砂時計
少女は誰もいない暗い世界に立っていた。
左手に握った杖の先には、不思議な色を湛えるオーブが光っている。
その顔には表情を浮かべず、少女は音を立てずに歩き始めた。何のためにここにいるのかは知らないが、自分が何をすべきかは知っていた。
世界には無数の砂時計が浮かび、それぞれが淡く光っている。だからここは完全な暗闇ではない。砂時計がさらさらと落ちるかすかな音だけが、世界に響いていた。
ゆっくりと歩いていた少女はやがて、一つの砂時計の前で立ち止まる。その砂はもう、全てが落ちる寸前だった。
さら、さら……
消え入りそうな音で、最後の砂がオリフィスを通る。そうして、砂は落ちきった。少女はそれを見届けると、静かな目でしばし砂時計を見やって、左手の杖を掲げる。それから、その杖を地面へと振った。
――しゃらん。
オーブからきらめくような音が響いた。
――からん。
その音に呼応するように、砂時計はくるりと回転し、再び砂が落ち始める。砂の色は変わっていた。
それは、一人の人間の命の終わりと、新たな命の始まりの瞬間だった。
ここに無数に存在する砂時計は、人間の命の象徴であった。砂が落ちきれば命が尽きる。そして、砂時計がひっくり返ることで、新たな命が産声を上げる。
少女の役目は、命のともしびが消えるのを見届け、そして次の命が生まれるのを見届けることだった。
たった今少女が反転させたばかりの砂時計は、問題なくさらさらとその砂を落としていた。少女は小さく頷き、やがてまた歩き始めた。
さら、さら……
足音を立てずに歩く少女の周りで、砂時計は各々のかすかな音を立てている。少女はそれぞれの砂時計を視界に入れながら、どこまでも広がる世界を歩き続けた。
「――あ」
やがて少女は、ある砂時計の前で小さく声を上げて歩を止めた。
その砂時計は横倒しになり、砂が流れていない。
「…………」
少女は砂時計にオーブをかざし、それを通して砂時計の持ち主の様子を眺めた。砂時計の持ち主は、白いベッドの上で眠っていた。透き通るような肌の色には、血の気がない。右腕には点滴の針が刺さっていた。ベッドの側には、家族と思しき男性と女性の姿がある。
瀬戸際なのだ、と少女は思った。こうしたことはよくある。そういう場合に取るべき行動も、だから無論少女は知っていた。
かざしていたオーブを砂時計から離す。そしてその杖を構え直す。高く掲げて、それから地面に向けて振り下ろす。
――しゃらん。
きらめく音が横倒しになっていた砂時計を包み、震わせる。
次の瞬間、砂時計はその振動に刺激されたように縦向きに戻った。砂が落ち始める。
「……今回は、助かるみたい」
砂時計の様子を確認し、少女は誰にともなく呟いた。
少女は人の命そのものには関与し得ない。ただ、杖を振り下ろすことで砂時計にきっかけを与えるだけだ。その結果どちらに転ぶのかを少女は知らないし、その運命を操ることもできない。少女は砂時計の番人に過ぎないのだ。
縦向きに戻った砂時計が、また問題なく砂を落とし始めれば大抵の持ち主は回復に向かい命を繋ぐし、縦になっても砂が動かなければ少女はもう一度杖を振り、砂時計を反転させる。反転させた砂時計は中の砂の色を変え、全ての砂が上部に戻った状態で命を刻み始める――それもまた一つの命の終焉と、次の命の誕生を意味するのだった。
それは少女自身の力ではない。杖を振るのは少女だが、決定権は持たない。
何がその命の定めを握っているのかまでは、少女は知らないのだ。幾度となく杖を振り下ろし、もう覚えていないほどの命を見届けてきたのにも関わらず。
少女はこの暗い――砂時計だけがぼんやりと淡く、星のように無数に点在する世界で、どれだけの時間を過ごしてきたのかを覚えていない。それだけの永い時間を歩みながら、しかし少女自身は時間という概念を持たないのだった。
気が付けばオーブを戴く杖を持ち、それが当然というようにこの世界に立っていた。
いつまでこの役目を続けるのか、どれだけの命を見届けるのか、少女は考えたこともなかった。番人として在ることが、少女にとっての当然であり必然だった。
「…………」
少女はふと、歩いてきた方向を振り返った。
どこまでも広がる闇の中に、数多の淡い光が浮かんでいる。そして、さら、さら、と砂の音が世界を支配している。
それを無言で瞳に焼き付け、再び前に向き直る。やはり同じように、闇の中に淡い光が浮かんでいた。
前も後ろも、右も左もないのかもしれない。もしかすると、天と地だって――
取り留めもないことを考えそうになり、少女はゆるやかに目を閉じて首を振った。
――それは、考えても仕方がないし、意味もない。
再びその目を開けた少女は、またゆっくりと歩き始めた。
砂が落ちきる時計を見つけ、立ち止まる。杖を掲げ、振り下ろす。
――しゃらん。
――からん。
追悼とも祝福とも取れる音とともに、砂時計がひっくり返り、誰かが永い眠りに就き、誰かが産声を上げた。
砂時計が問題なくさらさらと時を刻むのを少しの間確認し、少女はまた歩みを再開する。
さら、さら……
命がさざめく音を、少女は既に聞き飽きるほど聞いているはずだが、いつも新鮮な音に思えてもいた。きっと――まったく同じ命などないからなのだろう。
淡い光に包まれている砂時計の砂の色は、どれも異なっている。大きさも様々だ。それを見渡しながら、少女は歩き続ける。時々立ち止まり、杖を振り下ろす。
――しゃらん。
――からん。
さら、さら……
――しゃらん。
――からん。
どこか淡々とした様子で、少女はその役目を遂行する。数回それを繰り返したところで、ふう、と小さく息を吐いた。
「…………?」
そこで少女は、少し先に、妙に懐かしい感情を呼び起こさせる光があることに気付いた。
他の砂時計と同じように、さら、さら、と砂を落としながら、淡い光を放っている。
その砂は、よく見ると少女の杖のオーブと同じ色をしていた。もうそのほとんどが、下のバルブに溜まっている。
――ああ。
少女は、何故その光の色を懐かしいと思ったのか、解った気がした。
これまでやってきたのと同様に、杖を掲げる。
――これは、私の――
砂が落ちきった。
少女はその顔に、悲しみとも安堵とも取れる表情を浮かべた。そしていつものように、杖を振り下ろす。
――しゃらん。
その音が弔いだったのか、祝福だったのか、少女自身も含めて誰も知らない。
――からん。
砂時計は何事もなかったように反転し、中の砂の色を変える。そして、さら、さら、とその砂を落とし始めた。
過去に書いた短編のリメイクです。




