一話 花冷え 前
「……なので皆さんには、ぜひこのような学校生活を送っていただきたいと思います。……これで終わります」
その一言を校長が発した瞬間、盛大な拍手がその場を包んだ。欠伸が出るほど長ったらしい、ありがたいお話に飽き飽きしていた全校生徒にとって、式辞の終わりの言葉は待ち侘びていたものだった。
絢音は息苦しい制服を脱ぎたい衝動に駆られながら、それでも手を打ち合わせていた。
式場の体育館の開いた扉から、小学校の廊下よりずっと広い廊下が見える。床は見慣れた色ではない。教室の数も、生徒の数も、まったく違う。
よく通る声で、司会の教師が何かを話しているが、それは脳内で意味を成す前に、右耳から左耳へと流れ出していく。
絢音はぼんやりと他の生徒を眺めた。真剣に話を聞く生徒が十五パーセントほど。隣の人と愚痴をささやきあっている生徒は五パーセント。そして、残りの八十パーセント以上は、つまらなさそうな顔をして、自分の世界に入り込んでいる生徒だ。
絢音もその中に含まれていた。眠たくてたまらなかった。
しかし、体育館の端のほうでは、母親がじっと目を光らせている。礼儀正しさに口うるさい彼女に叱られないよう、背筋だけは伸ばしておく。
入学式って、なんのためにあるのだろう。ただ面倒くさいだけじゃないか。絢音はなんとなく右前を見やり、目を細めた。真面目な面持ちで、熱心に話を聞く少女の制服には、白い糸がジグザグ模様を作っている。
しつけ糸を取り忘れていることに、少女はまったく気づいていない。たぶん、後で友人にからかわれるだろうな、と他人事のように思う。実際、他人事なのだから。
「続いて、在校生代表、生徒会長出水瑠璃から、新入生への言葉」
進み出てきたのは三年生の少女だった。いかにも頭のいい清楚系女子に見える。しっかりしていそうで、同時に優しげな雰囲気も纏っている。生徒会長という肩書にも納得してしまうほどの優等生オーラだ。
その顔立ちはなかなかの美人に分類される。なんとなくむっとし、絢音は視界を狭くする前髪を指先で気障に払い除け、ちょっと顔の角度を変えてみた。だからといって、この平凡な顔が美しくなるわけがないのだが。
入学式がようやく終わり、それから一週間後、多目的室に新入生は集まった。生徒会やその他委員会、部活動などの紹介があるらしい。
手の中のくしゃくしゃになった紙には、生徒会員紹介、とやたら丸っこい字で書かれていた。
その下に続く名を目でなぞる。どうやら役職に関係なく、名簿順のようだ。安達健人。阿部蒼汰。出水雲母。出水瑠璃。大谷麗子。大西莉佳。……出水雲母?
絢音は思わず二度見した。
雲母。なんて読むんだ。普通に読めば「うんも」だが。うんもちゃん……ありえなくはないが、違う気がする。「うんぼ」、「くもぼ」……いや、これはない。「くも」とか? いや、「くもも」という線も。あとは、「くもは」……うん、これだ、くもはちゃんだ。
姓からして、瑠璃の姉か妹だろう。
そう思い、絢音は体育座りをして前を向く。
「では、生徒会員紹介をします。私は生徒会長の出水瑠璃です。この学校をさらによくしていくために頑張ります」
ぱちぱちとまばらな拍手が送られる。瑠璃はちょっとはにかみ、手に持った紙に目を戻す。
「続いて、副生徒会長、書記、会計の紹介です」
すっと四人の男女が立ち上がった。その中の一人に、絢音の目は吸い寄せられた。
鼻筋が通っていて、切れ長のまぶたにはめ込まれた瞳は宝石の如く輝いている。柳のようにくびれた腰、しなやかな手足。そして、大きく曲線を描く胸。全体的に子供っぽく平べったい絢音は、ちょっと頬を赤らめた。
よく見ると、その顔立ちはとても出水瑠璃に似通っている。この少女のほうがずっと垢抜けているが、顔の造形は瓜二つだ。双子なのかもしれない。
そう考えると、「出水雲母」という文字が頭に浮かぶ。きっとこの人が出水なんとかさんなのだろう。
少女は優雅な動きで絢音たちの前に来た。目にかかりそうになる髪を耳にかける仕草さえ、どこか妖艶に見えた。
「副会長を務める出水雲母です。至らないところもあるかと思いますが、どうかよろしくお願いします」
