から電車に揺られること、三時間。
虎子という小さな駅がある。
都内を離れた小さな駅に似つかわしく、小さなその町の名もまた虎子。
四方を見渡しても、さびれた商店街と小規模な住宅地くらいしか目につかない、言い方は悪いが典型的な片田舎の町。
そう、わずかにひとつの例外を除いて。
駅を出て、道なりにまっすぐ。
徒歩なら一時間。
車ならば十分とかからないだろう。
そこに、周囲の様相とは完全に隔絶された異様極まる建築物がある。
私立虎子ヶ原学園(わたくしりつ とらのこがはらがくえん)。
敷地総面積、約六万坪。
全寮制の中高一貫校にして、全国でも指折りのマンモス校のひとつ。
今年で創立百周年という節目を迎えたこの学園には、昔からある噂話が絶えない。
この学園の創設者であり、町の名士でもあった初代学園長がとんでもない金持ちであったことがそうした噂の立つ元凶であったことは確かだが、実際のところ、学園の内情を知る人間から漏れ聞く話のほうがはるかに多く、しかも信憑性が高く聞こえる。
では、
さてその噂話というのはどういったものなのか。
気にはなるだろう。
なるだろうが、
今はその話は後に回して、まさにこの学園に向け、歩を進めているひとりの少年に目を向けることにしよう。
先ほども説明したが、駅から学園までは徒歩だとおよそ一時間。
そしてその少年はすでに四十分以上歩いていた。
少年の名は斉部誠。
細身で、明らかに普段から運動などしていないのが見て取れる生白い肌をし、汗に濡れ、額に張り付く前髪をうっとうしそうに指で梳きながら長く、殺風景な道をゆく。
学ランの上着は照りつける太陽とアスファルトからの照り返しによる絶望的な暑さに負け、とうの昔に脱いでしまった。
すでに四十分以上も歩き続けているにも関わらず、歩道の隣に広がった車道にはまだ一台の車も通らない。
それだけの田舎道。
肩に喰い込む大荷物を今にもそこいらに放り出したい衝動には、すでに幾度と無く襲われ、そのたびにどうにか堪えてきた。
「……くそっ、これだから田舎道ってのは嫌いなんだ……」
都会っ子らしい悪態が、荒れた息と一緒に漏れる。
思えば、自分が何故こんなところを歩かなければいけないのか。
まずそこからして誠にとっては疑問であり、不満であった。
つい昨日まで、彼は都内の某都立高校に通っていた。
それが、
今は不愉快に照りつける太陽を睨む余裕も無く、見知らぬ土地のだだっ広い道を一時間近くも歩いて、見知らぬ学校を目指している。
理由は一応、理解しているだけマシなのかどうなのか。
きっかけ自体は至って単純。
どうしてかまではよく分からないが、どうやら自分はとあるお方の御眼鏡に適ったらしい。
で、その人物というのが今、息を切らして向かっている学園に所縁の人間。
それが理由。
ただし、
条件は少々複雑だった。
さほどの考えも無く、適当に選んで入った都立高校の居心地が決して良くなかったため、生来の怠け者気質がそこに重なった結果、入学したての一年目にしていきなり留年の危機に直面してしまった。
出席日数などはよくよく計算して休んでいたつもりだったのだが、これも身に染み付いた怠け癖が勝り、いつのまにやらか必要出席日数を大幅に割り込んでいた。
そこに助け舟。
さる学校に転入するということを条件に、今までの時点で不足した出席日数に関しては不問にしてくれると誘われた。
無論、乗るしかないので乗った船である。
まあ、全寮制で逃げ場の無い学校に転入することを条件にした取引だったのは、つまりは自分のズル休み癖を強制するための処置とも思えるので、素直に喜ぶというより、留年をチラつかせて無理やり押し付けられた条件にもとれる。
助け舟には間違い無いが、課された問題も多い。
結局、ダメでしたとなった際、この距離を歩いて学校から逃亡するのはさぞ骨が折れるだろうなと、早くも悪いほうの皮算用をしてしまう。
そうこうしながらもまだ歩く。
ひたすらに。
不機嫌な表情をするのすらおっくうになりながら。
道の両脇に店一件、自販機ひとつ無い場所での徒歩は体感時間が倍増しに感じる。
たまに見えるのはやたら庭の広い民家くらいだが、そんなものは疲れている人間にとって何の慰めにもならない。
「大体……人を呼んどいて出迎えの車も無しって、どういう扱いだよ……」
またしても乱れた呼吸とともに悪態が口をつく。
