十話 萌芽 後
「私、先に入るから。呼んだら入って」
「はい」
雲母に言われた通り待っていると。
「昨日言ってた新しいメンバー、絢音ちゃんが到着で~す! みんな、お出迎え、よろしくね!」
薄いドア越しに、はっきりと雲母の声が響いた。
「わお」
ふざけ調子の、大袈裟な声は男子の声だろう。
「いつのまに勧誘してたの? 勝手にやめてよね。私たちに迷惑だとか考えないわけ?」
呆れたような、でも怒りは含んでいない、軽口の延長線のような台詞。それを楽しげに吐くのは瑠璃のようだった。
「まじか~。二年ぶりの新メンバー? これまでずっと七人だったのにな~」
先程の男子の声が続く。やや間延びした、やんちゃそうな響きだ。
「雲母、どうしたの」
「いいじゃん、別に。このグループも明るくなるよ!」
「よくない。今でも十分明るいでしょ。早くそいつ退出させて」
「なんでよ、つれないな~」
「いや、ほんとになんでわざわざ新しい子入れたの? 馬鹿にしてんの?」
このきつい口調は少女の声。受け答えしているのはきっと雲母だ。
「一回会ってみなって。それからでもいいでしょ?」
「だめ。あーあ。きららんがそんな奴だと思わなかった。ほんと最低、シツボーした」
「えっ、失望された? うっわ、傷ついたー。泣いちゃうー」
「黙って、うるさい」
「まあまあ、二人とも」
なだめるのは瑠璃の声だ。
あまりいい反応はない。声音で雰囲気を軽くしてはいるが、それら無しで聞いてみると、よそ者を警戒するかのような文面が並んでいるのがわかる。雲母と言い合っていた少女など、敵対心剥き出しだ。
冷たくされる覚悟はあったので、傷ついたりはしないが、やはり少しさみしい。
「え~、なんでやね~ん! ほんまつれへんなぁ、仲良くしたげてぇや~」
「なんで関西弁? キモいんですけど、死ね馬鹿」
「ジョークじゃん、ジョーク! そこは察してノッてよ!」
「そういうのおもんないし嫌い」
雲母と少女は、まだ派手に言い合いを続けている。
「雲母振られてやがんの」
「寧々花毒舌……。こっぴどく振られたね」
「ご愁傷さまでーす」
男子と瑠璃がからかうように笑っていた。
「悲しいよ~……ってか告ってないし!」
と返すのは雲母。それにどっと笑う他のメンバー。
寧々花というらしいその少女は、瑠璃の言う通り毒舌だが、会話を盛り上げる力があった。
「こらこら、外にその、絢音、ちゃんって子がいるんでしょ? 早く入れてあげなよ」
「あっ、そだね。瑠璃の言う通り。絢音ちゃーん、入ってー」
呆れながら、絢音はそっとドアを引いた。古いもののようで、つっかえるような感触があったが、開いた。
中には六人の男女がいて、机を円の形に並べていた。
一人は瑠璃。
「よお、あんたがアヤネ?」
へらりと笑うのは男子。髪色は地毛と言い張るには苦しい明るさで、あちこちに絆創膏やガーゼを貼っている。不良っぽいな、と思った。あぐらをかいているので、足先がよく見える。派手な赤の靴下から、親指が大胆に飛び出していた。
その右側にいるのは小柄な少女。目尻が少し下がっていて、全体的にふんわりとした雰囲気だ。肩より上で切り揃えられた髪は柔らかで、桃色のバンダナがよく似合う。暑いというのに長袖のジャージを着ていた。下は半ズボンで、細い足が覗いている。
椅子の上で、膝を抱えて座っているのは、物静かそうな、おとなしそうな少年だ。目が合っても首を傾げるだけだった。
その一つ手前に、華墨が座っている。長い黒髪に、清楚な顔立ち。いかにも気が弱そうな表情で、おずおずと絢音を見、それからびくりとして目を逸らした。顔が真っ青になっている。
「あ、あの……みん、なは……」
何を言えばいいのかわからなくて、それっきり黙り込んでしまった絢音に、瑠璃が話しかけてきた。
「絢音ちゃんだよね? こんにちは。自己紹介するから、そこに座ってくれないかな?」
優しげに微笑む姿に、根拠のない安心感を覚えた。
「じゃあ、自己紹介ね。誰からする?」
「俺、最後ね」
不良っぽい男子がひらひらと手を振る。雲母はいたずらっぽく笑うと、彼の肩に手を置いた。
「来るの一番遅かったし、あんたからしたらー?」
「はあ?」
不良っぽい男子は心底嫌そうな顔をした。わずかに開けられた口から、白い八重歯がちらりとのぞく。
「確かにそうね、絢音ちゃんと同い年だし、星矢からどう?」
「はあ!?」
星矢と呼ばれた男子は、瑠璃にまで推され、顔を引きつらせた。
「いや、なら雨だって……」
「そう、」
少ししゅんとした瑠璃を見、星矢は慌てて言った。
「わかった、お、俺からな!」
