十一話 陽炎 前
それから絢音は、毎日のように美術部に通った。
そこは、本当に居心地のよい空間だった。
ぬるま湯に浸かっているような、という、ごくありふれた表現がぴったりの、気持ちよくて、暖かくて、良い意味で刺激の少ない時間。陰湿な悪口がないというのは、絢音にとってありがたかった。
つい先程まで楽しげにその子と喋っていたのに、いなくなった途端に悪口を吐く。周りの子も同調する。そんな女子たちの会話が、絢音は恐ろしくてならなかった。
だから、グループ内は安全で、幸せだった。誰も人を傷つけない。まるで楽園のようだった。
第一美術室に入ると、いち早く寧々花が手を振った。
「あっ、みんな、絢音来たよ!」
「おー!」
「こんちは~」
「絢音! こんちわ!」
「こんにちは、みんな。雨もこんにちは!」
「……ん」
このグループ内では敬語は無用とのことだ。だから、絢音も遠慮せず呼び捨てにする。初めはどぎまぎしながら恐る恐る呼んでいたが、もう慣れた。ちなみに、「ヤヨイ」は未だに姿を見せていない。
「な、絢音見ろよ! ほら! 髪染めた! どう? どう!?」
興奮した様子で星矢が己の頭を指した。初めは「染めてねぇし」と頑なだった星矢だが、今ではもう、自分から「また染めたー!」などと細かく報告してくる。
「どこ染めたの?」
「ほら、ここだっての」
毛先が茶から金に変わっていた。「わかりにくっ」と呟くと、星矢は「センセーから隠さなきゃだからなー」とへらりと笑った。いや、隠すも何も、すでにバレバレだろう。
「キモッ! 馬鹿じゃないの? 一緒にいたらこっちまで変な目で見られるし、かなり迷惑なんですけど。マジでなんなのあんた、ヤンキー目指してんの? 落第したいわけ?」
寧々花が矢継早に言うと、星矢は大袈裟に顔をこわばらせた。
「うっわー、地味に傷ついた……」
「えー、いいでしょ、染めるくらいさ。寧々花はほんとにうるさいねー。雨もそう思うでしょ?」
「別にどっちでも」
「つまんないなー。というか、私も染めたい!」
「やめときなよー? 生徒会がそんなことしてたら、みんなが真似して収拾がつかなくなるじゃない」
「固いこと言わないでよ。やれやれ、瑠璃は真面目すぎるね」
「瑠璃は普通でしょ、雲母が緩いだけで。なんで生徒会とか入ったの? 意味不明なんですけど」
寧々花は誰とでも火花を散らしたがる。本気でそう思っているというよりは、構ってもらうための手段のように見えた。
「……ぜ、絶対、瑠璃ちゃんが正しいと思う」
華墨が小さく口を挟んだ。瑠璃は表情を和らげ、「ありがとう」と華墨の頭を撫でる。二人は本当に仲いいねー、と揶揄する声に、瑠璃は穏やかに答えている。
本当に、びっくりするほど仲がいい。瑠璃と華墨だけでない。雲母も、寧々花も、星矢も、雨も、みんな。不思議だった。どうしてこんなに暖かい空気を保てるのだろう。
一定数の人間が集まれば、必ずできるものがある。カースト、いじめ、喧嘩、陰口。親友ばかりなのならまだしも、ここは「秘密を持つ者」が集まっている場所であり、「仲が良いから」という理由で集まった場所ではない。だから普通、グループの中に更にいくつかのグループができるはずなのだが。
恐怖を覚えるほど、負の出来事がない空間だった。
いつかパチンと割れてしまう、薄くて脆い膜のようだった。誰かが針でつついてみれば、あっけなく消えてしまう友情。
「絢音、どうしたの?」
心底絢音のことを心配した、優しい声。絢音ははっと我に返り、「大丈夫。ありがと、瑠璃ちゃん」とぎこちない笑みを浮かべた。
「それにしても、本当にみんな仲良いよね。雨とか星矢くんは一年でしょう?」
これまでずっと六人だったのにな。星矢が前に放った台詞に、絢音はずっと引っ掛かっていた。まだ一週間も経っていなかったのに、どうしてそんなことを言ったのだろう。
星矢は「あれ、言ってなかったけ」とあっけらかんと笑った。
「おれが小三のときからこのグループあるんだよ」
「え゙っ」
「結成当時はまだ三人くらいだったんだけど、一昨年には六人になった。放課後は近所の公民館に集まってさ、毎日雑談して甘いもん食べて……全員中学に上がったから部活にしたけど、スナック系はさすがに持ち込めないんだよなー」
「スマホ持ち込んどいて何言ってんのよ」
「寧々花もスマホ持って来てるくせに……」
「お菓子はちゃんと家で食べてるわよ、まだマシでしょ!」
「でも雲母はこっそりガム持って来てんじゃん」
「副会長ォ……」
「別にいいのよ、見られてさえなければ」
「おれらが見てるけどな」
進んでいく会話に、絢音だけがついていけなかった。
皆にとっては、絢音はよそ者なのか。
せっかく居場所を見つけたと思ったのに――……
「……別に、いいんじゃない。気にしなくて」
ふいに澄んだ声が耳朶を打った。驚いて顔を上げると、雨が無表情で絢音を見下ろしていた。
「……うん」
「ありがとう」とは言えなかった。雨はきっと、励ましてくれたわけじゃなかった。ならなぜそんなことを言ったのかと尋ねられても、たぶん答えることはできないけれど、励ましではないように聞こえた。
けれど、絢音の心を軽くするのには十分な言葉だった。
更新がものすごく遅くなりました。すみません……。
秋、様々な風邪が流行っています。
特にマイコプラズマ肺炎は怖いですよ。伝染る期間が10日間もあります。「もうこの人はずっと前に熱が下がったらしいし!」と近づきすぎれば感染しますよ。
私みたいに……(泣)