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「君を愛することはない」と言うので無感情な仮面夫婦を演じていたら、ある日「もう限界だ!」と旦那様(氷の騎士団長)が豹変して激重感情をぶつけてきました。え、一目惚れって本当ですか?

作者: 秋月アムリ

「君を愛することはない」


 それは、夫となる人が私――エレナ=アークライトにかけた、最も冷たい言葉だった。



 アークライト公爵家の末娘である私は、この国の「氷の騎士団長」と恐れられるアシュトン様の妻となった。名ばかりの結婚。政略結婚という名の、凍てついた契約だ。


 アシュトン様は、見目麗しいが、常にその顔には一切の感情が張り付いていない。周囲は彼を「氷」と呼び、その冷徹な判断力と圧倒的な武力に畏敬の念を抱いていた。


(私の夫は、誰もが恐れる、感情を持たない氷の人……)


 結婚が決まった時、微かな希望を抱かなかったと言えば嘘になる。相手がどんな人であろうと、夫婦になるのだから、もしかしたら……という淡い期待。けれど、その希望は、結婚式の前に彼から向けられた、あの無機質な言葉によって粉々に砕かれた。


「君を愛することはない。これは互いの家のために必要な契約だ。情は挟まない」


 彼の翠色の瞳には、本当に何も映っていなかったように見えた。私という存在も、これから始まる夫婦生活も、彼にとってはただの駒、契約上の記号に過ぎないのだと理解した。


 だから、私も決めたのだ。彼が情を求めないなら、私も情を見せない。彼が無感情なら、私も無感情でいよう。この結婚を、ただ役割を果たすだけの「仮面夫婦」として生きることを。


(そうよ、これが、私にできる唯一のこと……)


 それから一年。私たちは完璧な仮面夫婦を演じ続けた。人前では礼儀正しく、部屋では必要最低限の会話以外は交わさない。同じ屋根の下に暮らしていても、まるで遠い異国の人のようだった。


 今夜も、アシュトン様と私は広い食堂で向かい合って座っている。テーブルの上には豪華な料理が並んでいるが、間に流れる空気は重く、冷たい。


 カチャリ、と静かにフォークを置く音が響く。アシュトン様だ。彼はいつも私より早く食事を終える。


「先に失礼する」


 感情の乗らない、しかし丁寧な声。私はそれに合わせて、同じように感情を排した声で返す。


「はい、おやすみなさい。アシュトン様」


 彼は何も言わず、静かに席を立った。その背中はいつも真っ直ぐで、隙がない。


(行ってしまった……)


 食堂を出ていく彼の背中を見送りながら、私はいつも心の中で溜息をつく。無感情な妻を演じることには慣れたけれど、やはり胸の奥には小さな痛みが残る。


 食器が片付けられる音を聞きながら、一人食堂を出る。向かうのは、アシュトン様と私の「別々の」寝室だ。


 この屋敷に嫁いできた初日から、私たちの寝室は分けられていた。団長夫妻として与えられた広大な区画の中に、並んで存在する、しかし決して行き来することのない二つの部屋。


(これも、あの契約のため……)


 私とアシュトン様の結婚は、アシュトン様個人の「氷の騎士団長」という地位に対する政略結婚だった。騎士団長の地位は世襲ではない。つまり、この結婚において、後継ぎは必要とされなかった。


 必要だったのは、彼の地位との繋がりと、騎士団長の威光に釣り合う「妻」という記号だけ。だから、夫婦としての実質的な関係など、最初から求められていなかったのだ。


 分かっていたはずなのに。


 結婚式の夜。私は与えられた、真新しい寝室で一人、寝台に座っていた。不安と、そしてほんの微かな、奇跡を願うような期待がない交ぜになっていた。もしかしたら、アシュトン様が来てくれるかもしれない。あの冷たい言葉は、ただの建前で、本当は……。


 けれど、どれだけ時間が経っても、私の部屋の扉が開くことはなかった。


 期待は露と消え、残ったのは胸を焼くような悲しみと、そして、訪れられなかった自分自身への拭いがたい羞恥心だけだった。


(ああ、私って、なんて馬鹿なんだろう……)


 その夜、私は決めたのだ。二度と、アシュトン様に対して何の期待も抱かないと。彼の言葉を信じ、感情というもの全てを心の奥底に封じ込めて、「無感情な妻」を演じきろうと。そうしなければ、きっと私は、この結婚生活に耐えられない。


