十三話 陽炎 後
また更新が遅くなりました。すみません!
これからもどんどんゆっくりになっていくと思われますが、気長に待っていてください……。
ぷんと漂う画材の匂い。様々な色が飛び散ったカーテン。鼻を刺激するマニキュアの匂い。合わせられた机に散らばったトランプ。美術室は美術室らしく、でも美術部員は美術部員らしくない。
別にいけないことだとは思わない。彼女らは、絵を描くためにここに来たわけではないから。それは絢音だって同じだから。
「あ゙ぁっ、そこはやめろって!」
「やめるわけないでしょー? ……あっれー、揃っちゃったなァー、これでもう八組目だなァー」
「あ゙あ゙あ゙あぁぁーっ!」
「こら雲母、いじめないの」
「ははっ、唯一憶えてたとこをひっくり返されたパターンね、どんまいどんまい」
教室の隅では神経衰弱を楽しんでいる人たちがいる。頭を抱える星矢、慰める瑠璃、次々当てていく雲母、馬鹿にしたように笑いながら飄々としている寧々花、この四人で構成されたグループだ。
雨は絵の具で戯れている。絢音は、絵の具買うお金は大丈夫なのかなぁ、だなんて呑気に考える。
一見仲間外れにされているように見えるが、実際は皆がしつこく誘っていたのを雨がしつこく断っていただけだ。
「絢音ちゃんも来る?」
瑠璃がにこりと微笑んで手招きした。そこに寧々花が割り込んでくる。彼女はハートのエースをぴらぴらと弄び、横目で瑠璃と絢音を見た。
「タイミング考えなよ。途中から入って勝てるわけないでしょ、馬鹿」
「……馬鹿じゃない。寧々花ったら意地悪!」
「はぁ? 別に華墨には言ってないし。そんな怒んないでよね、怖い怖い」
「じゃ、次から来いよ。いいだろ?」
星矢に肩を叩かれ、絢音はわずかなぎこちなさを伴いつつも、心からの笑みを浮かべた。
「うん。ありがと」
和やかで、賑やかで、清らかな光景。そこに生じる、少しの違和感。この教室は、歪んでいる。
四人はカードを表へと返し、戻すという動作を繰り返した。表、表、裏、裏。
絢音はぼんやりとそれを眺める。ここにあの子がいたならば。きっと、途中から入っても勝てると豪語し、恐れることなく輪の中に飛び込んでいくのだろう。
「はい、私の勝ち」
「くそー、もう一回!」
勝負はついたようだ。ふふんと勝ち誇る雲母はほとんどのトランプを手にしていた。
「……私と瑠璃、抜けるから」
華墨が瑠璃の腕をおもむろに引っ張り、いつも通りの小さな声で告げた。瑠璃は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「そう。じゃあ何する?」
「……塗って」
華墨は両手のひらを瑠璃のほうに突き出した。瑠璃はそれだけで華墨の望みがわかったようで、口を弧の形に描いた。
「うん、わかった」
華墨はその返事を得ると、わずかに頬を赤く染めて、花のように微笑んだ。満足げに口角を上げて、早く早く、と瑠璃を引き連れ輪から抜ける。
じわり、と心に何かが染み出してくる。漠然とした不安を煽る引っかかりは、気のせいだと決めつけるにはあまりに大きなものだった。
「代わりに絢音入ってー」
星矢に手招きされ、絢音は視界から二人を追い出すと、ぽっかりと空いた隙間に身体を滑り込ませた。
「スピードやりてぇー」
「スピードはみんなでできないじゃん」
「ならババ抜きしよ、ババ抜き」
絢音の提案に三人は乗り、寧々花はカードを同じ枚数ずつ配っていく。
「雨も入りなよ」
彼の背中をふざけて押した。すると、雨は意外にも素直に力の向く方向へと歩いていった。
「あれ、やるの?」
「たまには」
ただの気まぐれだとわかっていても、絢音が誘ったときだけうなずいてくれやことは嬉しい。絢音は鼻歌交じりで二人のクイーンを引き抜いた。
「絢音ちゃん、知ってる?」
瑠璃の、細い声が響き――ざわめきが一瞬にして静まった。
誰も、口を開かない。不自然に浮かび上がる、毒々しい色をした静寂、沈黙。この状況に困惑し、絢音は皆の顔を見回した。訳がわからないことが不気味だった。
右手からはらりと二枚のトランプカードが舞い落ちた。
絢音以外は皆落ち着いていた。来るべきものがきた、そういう覚悟の表情だった。
「何を?」
「知らないよね。話してないもの。……いいよね、華墨」
華墨は泣きそうな顔でうなずいた。瑠璃はその表情に罪悪感を滲ませて、それでも言葉を喉から押し出していた。
「もう話してたの、他のみんなには。……でも、絢音ちゃんにだけは話してないから。絢音ちゃんもグループの一員なんだもの、話さなきゃね」
瑠璃は華墨の爪にマニキュアを施している途中だった。優等生の瑠璃でも持ってくるんだなと、少し不思議な心地になる。視線を華墨に向けたまま、瑠璃はなんてことないように言った。
「芦川蛍って、知ってる?」
ぐらっと視界が揺らいだ。
なんでその名前を出すんだ。この居心地のいい空間で、そんな名前は聞きたくない。
あの子の顔が脳裏に蘇る。満開の笑顔に吐き気がした。
「しって、しって、る、けど」
言葉が出ない。言い出せない。声が喉の奥につっかえているように、話しにくい。
「知ってるの?」
寧々花が心底驚いた顔をした。
「知ってるよ。親友だった」
「嘘!」
すぐに反論の声があがった。その声の持ち主は――意外なことに、華墨だった。
まだマニキュアが乾いていないのに、大きく手を動かしたからだろう、爪から青がはみ出していた。怯えたように顔を歪ませ、華墨は視線で絢音を射抜く。震える人差し指を突きつけ、華墨はもう一度「嘘」と言った。
「嘘じゃない」
「嘘だよ。絶対嘘に決まってる」
「嘘じゃないもん!」
声を荒げても、華墨は指の先を絢音に向けたままだった。
「なんで嘘なんだって思うの」
「あの子がいなくなったとき、仲いい人は来てって、小学校にまでお知らせ来てたはずだよ。それで、みんな同じところに集まって、先生に知ってること話した。でも、絢音ちゃんは来てなかったじゃん。親友なら、行くはずでしょ。だから、絢音ちゃんは嘘つき」
いつものおどおどした様子が嘘のように、華墨はきつい口調で言ってのけた。
そのときのことは覚えている。でも、そんなものに応じなかった。
――へえ、失踪。いい気味じゃん。
そう思っていたから。
「言ったでしょ。親友だったって」
息を吸って、吐いて。悪い想像を頭から消し去って。絢音は無理やり顔を上げる。
「だって、だって……」
ここで言わないと、もう二度と言えない。そんな気がして、絢音は必死に声を絞り出した。
「私、蛍ちゃんが嫌いだもん」
学校にマニキュアを持ってきてはいけません!