九話 萌芽 中
一年生初部活動の日。教室から出ると、後ろから誰かに飛びつかれる感触があった。
「あーやねちゃんっ!」
「うわわっ!」
振り向くと、にやりと笑う雲母がいる。
「な、なんですか?」
「決まってるじゃん。新入生がマイゴにならないように、優しーいセンパイがお迎えに来てくださったんだよ。感謝しなさいよ、新入生!」
雲母はひらりとスカートを翻し、物語の王子様のように絢音の手を取った。
「ようこそ我が部へ!」
絢音の手を引いて、雲母はずんずんと進んでいく。その強く引っ張られる痛みが、ふっと絢音の記憶を蘇らせた。
蛍も、こんなふうに、絢音を連れて行ってくれた。
その瞬間、激しい嫌悪感が噴き出してきた。まるで、大雨のとき、排水溝の蓋が外れて、茶色く濁った水が噴水のように溢れるような、そういう感じ。必死に蓋を押さえていても、濁水の勢いには勝てない。
――絢音、何ぼんやりしてんの! こっちだよ、こっち!
怒った口調で、でも、嬉しくてたまらないというように笑って、蛍は絢音の腕をぐいっと引っ張る。引きつるように痛い。あのときは、その痛みに安心感を覚えた。
だが、今は嫌悪感以外何も存在しない。
記憶という名の濁水に、溺れて息ができなくなる。絢音の口を塞ぎ、喉を締めつけてくる。
助けて。
私のせいじゃない。
誰か、私のせいじゃないって言って。
救いを求めてもがく中、蛍の笑みがはっきりと見えた。
その口角がゆっくりと下がり、瞳に冷たい光が宿る。少し顔を持ち上げて、やや頭を傾けて、見下すように、ねめつけるように、彼女はこちらを見る。
違う。蛍は、こんな顔をしない。いつも、笑ってくれる。
幻だと頭ではわかっていても、責められているような気がして、絢音は咄嗟に叫んでいた。
私はあなたを殺してない!
「絢音ちゃん~?」
はっとして、雲母を見る。絢音が過去に溺れていた間に、部室の前まで来ていたようだ。
「どうしたの?」
「……なんでもないです」
「へえ、そう?」
雲母はけらけらと笑った。
昨日の〝抜け駆け〟などなかったかのような態度に、絢音は呆れた。絢音が重く受け止めただけであって、雲母にとってはなんてことない一言だったのだろう。
こんな食い違いなんてありふれたことだ。気持ちの重みがまったく違うことも、きっとどこにでもある。AさんがBさんに十グラムの好意を抱いていたとして、Bさんは十トンもの好意を持っている、だなんて馬鹿げたことも普通にある。
一方に傾く天秤は、いつか重いほうが壊れるのだろう。
だけど、蛍と絢音の天秤は、最初から最後までずっと釣り合っていた。ただ、皿の上に乗っているものが異なるだけだった。
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