 自室に戻り、寝台に横になる。この部屋も、私たちの心と同じくらい冷たい。結婚当初は、もしかしたら、いつかこの冷たい壁が溶ける日が来るかもしれない、と夢想したこともあった。けれど、もうそんな期待は抱かない。あの氷はもう、溶けたりはしないのだから。



 *



 数日後、私はドレスの採寸のため、仕立て屋を訪れていた。夫の騎士団の式典があるのだ。私も団長の妻として出席しなければならない。


 フィッティングルームで、体に合わせたドレスの裾を眺めていると、控え室から話し声が漏れ聞こえてきた。どうやら、アシュトン様の部下の騎士たちが偶然来ていたらしい。


「団長は本当にすごい方だが、鉄壁だよな」


「ああ、どんな状況でも感情を見せない。敵はおろか、味方の俺たちでさえ、何を考えているのかまるで分からない」


 騎士たちの声には、尊敬と同時に畏怖の色が混じっていた。彼らにとっても、アシュトン様はやはり「氷」なのだ。


(アシュトン様は、誰に対しても変わらない……)


 私だけが特別冷たくされているわけではない。その事実は、少しだけ心を軽くするような、でも、決定的に孤独を感じさせるような、複雑な気持ちにさせる。


 採寸を終え、店を出ようとした時、店の奥の通路を歩く見慣れた姿が見えた。アシュトン様だ。なぜここに? 式典用の新しい騎士服でも仕立てに来たのだろうか。


 ちらりとこちらに視線を向けた彼は、すぐに目を逸らした。そして私に気づいていないかのように、仕立て屋の主人と何やら真剣な顔で話していた。


 その表情は、普段の無感情な仮面とは少し違い、眉間に皺が寄り、口元が微かに引き結ばれている。何か考え込んでいる、あるいは悩んでいるような……?


(珍しい……アシュトン様にも、あんな表情をすることがあるのね)


 ほんの一瞬の光景。けれど、普段絶対に見せない夫のわずかな感情の揺れを見たような気がして、私の心臓が小さく跳ねた。


 彼に声をかけるべきか迷ったが、仕事の邪魔をしてはいけないと思い直し、私は静かに店を出た。


 あの時のアシュトン様の表情が、なぜか頭から離れなかった。ほんの少しだけ垣間見た、彼の人間らしい一面……。


 しかし、そんな小さな違和感は、続く日々の変わらない仮面夫婦生活の中で、すぐに溶けて消えていった。



 *



 私の夫、アシュトン=ハルベルトは、この国で「氷の騎士団長」としてその名を知らぬ者はいない人物だ。彼の外見は、その二つ名にふさわしかった。銀にも見える白金の髪は常に整然と撫でつけられ、光を宿さない翠色の瞳は、どんな時も冷静沈着で、まるで感情というものが宿っていないかのようだった。


 高く通った鼻梁、引き結ばれた薄い唇。どのパーツも完璧に整っているが、そこに人間的な温かさは微塵も感じられない。まさに彫像のような、美しいが触れがたい氷の彫刻。それが、私の夫だった。


 周囲は彼のことを「鉄壁」「感情を持たない完璧な騎士」と称賛する一方で、近寄りがたい雰囲気に恐れを抱いていた。彼の放つ冷気は、物理的なものではない。だが、その場にいるだけで、空気がピンと張り詰め、誰もが息を潜めるような、威圧感にも似た冷たさだった。


 そんな「氷」の騎士団長の妻である私は、当然、彼の隣で遜色ない振る舞いを求められた。求められるのは、団長の威厳を損なわない、控えめで、かつ無感情な存在だ。夫が「氷」なら、妻は純水のように透明でなければならない。


 私たちは、人前では模範的な夫婦を演じた。社交界では、寄り添い、微笑み、優雅にダンスを踊ることもある。けれど、その間に流れるのは、決して交わることのない、冷たい空気だけだ。


(これが、私たちの結婚……)


 馬車の窓から流れる景色を眺めながら思う。隣に座るアシュトン様は、分厚い書類に目を落としており、私の方を見ることもない。私と彼の間に、物理的な距離はない。すぐ隣に座っている。だが、その間に存在する心の壁は、どんな城壁よりも高く、厚かった。


