二話 花冷え 中
「なんだったんだろ、あれ」
夏希の言葉に、絢音は無言でうなずいた。
廊下を歩く足は止めないまま、四人は駄弁っていた。廊下には他にも三、四つの女子グループが笑い声をあげている。これ以上ないほど楽しそうに、一晩経てば忘れるようなつまらないことを喋っている。話しているのはたぶん、軽口か悪口だ。
「あの人は柊木華墨さんだよ。華やかの華に、習字に使うあの墨で、華墨。三年六組で整美委員会、部活は美術部なんだって。成績は中の上ってところかな」
「なんで知ってるの?」
のぞみのすらすらとした説明に、夏希が素直な疑問をぶつける。
「さあ? なんででしょう」
のぞみはにやりと笑ってしらばっくれた。得体がしれない。ちょっと怖気づく絢音と夏希に、美湖がおっとりと口を開く。
「それにしても、珍しくない? 名前の漢字」
「まあ、確かに、墨ってねー」
「あんまり名前に使わないよねー」
「誰が名前つけたんだろ。やっぱ親かな?」
「もうちょっと子供のこと考えてつけろよって感じ。絶対からかわれるでしょ、あんな名前。せめて漢字はなんとかしてやればいいのにさー」
絢音は少しぎくりとして、夏希を見る。彼女は言葉がきついときがある。
しかし、大規模な女子グループにいれば、このような言葉は日常茶飯事だ。彼女らにとって、これは悪口ではなく軽口なのだろう。他の女子グループには近づきさえせず、小一の頃からずっと夏希と共にいる絢音にとっては、それらの言葉は過激に聞こえる。三人は比較的そういった言葉は使わない。
夏希はいわゆる活発な女子だ。ぼさぼさの髪を一つに括り、気の強そうなきりりとした顔立ちをしている。小学生の頃は、男子と一緒に泥んこになって運動場を駆け回っていた。目つきが悪く、何かの物語に登場する、主人公のライバルのような容姿をしている。
そんな見た目とは対称的に、夏希はとても情が濃かった。典型的な友達想いだ。今の発言も、話したこともない華墨への同情だった。
「そうかな?」
のぞみが首を傾げた。制服の赤いリボンがわずかに揺れる。
「それって、名前をつけた人じゃなくて、いじめるほうが悪くない?」
のぞみは銀縁の眼鏡をかけた、いかにも優等生という雰囲気の少女だった。長い黒髪は癖がなくまっすぐで、その長身には制服がよく似合った。夏希が主人公のライバルなら、こちらは親友の立ち位置だろう。
真面目で頭脳明晰な彼女だが、夢見がちな一面もある。この前など、一時間ほど恋愛について熱く語られた。
「そりゃそうだけど、いじめなくすなんて無理だし。それなら名前をつける側が頑張れば? って感じ」
「出たー、夏希お得意の超速諦め」
「は? 喧嘩売ってんの?」
「そっちこそ喧嘩売ってるじゃん。夏希みたいな人がいるからいじめはなくならないんだって」
「のぞみってほんと気持ち悪いくらいのいい子だよね。ハコイリムスメってやつ? もっと現実を見てくださいな、のぞみお嬢さま」
「やっぱり喧嘩売ってきてるの、絶対そっちのほうだって。ねえ、絢音と美湖はどう思う?」
二人同時に詰め寄られ、絢音はうろたえた。
夏希とのぞみがぶつかるのはしょっちゅうあることだ。だが、喧嘩するほど仲が良いというように、二人は言い争うが結局は互いのことが大好きなのだ。
友達同士の言い争いといえばくだらないものを思い浮かべるが、この二人の場合は特殊で、たまに今のような妙に深刻な話になる。
しかし、意見を求められると、絢音は困ってしまう。
絢音はどちらとも良好な関係を築きたい。どちらか片方だけを否定したくない。
そこにあるのは、相手を傷つけたくない優しさなどという美しい感情ではなく、単に嫌われることを恐れているだけ。そのことを、絢音は重々承知している。今更直すことはできないだろう。
二人とも、そんなことで絢音を嫌うはずがない。しかし、絢音は臆病だった。
「二人はどう思うの?」
もう一度問われ、絢音は口ごもる。
どちらも正論に聞こえる。夏希の考え方ものぞみの考え方も理解できた。だから、何も言えなかった。
夏希が気遣うように絢音の顔をのぞき込んだが、それより早く、美湖はすぐさま自分の意見を述べた。
にこっと愛らしい笑みを浮かべ、美湖はぱちんと両手を合わせた。
「私はねぇ、どっちにも反対!」
「「「ええっ!?」」」
想定していなかった答えに、三人は思わず素っ頓狂な声をあげた。
「な、なんで?」
「だって、どうでもいいもん、他人の名前なんて」
「た、他人って……」
夏希がじりじりと後ずさる。のぞみは困ったように眉を下げて、美湖の無邪気な瞳を見つめた。
「別に、私たちに害がなければそれでいい。自分で先生に言うなり親にいうなりなんなりしたらいいじゃん。そんなの、関係ないし、どうでもいい。違う?」
美湖に悪意はない。どこまでも無垢だ。本気でそう思っているのだ。
美湖は女の子という生き物を凝縮したかのような外見をしている。内巻きの髪はやや茶色がかっていて、目は大きくぱっちりとしている。物語でいうなら、主人公。
その性格は、小柄で可愛らしい容姿と同じく、一見心優しい。が、実際は違う。
そのことに気づいたのは、知り合ってからほぼ一年が経った頃だった。彼女の本性を知っても、絢音は何も思わなかった。美湖は自分の大切な人には、とても優しいから。そして、絢音は美湖の大切な人だから。
「それで、絢音は?」
三人の視線が絢音を貫く。純粋な好奇心が痛かった。絢音は答えられない。誰にも肩入れしたくない。怖い。嫌われるのが、たまらなく怖い。
見かねた夏希が、何か言いかけたときだった。
「大丈夫、大丈夫だって」
どこかから、聞き覚えのある声が聞こえた。
のぞみがはっとして足を止めた。
「これ、瑠璃先輩の声だ」