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犯人は真実を知らない  作者: へおん
私は【 モブキャラ 】
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十二話  陽炎 中

 皆の机の上には、いつものように画材がぽつんと置きっぱなしだ。


 美術部とは名ばかりで、誰も絵を描いてはいないのだ。雲母が初日にハリネズミの絵を描き、それで終わりになったらしい。その後はそれぞれ好きな相手と駄弁っていた。


 ただ、絵の具を触る人はいる。


 独り、バケツに絵の具を垂らして遊んでいるのは、如月雨だ。雨は水に色が混ざりあっていくのを見るのが好きだった。いつも絵は描かず、絵の具を混ぜては捨て、混ぜては捨てを繰り返している。


「雨、またやってるの?」


 声をかけると、雨はバケツから目を離さぬままうなずいた。


「絢音もやりなよ。綺麗だよ」


「それ、マジでどこが面白いのかわかんないんだけど」


「面白いんじゃないの、綺麗なの」


「……はあ、そうですか」


 適当に相槌を打つと、雨はふいに目を細めた。淡い笑みを浮かべて頬杖をつき、もう一方の手で絵筆をくるりと気障っぽく回す。雨は一見無垢で無邪気だが、時折こういう仕草をする。


 雨は不思議な人だ。幼子のような表情をするが、老人のように孤高な静けさと、千歳(ちとせ)を生きた妖魔の余裕を垣間見せることがある。


「絢音は絵の具、嫌いなの」


 そう囁いて、雨は絵筆に青をたっぷりと含ませた。そっと水を張ったバケツに落とすと、海の色をした膜がうねるように広がった。


「好きだよ」


 嫌いだよ、服についたら怒られるから。そう言えば、きっと雨をがっかりさせる。


「そうは見えないけど」


 雨はぼんやりしているように見えるが、けっこう聡い。嘘が通じたことは一度もない。


 水が完全に青に染まると、雨はバケツを傾けた。色水は弧を描いて糸のように流れ落ち、そのまま排水溝に吸い込まれる。


「いちいち捨てるんだね、もったいない」


「だって、仕方ないし」


「青の上から混ぜたらいいじゃん。色を変えていくの、面白そうだと思うけど」


「ダメだよ、それじゃ。透明なやつに色をつけないと、意味がない」


 雨の感性は独特で、絢音には理解できそうになかった。彼はまたパレットの上に色をつくり、絵筆でぐるぐるとかき混ぜている。


 そういえば、教室で雨と会っていないな、と絢音は思う。明日、夏希たちの前で声をかけよう。おはようと言えば、きっと彼は「おはよう」と返してくれる。夏希たちは「え、誰?」と困惑し、絢音は「友達」とちょっとすまして答える。


 それは甘美な妄想だった。なんとなく、夏希たちを出し抜いた感があって、ものすごく優越感と心地よさがあるだろう。


「あ」


 雨の呟きで、絢音は我に返った。見ると、パレットの上が様々な色の絵の具に占領されている。


「早く洗わないと、新しい絵の具出せないよ」


 雨は「わかってるよ」とでも言いたげな顔をして、パレットを手洗い場に持っていった。


 いっぱいに開かれた蛇口から、水が滝のように勢いよく落ちてくる。絵の具と混ざって弾け飛び、白いパレットに付着している小さな雫。水で薄められる前は、ビリディアンという色だったらしい。ハワイの海のような、熱帯の森林のような色。深みのある青緑に見えていたそれは、水で流した途端、薄っぺらい色になる。


「かき氷のシロップみたい」


 無意識に、ころりと口から漏れた言葉。記憶が少しずつ逆流してくる。


 あの日、祭りで蛍と食べた、メロンシロップのかき氷。その作り物めいた味が、口の中に広がった気がした。




「絢音はさ、これから用事ある?」


 帰り道、蛍に声をかけられた。太陽の光が反射して、金とも銀とも言えぬ色に煌めく瞳は、魅惑的で美しかった。絢音は戸惑って「あ、」とか「う、」とかを繰り返したあと、首を横に振った。


「なんにもない、けど」


「よかった!」


 蛍はにぃっと笑い、絢音の腕を引いた。


「じゃあ、一緒に行かない?」


 どこに? 絢音は困惑して蛍を見上げる。蛍は呆れたように首を傾げた。


「絢音って結構ニブイよねー。そりゃ決まってるじゃん。淺代祭り」


 絢音は息を呑んだ。


 淺代神社という、淺代町の中にある神社の祭りのことだ。学校では、皆がその話でもちきりだった。みんなで行こうよ。俺自転車ないんだけどー。お小遣いゼロだわ、ヤバいかも。楽しげに繰り広げられる会話は遠いもので、絢音はいまいち実感がなかった。


 夏希は親が許さないので行けないし、のぞみは塾がある。面倒臭がりの美湖は、人混みが嫌だからと行きたがらない。


 三人が行かないのなら絢音に行く理由はなく、毎年ぼんやりとそれらの会話を聞いているだけだった。


 三年生までは母と行っていたのだが、六年生にもなると、恥ずかしくて嫌なのだった。


「いいでしょ? 家帰ったら、お金持ってあのでっかい杉の木に集合ね。浴衣もきちんと着てくること!」


「えっ」


 絢音は思わず抗議した。


「ゆ、浴衣なんて……」


「持ってるよね? じゃあ、また後で!」


 蛍は走り去っていった。残された絢音は呆然と立ち尽くす。


 家についたら、母を説得しなければいけない。



「おまたせ~」


 遅れてやってきた蛍を見て、絢音は唇を尖らせた。


「遅い」


「ごめんって」


 ちっとも悪びれない様子の蛍に、絢音は深くため息をついた。


 蛍はからんと音を鳴らして、絢音のほうに寄ってきた。下駄を履いているのだ。


 花火の模様が描かれた藍の浴衣。いくらか地味な浴衣を際立たせるのは、明るい黄の帯だ。


 いつもはおろしている黒髪は、頭の左下で緩い団子にしていた。そこに、緑がかった金の珠がついた簪を挿している。右のほうは、顔周りだけ少し髪を残し、括らず流していた。ストレートだったはずの髪は、やや波打っていて、ヘアアイロンで巻かれているように感じた。