 屋敷に帰ってからも、それは変わらない。


 夕食は、広大な食堂で二人きり。給仕がいない時は、完全な沈黙だけが響く。食器の触れ合う音だけが、この空間に生きているものの証のようだった。


「……今日の社交界は、滞りなく終わったな」


 食事が終わりかけた頃、アシュトン様が不意に口を開いた。必要事項の報告。それだけだ。


「はい。アシュトン様のおかげで、皆様も安心されたことでしょう」


 私も仮面を貼り付けた声で答える。感謝の言葉ですら、どこか他人事のように響く。


 彼は私の返事に特に反応することなく、立ち上がった。


「ご苦労だった」


 それだけ言い残し、足音も立てずに食堂を出ていく。まるで、最初からそこに居なかったかのような、完璧な気配の消し方だった。


(今日も……いつも通り……)


 残された私は、冷めかけたスープを前に、小さく息を吐く。


 彼と結婚して一年。無感情な妻を演じるのは、もう慣れた。彼の冷たさも、諦めた。きっと、このまま何十年も、私たちはこの冷たい屋敷で、冷たい仮面を被り続けて生きていくのだろう。感情を殺し、ただ、役割を果たすためだけに。


 騎士団の演習を視察する機会があった時も、彼の「氷」は揺るがなかった。厳しい訓練の最中、団員たちがどれだけ苦痛に顔を歪めていても、彼は微動だにしない。指示を出す声は冷静そのもの。完璧に統制された彼の指揮の下、騎士たちは規律正しく動く。その姿は、まさに「氷」が軍を率いているかのようだった。


(すごい人……でも、まるで人の心がないみたい……)


 畏敬の念を抱きながらも、どこか寂しさを感じる。あの人には、本当に何も響かないのだろうか。私の、この諦めきれない微かな痛みすら、きっと彼には届かない。


 あの仕立て屋で見た、一瞬の苦悶のような表情。あれは、単に見間違いだったのかもしれない。あるいは、仕事のことで悩んでいただけなのかもしれない。私の知るアシュトン様は、感情を顔に出すような人では断じてないのだから。


 なぜなら、その後もアシュトン様との日々は、以前と寸分違わぬ静けさの中で過ぎていったからだ。朝食、昼食、夕食。応接間での来客応対。たまの社交界。私たちはどこにいても完璧な「氷の騎士団長夫妻」だった。感情を持たない夫と、感情を見せない妻。誰が見ても、互いに干渉しない、円満(に見える)夫婦。


(私の人生はこのまま過ぎていくのかしら……)


 そう思うと、たまに胸が締め付けられるような痛みが走ったけれど、すぐに慣れた無感情の仮面を張り直す。痛みを感じないようにするためには、そうするしかなかった。


 ある日の夜。私は自室で読みかけの本を開いていた。いつもなら、アシュトン様は執務室に籠もっているか、早い時間に自室へ戻っているはずだ。けれど、今夜はまだ、この屋敷全体が、彼の纏う冷気のような、独特の緊張感に包まれている気がしていた。


 扉がノックされたのは、そんな時だった。


「私だ、エレナ」


 アシュトン様の声だった。


 珍しい。アシュトン様が、私の部屋を訪ねてくることなど滅多にない。必要な伝達事項がある時は、執事か近侍を介するのが常だった。


 不審に思いながらも「どうぞ」と返事をすると、ゆっくりと扉が開いた。そこに立っていたのは、紛れもないアシュトン様だった。


 いつもの黒い騎士服ではなく、館内でくつろぐための簡素な服を着ている。だが、その立ち姿はやはり隙がなく、近寄りがたい雰囲気は変わらない。


「夜分にすまない」


 彼の声は、いつもと同じく抑揚がなかった。ただ、どこか僅かに、普段より低いような気もした。


「いいえ。どうなさいましたか、アシュトン様」


 私も仮面の声で尋ねる。表情筋を一切動かさないように注意しながら。


 アシュトン様は何も答えず、数歩、部屋の中へ入ってきた。そして、本棚の前に立ち止まり、背表紙を眺めるような仕草をした。けれど、その視線が本に向けられていないことは、私にも分かった。


 彼の纏う空気が、普段とは違う。張り詰めているような、でも、今にも何かが壊れてしまいそうな、危うい気配だった。


(どうしたんだろう……何か、仕事で大変なことがあったのかしら……?)


