雨が上がっても
朝陽は、HRが終わり掃除を手早く済ませ、荷物をまとめるとまっすぐ昇降口に向かった。靴を脱ぎ、靴箱からスニーカーを取り出し、内履きをしまう。そんななんてことのない、ひとつひとつの仕草が煩わしく感じる。
ドアを開け、外に出るとじめっとした暑さが肌にまとわりついた。
午後から雲行きが怪しかったが、案の定、校門を出る頃に半袖の素肌にぽたぽたと落ちてくる雨粒を感じた。外に出た瞬間にこれかと、心のなかで舌打ちをしながら、足早に帰路とは逆の方向へ歩を進めた。
朝陽は、これと言って目立つところのない男子高校生だ。どこにでもいそうな見た目に、平均的な身長。成績は良い方ではあるが、どこか抜きん出ているわけではない。人並みに友人もいて、一般的な家庭の次男として不自由なく育った。
けれど、誰しもがそうであるように、彼には彼たる部分がある。簡単には譲れないし、ともすれば誰にも話したくないようなことだった。雨の中をひたすらに駆けている時点で、秘密にするにはやや無理があるのだと、朝陽もよくわかっていた。
高校から走ること十数分。しとしとと降り続ける雨に濡れて、半袖のYシャツが肌に張り付き、髪もすっかり湿ってしまっていた。こんな格好じゃ、会うこともできないかもと嫌な想像を飲み込んで、たどり着いた病院の中に向かった。
院内に入ると、クーラーの涼しい空気に晒され少し肌寒いくらいだった。すっかり覚えてしまった道をたどり、受付で面会の申請を済ませ、エレベーターに乗って目的の病室へと向かった。
目当ての階に着き、そして一歩一歩と歩きながら、自分が緊張しているのがわかった。
朝陽にとって彼は特別だった。色彩のない雨空に差し込んだ光のようだった。
「天使のはしごって言うんだって」
いつか、病室で空を見ながらそんな話をしたのを覚えている。雲間から差し込む光の筋は、確かにその名にふさわしいものだ。だけど、きっとそれなら彼のような美しい天使が降りてくるんだろうなと、柄にもなく空想を思い描き、自重したこともよく記憶していた。
彼――大晴は、朝陽とは違い平凡とは程遠い少年だった。すらりとしたスタイルもさることながら、目鼻立ちの涼しさは男の朝陽からしても充分に魅力的に見えた。市内でも一番の進学校に通い、大きな手で本を捲る姿を何度も目にした。何よりも惹かれたのはその物腰柔らかな話し方で、落ち着いた少し高い声色も心地よさを覚えるものだった。
思えば出会ってからの一ヶ月程で、彼に対する気持ちは随分変わってしまった。
今日、このまま病室に向かえば、顔を合わせてしまえば――きっともう大晴とは会うことも無いだろう。
大晴の名のある病室の前につき、深く息を吸い込んだ。病院らしい独特な匂いに混じり、じめっとした雨の匂いを感じた。
「大晴くん……?」
意を決して病室に入ると、四人部屋の右奥、窓辺にいる大晴の姿が見えた。開け放した窓から外を眺めている彼が、声に反応してぱっと振り返った。
「やっぱり。傘くらい差して来なよ」
ふにゃりと微笑む彼は、肩をすくめてみせた。
「……夕立だから仕方ないだろ。折りたたみ傘なんて持ってないし」
「まぁ、君らしいか。けど、風邪ひかないでよね」
そこまで言って、大晴はまた空を見て、深く息を吸い込んだ。
真似して深く息を吸うと雨の匂いを感じた。確かこの匂いにも名前があるのだと、大晴に教えてもらったのだけど、何だっただろうかと思案した。
そう、あれは、あの日のすぐあとだった。
雨の降りしきる中。夏になり遅い夕暮れにやっと電灯が灯りだした頃。朝陽は帰宅途中の橋の上で思わず立ち止まった。
何でも無い平凡さの中に、積もっていく小さな陰鬱も葛藤も、邪魔なものでしかなかった。だが、見て見ぬふりをして、自分でも気付かないようにしていた絶望が、ある時、空気を入れ続けた風船のように割れてしまった。
それがあの日。
車が行き交うのも気にならず、通りかかる人になんて当然意識も向かずにいた。
無意識に手すりに手をかけ、橋から身を乗り出していたんだとわかったのは、身体を突き飛ばされ歩道に倒れ込んだ瞬間だった。代わりに細く大きな手が手すりの向こうに落ちていくのを見たときだった。
「別に大した事ないよ。勝手に僕が落ちちゃっただけだから」
幸いにも命に別状はなかった。それでも脳震盪と打撲、骨折で入院を余儀なくされた。大晴は朝陽のことを誰にも言わなかった。ただ、川を覗き込もうとして落ちたのだとそれだけだった。
警察に事情を話し、入院している病院を聞き、やっとのことで彼に謝罪した。だが、彼はただ呑気に笑うだけだった。
「実は勉強に疲れてて、良い息抜きになるよ」
そんな風に一言も責めてくれない大晴を初めは好きになれそうもないと思った。
「けど、入院は暇だし、実は友達も少なくて……時々でいいから話し相手になってくれない?」