 頬はほんのりと薄紅色に染まっている。恥ずかしがっているわけでも怒っているわけでもない、化粧をしているのだ。もとから長かった睫毛は、さらに長くなっていた。


「気合入れすぎ」


 初デートでもあるまいし。


「えー、絢音が地味過ぎるんだよー」


「蛍ちゃんが派手過ぎるんだよ」


 絢音も渋々浴衣を着て来たが、本当に渋々だった。みんな普段着で来ているのに、絢音だけ浴衣を着て来るなんて、後にからかわれるに違いない。


 桃色の浴衣は無地だし、運動靴だし、髪は大雑把に後ろで括っただけだ。


「絢音ったら、せっかく顔が可愛いのに、服装でぜーんぶ無駄にするよね。何そのダサい格好? 全然似合ってないよ」


「可愛くなんて、」


 蛍に褒められた。それは、耐え難いほどに嬉しくて、絢音が欲しくてたまらない言葉だった。たとえそれがなんの心もこもっていない世辞だったとしても、関係ない。蛍に褒められた。それが、絢音にとって大切なことだ。


 いや、ところどころけなされている気もしないでもないが、まあ、そこは突っ込まないでおこう。


 大事なのは自己満足だ。真実じゃない。


「それにしても、暑いよねー」


「そう?」


「そうだよ。まったく、地球温暖化、いや、地球沸騰化だねー。この星の未来はもうないよ。それもこれも、国のお偉いさんたちがなんにもしないせいだよね。万博よりもこっちのほうが絶対重要でしょ。役立たずはさっさと消えろ! あっ、そうだ、かき氷食べよ!」


「えっ、なんでこの話の流れでそうなるの?」


「だから、地球沸騰化で暑いから、かき氷食べようって言ってるんだよ」


「いやいやいや」


 そう言いながらも、絢音はかき氷の屋台を探した。


「あった!」


「よっしゃ、絢音お手柄! 何味にする?」


「メロン」


「へえ、意外。イチゴって顔してるのに」


「それどんな顔よ」


「なんかー、ちっちゃくてー、可愛くてー、ぶりっ子っぽい顔」


「……?」


 これは褒められたのか、けなされたのか。絢音は本日二回目の微妙な発言をされてしまった。


 屋台の前では、「ストローがなくなったので、割り箸で食べていただきまーす!」と声を張り上げる男性がいた。それに対し、あからさまに嫌な顔をする親子、「なにそれウケる~」と笑う女子高生。


 張り紙には「イチゴ ブルーハワイ メロン レモン」とやたら走った字で書かれていた。行書のような、といえば聞こえはいいが、要は適当で汚い字である。


「私はー、イチゴかー、ブルーハワイかー、メロンかー、レモンがいいかなー」


「全部じゃん」


 そんなことを話しているうちに、順番が来た。絢音は即座に「メロンで」と言い、蛍は長い間悩み、店員を困らせ、後ろの人を苛立たせたあと、「うーんとねぇ、じゃーあ、ブルーハワイ、じゃなくてレモン、いやイチゴ、あ、やっぱりブルーハワイで!」と答えた。店員は、「ブルーハワイでよろしいですね? ブルーハワイなんですよね?」と三度ほど確認してからシロップをかけた。


 そういえば、かき氷のシロップはすべて同じ味だと聞いたことがあるが、本当なのだろうか。


 じゃり、と割り箸を削った氷に突き立てる。横で蛍が「あー! 失敗したー!」と叫んでいた。見ると、木の棒二本の片方に、極端に太さが偏っている。蛍は割り箸を割るのが苦手だ。


 蛍にはわかりやすい愛嬌がある。絢音にはない、無邪気で素直な愛嬌が。


 一口分けてよ、と言いたかった。噂は本当なのか確かめたい。メロンとブルーハワイ、味は違うのか、同じなのか。私たちは騙されているのか。それとも、勝手に深読みし、無駄に疑い、無実の罪を着せて非難しているだけなのか。


 発泡スチロール製の安っぽい容器に弾かれて、丸い雫がぽつんと浮かんでいる。いかにも人工的な緑だ。爽やかで柔らかな、透き通った緑色。絢音は意味もなく親指でそれを押しつぶした。


「ごちそうさま。次何食べる?」


 隣の蛍が立ち上がった。手の中の歪な割り箸と白い容器をゴミ箱に入れる。二つはなんのためらいもなく燃えないゴミに紛れ込んだ。


 絢音は無言で箸を動かす。


 中身はまだ、半分以上残っていた。




 思い出すのをやめ、絢音は息を吐いた。そばでは、パレットを洗い終わった雨が、新たに絵の具を出していた。


 雨には関係ないことだ。でも、ずっと誰かに言いたかったことを、今、言える気がした。雨には申し訳ないが、この自白に付き合ってほしい。


「雨、私ね、」


 本音を漏らそうとした絢音に、雨が「何?」といつもの声音で返した。何かを察しているかのような表情だった。それなのに、気づかないフリをする。


 絢音はなけなしの勇気が一瞬で萎えて、「ううん、なんでもない」と言った。


 雨になら言える。そう、心から思ったのに。


 また失敗した。言えなかった。絢音は、臆病者だから。

地面に照りつける日光から生まれた、ぼんやりと浮かび上がる陽炎。春や夏にできます。

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