 私は心配を顔に出さないように努めたが、内心は少しざわついていた。彼が、こんなにも感情(らしきもの)を匂わせているのは初めて見たからだ。仕立て屋での一瞬の表情よりも、ずっと強い感情の予感がした。


 沈黙が、部屋を満たす。秒針の音だけが、やけに大きく響く。私はどうしていいか分からず、ただじっと彼を見つめていた。彼が何かを言うのを待っていた。


 しかし、アシュトン様は何も言わない。ただ、そこに立っているだけだ。その背中は、いつもより少し丸まっているような、あるいは、何か重たいものを背負っているような……錯覚だろうか。


 どれくらいそうしていただろう。数分か、あるいはもっと短かったか。やがて、アシュトン様がゆっくりとこちらへ向き直った。


 その瞬間、私の心臓が文字通り跳ね上がった。


 彼の顔には、もはやいつもの「氷」はなかった。


 翠色の瞳は揺れ、苦悶に歪んでいる。口元はきつく引き結ばれ、白い肌は僅かに上気しているようにも見えた。そこにあるのは、私が一度たりとも見たことのない、生々しい、剥き出しの感情だった。


 彼は、私に、一歩、また一歩と近づいてくる。その足取りは確かだが、纏う空気は切羽詰まっている。まるで、追い詰められた獣のようだった。


 そして、私の目の前に立ち止まった時、アシュトン様は、絞り出すような、掠れた声で、言った。


「……もう、限界だ……っ」


 その声は、普段の彼の声からは想像もできないほど、感情が溢れ出ていた。苦痛と、切望と、そして……何か、張り詰めていたものが、今まさに断ち切られたような響きだった。


 彼の言葉が何を指すのか、私には分からなかった。仕事のことだろうか? それとも、別の何か? けれど、彼のその表情、その声が、尋常ではないことだけは理解できた。


 私の無感情の仮面が、ヒビが入るように崩れ落ちていくのを感じた。


 アシュトン様は、そのまま私を見つめた。その瞳には、もはや「氷」の欠片もない。あるのは、激しい、どうしようもない感情の炎だった。それは私を焼き尽くすかのような、あるいは、私だけを映し出すかのような……強烈な想いの色をしていた。


 そして、彼は、その感情の奔流を、堰を切ったように私にぶつけ始めたのだ。


 アシュトン様の、感情に塗れた声が響く。


「限界なんだ……っ!」


 その言葉の響きに、私の無感情の仮面は完全に砕け散っていた。目の前の人物が、普段の「氷の騎士団長」と同一人物だとはとても思えない。 彼の翠色の瞳には、見たことのないほどの熱が宿っている。


 彼は、震える指で私の手の甲に触れた。その手は、剣を握る時のように力強く、でも、私に触れることにおそるおそる躊躇しているようにも見えた。


「すまない……。君を、驚かせた……」


 掠れた声で、彼は続けた。


「私はあの日……『愛することはない』……そう、言ったな」


 はい、と答える代わりに、私はただ小さく頷いた。あの時の彼の冷たさを思い出し、胸がずきりと痛む。


「あれは……嘘だ」


「え……?」


「いや、嘘ではないが……あれしか、言えなかった……」


 嘘……? 私の頭の中は混乱でいっぱになった。彼の言葉の意味が全く理解できない。


 アシュトン様は、苦しげに息を吐いた。彼の視線が、私から外され、宙を彷徨(さまよ)う。


「初めて君を見た時……」


 彼の言葉に、私は息を呑んだ。初めて……


(あの時のことだわ……私が、公爵家を代表して、騎士団長であるアシュトン様に引き合わせされた、あの謁見の間……。


 張り詰めた空気の中、私は父に連れられて玉座の間に進み出た。私の未来を決める、重要な瞬間だった。少しでも失礼があってはならないと、緊張で体が硬くなっていた。


 そして、そこに立っていたのが、彼だった。既に「氷の騎士団長」としての威厳を纏い、感情の一切を排したような、彫刻めいた美しさ……私が、これから契約を結ぶ相手。


 私は、公爵家の三女として、政略結婚の駒となるべく育てられてきた。求められる役割は理解していたつもりだった。ただ、その人が、こんなにも……。


 あまりに近寄りがたく、あまりに完璧で……まるで、同じ人間だと思えなかった。


(私は、精一杯の礼儀を尽くして、彼を見た。政略結婚の相手として、ただ、自分の役割を受け入れようと、真っ直ぐに……)