ただこの悪態は少々、手前勝手ではある。
駅からは、学園への定期バスが一応、運行している。
それを、次のバスの到着が二時間後という事実に嫌気が差し、あきらめて自分の足で向かおうとしたのは紛う事無く、彼自身の選択ミスである。
どう取り繕っても、単なる自業自得としか言えない。
とはいえ、
この彼の選択が無ければ、この先の流れは大きく変わっていただろう。
そこを考えると、これも何らかの運命的な何かが作用したのかもしれない。
まあ、そういう考え方はよほどのロマンチストに限定される思考だとは思うが……。
さて、
そうこうするうち、長く苦しい道のりに終わりが見えた。
うなだれ、視線を落として歩いていた誠がふと、道幅の変化に気付いて顔を上げた時、それは目に飛び込んできた。
その光景の異様さに、思わず息を呑む。
馬鹿みたいに広かった道幅はさらに倍ほどに広がり、その道が真っ直ぐ突き当たる。
信じられないほど巨大な校門に。
その校門から、さらに左右へとどこまでも煉瓦色の壁が続く。
どこまで続くかを確認する気力すら起こらない。
それほどまでに巨大。
下手をすると……いや、下手をしなくても、この壁の外周だけで優に今まで歩いてきた道より長いかもとすら思う。
門と壁の高さは軽く五、六メートル。
ハナから脱走することすらも考慮に入れて訪れた誠の感覚としては、これはもはや学校というよりも刑務所に近い印象。
ただし、
擁護する意味で補足するなら、疲れ切って何事も悪いほうにばかり受け取りがちな今の彼は、物をまっとうな基準で見ているとはお世辞にも言えない。
一般的な感性で見れば、この学園の外観は少なからず、歴史的建造物としての意味合い以上の威風をもって人を感動させるだけの力がある。
戦前の貴重な西洋建築物の独特な美しさ。
観光で訪れたとしてもおかしくはない価値のある代物だということは断言しておこう。
と、半ば呆けたようにようやく到着した学園の周囲を見渡していたその時、
「おーい、そこの少年」
急に校門の内側から声が飛んできた。
「君かい、例の留年ぎりぎり少年ってのは?」
はっとして目を校門へ向けると、そこには先ほどまでは見当たらなかったはずの女性がバイクにまたがってこちらを見ている。
歳の頃は、自分よりひとつかふたつ上といったところだろうか。
肩ほどの小麦色の髪を風に揺らし、はっきりした目鼻立ち。黒のぴっちりしたライダースーツに身を包み、疲労の無い普段ならばさぞ魅力的に感じるだろう微笑みを湛えている。
誠は彼女の言い草に対して少しばかりカチンときたが、考えれば言われたことは紛うこと無く事実であるのに気づき、長歩きの疲れも加わって苛立った神経を深呼吸ひとつして落ち着かせると、質問に回答した。
「……ええ、そうですよ。一年生で早々にダフりかけの間抜け野郎です」
「自虐的な物言いだね。私の言い方が気に入らなかったってんなら謝るよ。生まれつき、どうにも気遣いっていう能力が欠如してるらしくて、よく失言しちまう」
なんとも女性らしからぬ伝法な口調が軽く気にかかったが、それを気にかけるよりも早くライダースーツの女性は校門に向かってフィンガー・スナップでもするような仕草をすると、やおら巨大な校門が大きなブザーの音とともに開き出した。
ある程度まで門が開き、格子越しだった女性の姿がはっきりしてくると、その手の仕草が実際には何か手の中の小さなスイッチらしきものを操作していたことが分かった。
何のことは無い。
自動開閉式の校門のスイッチを操作していたのだ。
「その様子だと道中は随分と難儀だったのか、それとも単なる基礎体力の不足かな。ま、疲れてるって事実だけはよく分かるよ。さ、後ろに乗りな。早速校内を案内しよう」
言って、女性は自分のまたがるバイクへ手招きする。
疲れ切っていたこともあり、誠は誘われるままバイクに歩み寄ると、肩の邪魔な荷物を背負い直してから女性の背後にまたがった。
「まずはお疲れさん。そういや、まだ名乗ってなかったね。私は春賀鉄子。ここの三年だよ。おたくは斉部誠で合ってる?」
「あ……はい」
「んじゃ、これからは斉部って呼ばしてもらうわ。オーケー?」
「はあ……別に、構いませんけど……」
「なら良し。じゃあ改めましてよろしく。そして」
そう言い、鉄子は満面の笑みを浮かべると、
「ようこそ、虎子ヶ原学園へ」
言葉を続け、またことさらに笑ってみせた。