「やってくれる? ありがとね」
瑠璃はぱっと笑顔になる。星矢が顔を林檎のように赤らめた。両手の指をぎこちなく絡ませ、落ち着かぬ様子で下を向く。
「え、いや、それほどでも、」
急にもじもじし始めた星矢。まさか、と雲母を見ると、楽しげな表情でうなずいた。
ここまでわかりやすいのに、当の本人である瑠璃は気づいていないようだった。
「俺、白石星矢。中一。ゲームと漫画とカラオケが好き。以上!」
「アタシ、中嶋寧々花。二年五組。好きなこととか、省略ね。別に聞かせる必要ないし。はい、終わり」
そう自己紹介したのは、あの、垂れ目の可愛い女の子だった。そんな愛らしい容姿で、つっけんどんな台詞を吐き、きつい表情をする。
まさかこの子が「寧々花」だとは思わなかったので、絢音は少し驚いた。
「私は出水瑠璃。中学三年生。好きなことは……読書、かな? 絢音ちゃん、よろしくね」
柔らかな笑みで挨拶する瑠璃は、生徒会長には向いていない気がする。「学級委員」や「クラス委員」というものに入る人は、絵に描いたような優等生より、そういった優等生に嫌われがちな勝ち気な女子だったりするからだ。華やかで、明るくて、一部の人間に人気で、流行に敏感で、怖い女子。そうでないと思う人もいるだろうが、絢音はそう考えている。
「如月雨。仮鐘さんと同じ、一年四組」
その横で、雨は綺麗な角度で頭を下げた。まるでそう設計されたロボットのように。
「……一年四組?」
思わず呟くと、雨の両目がわずかに揺れた。何か言いかけ、口を閉じる。
「え、同じ?」
「うん、同じ」
「え、ほんと?」
「うん、ほんと」
鸚鵡のように繰り返し、雨はカタリと首を傾げた。機械じみた動きに見えたのは、絢音の気のせいなのだろうか。
「ちょっと待って」
雨はスマホを取り出し、操作し始めた。そして、それを絢音に手渡す。
当たり前のように学校でスマホを触っている。少々呆れながらも、絢音はすぐに受け取った。
「はい、これ。母さんから送られてきた写真」
真っ青な背景に唐突に浮かぶ四角い画像。開くと、それは一年四組の生徒全員の名が書かれたものだった。確か、絢音も渡されたが、もうとっくに捨てている。
アップにすると、意外とすぐに見つかった。「仮鐘絢音」の次に、「如月雨」と書かれている。しっかりとあった。
「ごめん、全然憶えてなかった」
「まだ三週間だし。仮鐘さん、何小?」
「第四小」
第四小は、「淺代第四小学校」の略だ。
「一学年で十三人くらいのちっちゃい学校だよ」
「じゃあ、まだ憶えてなくても当然」
「ありがと。如月さんは何小なの?」
「第一小」
「三クラスもあるとこじゃん。そんな人数多くて憶えられたの?」
「うん、それが当たり前だったから」
「へえ。いいなぁ、いろんな人と遊べそう」
「いや、遊んだ人はそんなに多くない。一人だけ」
「如月さんの親友だったんだね」
絢音は、何気なくその言葉を放った。
当たり前だと思っていた。絢音にとって、毎日遊んだ親友とは、夏希とのぞみ、美湖だった。
だから、雨もそうであろうと、無邪気に信じ込んでいた。
その瞬間、雨の瞳が凍りついた。
「別に」
それだけ言うと、雨は初めて笑った。
「雨でいいよ」
「え」
「雨でいいよ」
微笑を浮かべ、雨は静かに絢音を見る。その表情からは、彼の心境を読み取ることはできない。
人の名前を呼び捨てにするのは、絢音にあまりない経験だ。でも、この流れで「くん」をつけたら、かえって気持ち悪がられるかもしれない。それなら呼び捨てのほうがましだ。
「おーけー。じゃ、雨も絢音って呼んで」
「わかった。絢音」
なんともいえない高揚感が身を包んだ。雨、絢音。「さん」も「くん」もつけていない、まっさらな名前。二つの名を口の中で転がすと、甘い蜜の味がした。
その横で、寧々花が華墨を急かしていた。
「華墨、早く」
「え。え、と……ひ、柊木華墨。その……よろ、しくね」
目を合わさぬまま華墨は小さく自己紹介をした。
「華墨先輩は三年生ですか?」
何気なく尋ねると、華墨は困惑した表情を見せた。うん、と視線を彷徨わせながらうなずく。
「うん。でも……なんで?」
華墨は何に対してなんでと言ったのか。相手の考えを読めない薄気味悪さを押し殺し、とりあえず曖昧に微笑んでおいた。問うよりずっと楽な方法だった。その対応に、瑠璃がなぜか眉をひそめる。
華墨はまだ戸惑っている。細い指先で頬を掻いた。
そこに貼りついた爪には、マニキュアの痕が残っていた。青い欠片が、今にも剥がれそうになっている。