「……頭が、真っ白になった」


 そう言った彼の声は、絞り出すような、痛みを堪えるような響きだった。私の独白と重なるように、彼の告白が続く。


「息も、できなかった。視界には、君しか映らなくなった。ただ、真っ直ぐに、私だけを見ている君が……」


 彼の瞳が、再び私を捉えた。その熱は、さらに増しているように感じた。あの時の私には全く気づけなかった、彼の内面の嵐。


「騎士団長として、氷として振る舞うことに慣れすぎていた。自分の感情を、全て押し殺して生きてきた……だが、君を見た瞬間に、それは、全て崩壊した……!」


 彼の言葉は、私の知っているアシュトン様とは全く結びつかない。氷のように冷静で、感情に左右されない人。それが、彼だったはずだ。


「あまりに、強すぎた……この感情が、あまりに激しすぎて、どうすればいいか、分からなかったんだ……っ」


 彼は、もう片方の手で顔を覆った。まるで、自分の感情の激しさに耐えきれないかのようだった。


「愛おしいと思った……守りたいと思った……その全てが、まるで津波のように押し寄せてきて、私は……恐ろしくなったんだ……」


 恐ろしく? 彼が? あの、誰をも恐れさせ、恐れるものなど何もないように見える氷の騎士団長が、自分の感情に恐ろしくなったというのだろうか?


「こんな感情を、君に向けていいはずがないと……思った。汚してしまうと……私のような、血で汚れた腕を持った者に、感情を殺して生きてきた人間に、君のような、清らかな存在が触れていいはずがないと……っ」


(清らかなって……)


 彼が私に対してそんな風に思っていたなんて、想像もしていなかった。私はただ、政略結婚の駒で、無感情な妻を演じることしかできない存在だと、自分自身でも思っていたのに。


「だから……だから、言ったんだ。『愛することはない』と……そうすれば、君は私に期待しないだろう。情を持つこともないだろう。そうすれば、私は……君から、逃げられると……っ」


 彼の声が震えている。顔を覆った指の間から、微かに濡れたものが見えたような気がした。


「だが……愚かだった。君が無感情の仮面を張り付けているのを見るのが、どれだけ辛かったか……っ」


 彼は顔から手を放し、改めて私を、その感情に濡れた瞳で見つめた。


「君が、あの時の私の言葉を真に受けて、私から心を閉ざしてしまったのだと……そう思って、毎日、息をするのも苦しかった……っ」


(私が……心を閉ざした……?)


 彼の言葉は、私の行動が彼を苦しめていたのだと告げている。彼が冷たいから、無感情になったのに。彼が拒絶したから、私も心を閉ざしたのに。その全てが、彼にとっては逆に映っていたということなのか?


「わかっている。これは、自らの業が返ってきているだけだ……わかっているんだ。だが! 君が、私ではない誰かと話すのを見るたび、胸が焼かれるようだった……君の視線が私以外の誰かに向かうたび、この手で引き裂いてしまいたい衝動に駆られた!」


 彼の声には、激しい独占欲と、狂おしいほどの愛情、そして深い苦痛が混じり合っていた。


「夜、隣室から君の微かな寝息が聞こえてくるだけで、駆け寄って抱きしめてしまいたくなった……だが、私は、自分で築いた『愛さない』という壁に阻まれて、一歩も動けなかった……っ」


 彼の告白は、私にとってあまりに衝撃的だった。私が「氷」だと思っていたこの人は、私の知らぬ間に、私に対する激しい感情を抱え込み、一人で苦しみ抜いていたのだ。


「毎日が、地獄だった……君が、私の作った偽りの言葉を信じて、私から遠ざかっていくのを見ているのが……」


 彼は私の両手を取った。その手は、氷ではなく、燃えるように熱かった。


「もう、無理だ。これ以上、自分を偽り、君の心を無視することは……できない……っ」


 彼の瞳には、涙が滲んでいる。大粒のそれが、今にも溢れ落ちそうだった。


「愛してる……っ! 一目みたときから、ずっと! ……君を、愛しているんだ……っ!!」


 絞り出すような、魂の叫び。その言葉は、私の心の奥底にまで響き渡った。


(え…………?)


 声にならない声が、頭の中を駆け巡る。彼が言ったことの全てが、信じられないような、でも、彼の今の様子を見れば信じざるを得ないような、混乱と驚きの中で、私はただ立ち尽くしていた。


 アシュトン様の、文字通り魂からの叫びが、私の鼓膜を震わせる。


「愛してる……っ! 初めて会った時から、ずっと……君を、心から、愛しているんだ……っ!!!」


 彼の燃えるような瞳、熱い手、そして、痛みに歪んだ顔。その全てが、彼の言葉が偽りでないことを物語っていた。あまりに突然の、あまりに衝撃的な真実に、私の思考は停止したままだった。


(一目惚れ……? 嘘……本当に、アシュトン様が……私に……?)