きらら。まさかのきららだった。
予想外の名に絢音は目をぱちくりさせた。
「きららだってー。ね、夏希は読めた?」
「はあ? なにそれ、絶対読めない」
斜め前に座っている美湖と夏希がささやきあっている。田村美湖と柳夏希。二人は絢音の親友だ。小学校に入ってすぐに仲良くなった。
中学生になり、関係がどうなるのか不安だったのだが。一年生の間は配慮してくれるらしく、三人一緒のクラスだった。不登校生が急増している今、どんな手を使ってでも学校に来させたいのだろう。
「私は読めたよ、雲母」
西園寺のぞみがにこりと笑って話に加わる。彼女もまた、絢音の大切な友人で、同じクラスにさせられた。
「えーっ、のぞみすごーいっ」
「なんで読めんの?」
「だって、雲母の別名は雲母だし」
「ウンモ? 何なのそれ」
「知らない? マイカの和名だよ」
「マイカ? マイカって……?」
夏希の頭の中ではクエスチョンマークが飛び交っていることだろう。絢音は雲母、またはマイカという鉱物の名は知っていた。ただ、きららという別名は知らなかったので、密かに感心する。
「えー、続いて、委員会の紹介を……」
瑠璃がそう言いかけたときだった。
がたん。激しく椅子が倒れる音がした。音のしたほうを見ると、一人の少女がうずくまっていた。
「華墨、」
瑠璃が思わずといった様子で声を出す。驚きと心配が隠せていない声だった。
少女は耳を両手で押さえ、うつむいて震えていた。空恐ろしいほど白い足がスカートからのぞいている。
「華墨、どうしたの。華墨ってば」
瑠璃は何度も少女の名を呼んだ。華墨というのが彼女の名らしい。
華墨がわずかに顔をあげた。黒目がちな瞳が、上目遣いに瑠璃を見る。その拍子に、長い黒髪が肩から滑り落ちた。
「華墨? どうしたの……?」
華墨は答えない。何かを堪えるように唇を噛み締める。そのまま、おもむろに右手を動かした。指を曲げる。鋭く伸びた爪が光った。
「華墨!」
悲鳴にも近い叫び声をあげ、瑠璃は華墨に飛びついた。その右手を強く掴み、華墨の動きを止めると、そのまま引っ張って無理やり立たせる。
「い、嫌! いやっ!」
泣きじゃくる華墨を、瑠璃は優しく抱いてなだめた。自然体を装ってはいるが、彼女は激しく焦っているようだった。
「大丈夫、大丈夫だよ。そばにいるから、だから、」
瑠璃はそこで不自然に言葉を途切れさせた。その目線が一瞬絢音たち新入生に向く。
彼女はすぐに華墨に目を戻したが、新入生たちに内容を聞かせたくなくて、黙り込んだのは明らかだった。
華墨は瑠璃の胸に顔をうずめ、へたり込んでいる。瑠璃もそれに合わせるように膝を折っていた。華墨は嗚咽を漏らしている。瑠璃の首に腕を回す、まるで縋りつくように。
瑠璃はちらりと教師たちを見た。彼らは苛立っているようだった。
「早くあっち行ってくれません? 時間がないんですけど」
「す、すみません」
謝るのは華墨ではなく瑠璃だ。狼狽し、辟易した声の彼女に、教師は少し表情を和らげた。
「別に、出水さんに言っているわけじゃありませんよ」
慰めのような言葉に、瑠璃はさらに困った顔をして、雲母のほうを振り向いた。
「ねえ、ちょっと離れていい?」
「え? ここはどうするの」
「雲母がなんとかしてよ」
「ん、」
肯定とも否定とも言えない短い返事を、瑠璃は肯定と受け取ったようだ。「ほら、立てる?」と声をかけながら、華墨を連れてどこかへ行った。
残された一年生は戸惑ってざわめいていた。三年生は呆れたような顔をし、二年生はこの場にいない。「はーい、静かにー」という雲母の声で一瞬にして騒ぎは収まる。
「じゃ、図書委員さん、紹介をどうぞ」
まだ落ち着かぬ顔をしながらも、三つ編みをした少女がカンペをポケットから取り出した。
そうして、何事もなかったかのように再開された。
「花冷え」とは、桜が咲く頃に冬の寒さが戻ってくることだそうです。
詩的で美しい響きなのに、あまり良くない意味ですね。
ただ、花冷えが起こると、桜の生長が遅くなり、より長く花を見られるとか……。