こんな善人で、人のできた男に友人がいないことなんてない。それでも、少しでも罪滅ぼしが出来るのならと、すぐ了承した。
当然、橋から身投げしようとして助けてくれた人が怪我をして……なんてことを周囲の人には、とてもじゃないが言えなかった。ただ用事があるからと言って、放課後、度々大晴のもとに行くようになった。
足を骨折し不自由なはずなのに、痛みだって当然あるはずなのに、大晴はそんな苦労を責めることはなかった。ただ本を取ってだとか、図書館から借りてきてだとか、そんな小さな頼み事に応えることだけが、消えない自責の念への慰みだった。
「降り始めた雨の匂いはペトリコール。止んだあとに感じる香りがゲオスミン。……匂いが違うって気づいた人も、調べて名前までつけた人も少し変わってるよね」
大晴は、そんな話をしては静かに笑っていた。同年代にしては、どこか大人びた雰囲気を感じさせた。
「けどさ一度知ったら雨が降る度に、雨が上がる度に匂い嗅いでるの。人一人にそんな影響を与えちゃうならさ、当たり前のそんな現象を調べた人もなかなかに功績があると思わない?」
「……そうかもね」
「うん、だからさ。こうしてたまたま、あの日に出会って、咄嗟に身体が動いたのも何か意味があるのかも」
「……」
「だからね、友達になってもらえない?」
なんでそうなるのか、頭の出来の平凡な朝陽には理解できなかったが、それでもすぐ頷いていた。
あれから数週間。怪我は全快ではないが、大晴はやっと退院できるようになった。
「意味、あったかな?」
窓の外に顔を向ける大晴の背中にぼそりと呟く。
「意味?」
振り返り不思議そうに彼は首を傾げる。
「友達になった意味、さ」
「あぁ」
意図をすぐに理解してふっと大晴は笑ってみせた。
「あったよ、間違いなくね。それに、意味ならさ……出会った時からあったんだ」
朝陽には何を意図する言葉なのかわからなかった。ただ、それでも良かったんだと思わせてくれるような柔らかな笑みを大晴は向けてくれた。
「あ、やっと来たかも」
再び窓の外に目を向けて、大晴は嬉しそうに声を上げる。
「母さん、忙しいのに……。無理して来なくたって良かったのにな」
その無邪気な笑みにじんわりと胸が暖かくなる。そして、彼の言うように少しは意味があったのかもと朝陽もやっと思えた。
「けど、友達ならいくらでもいるでしょ」
あの友達になった日、素直に思ったことを言うと大晴は冗談めかして顔をしかめてみせた。
「友達どころか親だって僕のこと見て見ぬふりをするんだ」
それがどこまで本気の言葉なのか、真実を含んでいるのか。出会ったばかりのあの頃は理解できなかった。
「だから、寧ろこうなってさ、君の弱みに漬け込んで友達になってもらうんだから、きっと申し訳なく思わなきゃいけないのは僕の方なんだろうな。けど僕ってさ、けっこー図々しいやつなんだ」
ただ、そのどこまでも素直で純粋な心に、くしゃっとしわが出来るくらいに顔いっぱいに微笑む姿に、憧れと好感を覚えたのは確かだった。
「……ねぇ、大晴くん」
嬉しそうにすでにまとめていた荷物を確認し身支度を始める大晴に、朝陽は恐る恐る声を掛けた。
顔を上げる彼を見て、そして濡れて張り付いたシャツの心地悪さを今更思い出しながら、朝陽の胸は不安でざわついていた。
今日で大晴は退院してしまう。母親が迎えに来たら、また前の生活に戻るのだ。出会う前の朝陽の知らない彼の生活に。別の学校で別の場所で、また交わること無くそれぞれの生活をただこなすのだ。
こうして、放課後に会うこともきっともう無いのだと思うと、思っていた以上に寂しさを覚えて仕方なかった。
どうにか繋ぎ止める何かを探しながらも、何かを言うことはできなかった。
きっと、朝陽が自分を責めなくて済むように友達になったのではないかと、そんな思考に至るのは自然なことだった。だったら、これ以上、関係を続ける必要性がどこにあるのだろう。
「あ、朝陽くんさ、前ラーメン好きって言ってたよね」
ぐるぐると巡る思考を言葉にできないまま立ちすくんでいると、大晴がにこりと微笑んだ。
「病院食って味気なくてさ、ガツンとしたもの食べたいって思ってたんだ。だから、一緒にどう? 退院祝いってやつ」
胸を締め付けていた寂しさが、さっと彼の笑顔に溶かされる。
朝陽は、すぐに頷いた。何度も何度も頷いて見せた。
「友達とご飯、憧れだったんだ」
あの日、出会わなければ今日は無かったのだと、大晴と話すことだって無かったのだと思うと朝陽の心はいつも不思議な感覚に襲われた。
平凡な日常にできた小さな秘密。それももうきっと隠すことも無くなるだろう。
大晴と彼の母親と三人で外に出ると、夕立はすっかり上がって雲間から光が差し込んで来ていた。
もう一度、深く深く息を吸い込むと、雨上がりの湿った香りが胸いっぱいに広がるのを感じた。