 信じられない。だって、彼は、氷の騎士団長。感情を持たない人。私を愛することはない、と最初に告げた人……。


 それが、実は私のことを、会った時からずっと、こんなにも激しく愛していたなんて。


 私の目からも、ポロポロと涙が零れ落ち始めた。それは悲しみでも、苦しみでもなかった。あまりの驚きと、そして、もしかしたら……という、心の奥底で押し殺していた希望が、堰を切ったように溢れ出したものだったのかもしれない。


 アシュトン様は、私の涙に気づくと、さらに苦しげな表情になった。


「泣かせて……しまった……やはり、私は……っ」


 彼は私の手を離そうとした。きっと、自分は彼女を泣かせるだけの存在なのだと、また心を閉ざそうとしたのだろう。


 けれど、私は反射的に、その手を掴んだ。彼から離れないように、縋りつくように。


「まって……っ」


 掠れた声が出た。涙声で、情けない響きだったかもしれない。


 アシュトン様は、驚いたように目を見開いた。私が、彼に触れること、ましてや自ら手を掴むことなど、これまでの仮面夫婦生活ではあり得なかったからだろう。


「本当……ですか……?」


 震える声で、私は尋ねた。確認せずにはいられなかった。あまりに都合の良すぎる、夢のような話に、現実感が伴わなかったのだ。


 アシュトン様は、私の言葉に、力なく頷いた。


「ああ……本当だ……っ」


 その声は、もはや「氷」の欠片もない、ただの、私のことを愛する一人の男の声だった。


「君を、見た瞬間に……全てを投げ捨てて、君だけを奪ってしまいたいと……そう、思ってしまった……」


 彼の告白は続く。その激しさは、私の想像を遥かに超えていた。


「騎士団長の地位も、家の名誉も、全てどうでもよくなった。ただ、君が欲しいと……それしか、考えられなくなった……!」


(そんな……)


 彼が、そんなにも私のことを……? 私が知っていたアシュトン様は、職務に忠実で、国の平和を第一に考える、清廉潔白な騎士だったはずなのに。


「だが……っ」


 彼の声が、再び苦痛に歪む。


「そんな自分が……恐ろしかった。こんなことは初めてだったんだ……この、制御できない感情が、君を傷つけるのではないかと……だから、突き放すしかないと……そう、信じ込もうとしたんだ……」


(ああ……だから……)


 全てが繋がった。彼が私を愛さないと言ったのも、仮面夫婦を演じ続けたのも、全ては彼なりの、私を守るための、あるいは自分自身の感情から逃れるための行動だったのだ。そして、その行動こそが、私たちをお互いから遠ざけ、彼自身を苦しめていた。


「君が無感情に見えた時……どれだけ、胸が張り裂けそうだったか……君は、私の言葉を真に受けて、私を拒絶したのだと……もう、二度と私の感情が君に届くことはないのだと……絶望していたんだ……っ」


 彼は、私の手を強く握り直した。その熱が、直接心臓に伝わってくるようだった。


「毎日、君の隣にいるのに……触れることも、話しかけることも、ただ見つめることさえ、許されないかのように感じて……っ。君の、あの無感情な瞳を見るたび、自分が君をこんなにも傷つけてしまったのだと、後悔に苛まれた……っ」


 彼の言葉の一つ一つが、私の胸に突き刺さる。私が無感情を演じていたのは、彼が私を愛さないと言ったからだ。


 彼が冷たい仮面を被っていたのは、彼が私を愛しすぎたからだ。


 私たちは、お互いを想うあまり、全く逆の方向に進んでしまっていたのだ。


(なんて、すれ違い……)


 馬鹿みたいだ。お互いに、こんなにも近くにいたのに、一番大切な感情を隠し通して、苦しんでいたなんて。


 私の涙は止まらなかった。けれど、それはもう悲しみの涙ではなかった。安堵と、理解と、そして……彼も同じように、いや、私以上に深く苦しんでいたのだという事実に触れた、痛みを伴う温かい涙だった。