それを横から伸びてきた手が握った。群青の爪に、金のラインストーンが星のように散りばめられている。キラキラと光を反射して輝く。ラピスラズリみたいな、そんな色。
その爪の持ち主は、瑠璃だった。
瑠璃が華墨の手を取り、何かを優しく語りかけている。丁寧で真摯な態度だった。そのとき、二人の爪を彩るマニキュアの色が、まったく同じなことに気がついた。
「私がトリね」
二人を完全無視し、雲母が唇の端を吊り上げる。ぬらぬらと輝く瞳に、人工的な蛍光灯の光が映り込んでいた。
「私は三年の出水雲母。絢音、よろしく!」
いつのまにか「絢音ちゃん」から「絢音」に変わっていた。アタシは絢音が大好きだよ。そう告げる無邪気な声を思い出し、絢音は乾いてきた唇を舐めた。リップが口に入ったのか、鼻腔に貼りつくような、馬鹿みたいに爽やかな香りがした。
同時に、どうして自分は雲母が苦手なのか、見当がついた。あの子に、蛍に似ているからだ。
「あともう一人、ヤヨイ」
「まだいるんですか?」
「うん。グループ入ったくせに一回も来てないユーレイ部員。五月二日、だったかな、このグループに入れてくださいだってさ。会ったの私だけなんだけどねー」
雲母は軽くヤヨイの紹介を済まし、どかっと椅子に座り込んだ。机の上に画材がぱんぱんに詰まった鞄を置く。中からはなんの匂いもしなかった。たぶん、一度も使われていないのだ。
「みんな自己紹介終わったね。じゃ、本題といきますか」
雲母はぱちんと手を叩き、絢音の目をまっすぐにのぞき込んだ。
「絢音、あんたは、秘密をいくつ持っている?」
「え、」
動揺を隠せず、絢音は雲母を見遣った。雲母は冷徹に微笑んだ。
「ここにいるメンバーは、みんな秘密がある。絢音もあるんでしょ、秘密」
見下すように、雲母は笑う。
「絢音も、私たちと一緒。ハリネズミなんでしょう?」
部室の奥には、ハリネズミの絵が置かれていた。丸い目をこちらに向けて、怯えたように針を逆立てた、愛くるしいハリネズミ。
「このグループを作った目的はね、幸せになるため。針なんか捨てて、ただの鼠に変わるため。みんな重い秘密を捨てたがっている。罪悪感を、過去の罪を捨てたがっている。秘密を共有して、何もかも捨てて、幸せになりたがっているの。だから、秘密を全部話し終えて楽になったら、このグループから出る。卒業する。そういうシステムなの」
なんだか大袈裟だな、なんて思っていることはおくびにも出さず、絢音は殊勝にうなずいた。謎のルールも受け入れるしかない、そうしないとたぶん生き残れない。
「これまで何人が卒業したんですか」
絢音の質問に、雲母は頭を掻いて、ずる賢そうな笑みを向けた。ハリネズミ、ハリネズミと雲母は言うが、その表情は子供向けの絵本の中で、優しい兎を騙している狐みたいだ。
「ゼロ、かな」
雲母はなんでもないことのように、笑った。
「誰も、卒業できていない」
「私と雲母、それから華墨は四つ。雨は三つ。寧々花と星矢は二つ。私は一つ話して、残り三つ。華墨は二つ話して、残り二つ。寧々花は一つ、星矢も一つで二人はあと一つ。雨や雲母はまだ一つも話してない。ヤヨイさんはいくつなのかわかんないけど。とまあ、こんな感じで、誰も卒業できてないの」
瑠璃が静かに補足する。だが、連続して数字が出るので、こんがらがって何がなんだかわからなかった。
頭の中で情報をまとめる。
このグループは、秘密を共有するために作られた。
秘密を話し終えると「卒業」する。
秘密の数は、雲母は四。
瑠璃は四、残り三。
華墨も四、残り二。
雨は三。
寧々花と星矢は二で残り一。
ヤヨイは不明。
秘密の数。正直に答えなければ、という気持ちと、言いたくない、という思いが拮抗する。だが、結局、絢音は本当のことを口にした。
「……二つです」
「ふたつ!」
雲母は声をあげ、大きく口を開けて笑った。やや尖った犬歯がちらりとのぞく。何が面白かったのか理解できない。聞き返すのも面倒なので、ははは、と愛想笑いで乗り切った。
みんな馬鹿なんだなと思った。秘密がある、ただそれだけのことをまるで特別なように扱って、物語の登場人物を気取っている。こんな意味不明なグループを作って、自分は他の人とは違う、異質な存在だと信じている。
そのとき、キーンコーンカーンコーン、と平坦なチャイムの音が鳴り響いた。
「あー、鳴っちゃった」
残念そうに顔をしかめ、雲母は手をひらひらと振った。
「じゃあ、また明日」
「また明日ー」
「また明日ー」
「また明日」を連呼して、部活動は終わる。
雲母の机の上には、まったく手つかずの画材が、ピカピカと無邪気に輝いていた。