「アシュトン様……」


 彼の名前を呼んだ。仮面を外した、私の本当の声で。


 彼は、私の名を呼ばれたことに驚いたように、再び瞳を見開いた。そして、その翠色の瞳は、微かに光を帯びた。


「……ああ」


 彼は私の涙を、そっと指先で拭った。その指先は優しく、そして震えていた。


「君も……苦しんで……」


 彼の声は、尋ねるような、確かめるような響きだった。


 私は頷いた。正直に、偽りなく。


「はい……アシュトン様が、私を愛さないと言ったから……私も、心を閉ざしました。愛されないなら、期待しない方が、傷つかないと思ったから……」


 私の告白を聞きながら、アシュトン様は顔を歪ませた。後悔と自責の色が濃い。


「…………私が、エレナ、君を……こんなにも、傷つけていたなんて……っ」


 彼は私の両手を引き寄せ、そのまま私を、強く、壊れそうなくらい強く抱きしめた。


 彼の体温が、私の体を包み込む。硬いはずの彼の腕は、驚くほど優しかった。彼の胸に顔を埋めると、鼓動が速く、力強く響いているのが分かった。それは、彼が生身の人間であること、そして、私に対してどれほど激しい感情を抱いているかの証だった。


「すまない……本当に……っ。もう、二度と……君から目を離さない。君の心を、無視しない……っ」


 彼の声は、私の頭上で震えている。もう、あの「氷」の欠片もない。あるのは、後悔と、そして、私への溢れんばかりの愛情だけだった。


 彼は自らを責め続けているが、私にだって責はあるのだ。たった一度の拒絶の言葉で殻に閉じこもり、彼に……「夫」に歩み寄ろうとしなかった。所詮自分は「駒」だという諦めが招いた事態だったかもしれない。


「ごめんなさい……私も……もっと貴方と言葉を……心を交わすべきでした……」


 私も彼の背中に腕を回し、しっかりと抱きしめ返した。冷たかった仮面の下に、こんなにも温かい心があったなんて。そして、その心が、私のことをこんなにも深く愛してくれていたなんて。


 私たちは、しばらくの間、ただそうして抱きしめ合っていた。誤解とすれ違いの長い年月が、この瞬間に溶けていくかのようだった。


 やがて、アシュトン様がゆっくりと私を離した。彼の目は、まだ涙の跡が残っているが、以前のような苦悶の色は消え、代わりに深い安堵と、そして確かな愛情の光が宿っていた。


「エレナ。私は、最初の日から……君に、夢中だった」


 彼は私の髪に触れながら、改めて、静かに告げた。その声には、もはや迷いはなかった。


「君の全てが、私を惹きつけた。強く、清らかで……そして、誰よりも美しい……」


 顔が熱くなるのを感じた。彼から、これほど真っ直ぐな愛情の言葉を向けられるなんて、夢にも思わなかった。


「もう、偽る必要はない……私たちは……これからは、本当の夫婦だ……っ」


 彼はそう言うと、私の唇に、そっとキスを落とした。それは、これまで経験したことのないほど優しく、そして、深い愛情が込められたキスだった。彼の唇は温かく、私の凍てついた心をゆっくりと溶かしていくようだった。


 私たちは、長いすれ違いを経て、ようやく本当の場所へ辿り着いたのだ。氷の仮面は溶け、そこに現れたのは、激重な愛を抱えた一人の男性だった。そして、その愛は、無感情を装っていた私の心にも、確かな熱を灯してくれた。


 二度と期待することはないと思っていた、甘やかな未来が、今、目の前に開かれている。私は、アシュトン様の真実の愛に、そっと目を閉じた。これからの日々は、きっと、あの氷の仮面の下に隠されていた、温かさで満たされるのだろうから。



 *



 あの夜以来、私たちの関係は一変した。


 まるで、長い冬が終わり、突然春が訪れたかのようだった。いや、春というより、真夏かもしれない。アシュトン様の私への愛情表現は、「氷の騎士団長」という過去の二つ名が嘘のように、激しく、そして重かった。


 翌朝、目を覚ますと、すぐ隣にアシュトン様の顔があった。普段、私が起きる前にとっくに執務へ向かっているはずの彼が、私を覗き込むようにして寝台に横たわっていたのだ。


「おはよう……ございます……」


 寝起きの掠れた声でそう言うと、アシュトン様はホッとしたような、安堵したような顔で、私の額にキスをした。


「ああ、おはよう、エレナ。気分は……大丈夫か?」


 心配そうに尋ねる彼の瞳には、もうあの「氷」のかけらもない。ただ、私を気遣う、温かい光だけがあった。


「はい。大丈夫、です」


 まだ少し恥ずかしくて、視線を逸らす。すると、アシュトン様は私の手を取った。


「そうか……よかった」


 彼はそのまま、私の手を握りしめた。朝食の時も、執務へ向かう準備をする間も、何かにつけて触れてくる。前夜、あんなにも感情を爆発させた反動だろうか、私の存在を確かめるように、何度も何度も触れてくるのだ。


(本当に……私のこと、あんな風に思ってくれてたんだ……)


 昨夜の告白を思い出すと、まだ夢を見ているような気分だった。私が無感情を演じれば演じるほど、彼を苦しめていたなんて。彼が私を愛さないと言ったのは、私を愛しすぎて、どうすればいいか分からなかったからなんて。


「あの、アシュトン様……」


 意を決して、私は呼びかけた。


「昨夜のこと……本当に、一目惚れ、だったのですか?」


 改めて尋ねると、アシュトン様は少し照れたように、でも真っ直ぐに私を見た。


「ああ。初めて君を見た時、この世界の全てが君になったかと思った」


 真っ赤になりそうだ。こんな甘い言葉を、あの「氷の騎士団長」から聞くなんて、誰が想像できただろう。


「あまりに衝撃的で、どう処理すればいいか分からず……結果、あんな愚かな行動に……」


 彼はそう言って、後悔の色を滲ませる。


「私が、心を閉ざした時も……辛かったでしょう?」


 尋ねると、アシュトン様は私の手を両手で包み込んだ。


「辛かった……っ。毎日、目の前にいるのに、遥か遠くに感じて……。君の、あの無感情な顔を見るたび、自分がどれだけ取り返しのつかないことをしたのかと、心臓を抉られるようだった」


 その声は、まだ痛みを帯びていた。あの長い一年が、彼にとってどれほど過酷だったか、今なら痛いほど理解できる。


「私も……辛かったです」


 偽りなくそう伝えると、アシュトン様は私の手をさらに強く握りしめた。


「何度謝っても足りないが……本当にすまなかった。もう……二度と、君を一人にしない。君を、悲しませない」


 彼の決意のこもった声。その言葉に、私の心は温かさで満たされる。


 これまで、この屋敷の空気は、アシュトン様の纏う冷気のように、どこか張り詰めていた。けれど、今は違う。食堂で向かい合って座る時も、応接間で共に過ごす時も、彼から発せられるのは、隠しようのない私への愛情だった。


 彼は、以前にも増して私を見るようになった。その視線には、熱と、独占欲と、そして深い安堵が混じっている。まるで、失っていた宝物を見つけたかのようだった。


 社交界では、まだ仮面を被ることもあるかもしれない。けれど、二人きりになった瞬間、彼はすぐに私の手を求めるだろう。あるいは、抱きしめて離さないだろう。


「アシュトン様、少し……近すぎます」


 読書をしている私の肩に顔を埋めてくる夫に、私は苦笑する。


「いやだ……」


 子供のように駄々をこねる声。あの「氷の騎士団長」の姿からは想像もできない姿だ。


「君が、私の目の届かない所にいるのが嫌だ……」


 腕に力がこもる。この重すぎる愛情表現には、まだ少し慣れないけれど……でも、嫌ではなかった。むしろ、心地よかった。


(これが……アシュトン様の、本当の姿なんだ……。


 仕立て屋で、ほんの一瞬だけ見せた、あの苦悶のような表情……あの時、私は仕事の悩みかしらと思ったけれど、違ったんだわ。


 あれはきっと、あの場所で偶然私を見てしまって、この隠し通している感情が、もう限界だと、そう感じていた時のお顔だったのね……)


 氷の仮面の下に隠されていた、激重な、けれど純粋な愛情。それを全身で受け止めながら、私は静かに目を閉じた。


 長い冬は終わった。これからは、この温かさに満たされた日々が続くのだろう。


「愛しています、アシュトン様」


 彼の肩に顔を寄せ、私はそっと囁いた。


 すると、彼の体がびくりと震え、強い力で抱きしめられた。


「……っ、ああ……っ、私もだ……っ! 愛してる……、愛してる……っ!」


 何度も繰り返される愛の言葉。その熱に、私は全身を委ねた。


「君を愛することはない」から始まった偽りの結婚は、激重な一目惚れという真実によって、最高の形で終わりを迎えた。


 そして今、私たちは、この溢れる愛情と共に、本当の夫婦としての物語を歩み始めたのだ。



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