八話 萌芽 前
家に帰ると、絢音は階段を駆け上がり、真っ先にベッドに向かった。「こら、ちゃんと手は洗いなさいよ!」と母親の声が一階から聞こえてきたが、無視した。
ベッドに飛び込み、足をばたばたさせながら、LINEを開いた。一番上に雲母のアイコンがある。
タップすると、なんの痕跡もない、快晴を模した真っ青な背景がある。絢音は無料配布のスタンプを探した。ぺこりと頭を下げる猫を見つけ、ちょっと迷ったあと、送信ボタンを押す。
先輩に対してスタンプは失礼だっただろうかと、じわじわと不安になってきた。送信取り消しの表示に手が伸びそうになったとき、雲母からスタンプが返ってきた。
「よろしく!」とでかでかと書かれた、犬なのか熊なのかわからない生物のスタンプだ。
絢音は素早く文字を打ち込んだ。
仮鐘絢音〈お願いがあるんです〉
仮鐘絢音〈私を、あのグループに入れてくれませんか〉
きらら 〈いいよ〉
驚くほど早く返信が来た。既読がつくのとほぼ同時。たった三文字だということを考慮しても、絢音が送る前に打ち込んでいないと、絶対に無理な早さだった。
きらら 〈そう言うだろうって思ってた〉
語尾にはにこにこと笑う絵文字がくっついている。
なんともいえない居心地の悪さを感じつつ、ありがとうございますと文字を打ち込もうとしたときだった。
雲母から通知が来た。
きらら 〈絢音は抜け駆けしそうな雰囲気だったしね〉
かっと身体が熱くなった。
抜け駆け。それは、思った以上に絢音の心を突き刺してくる言葉だった。
抜け駆けじゃない!
叫びたくなった。何がなんでも否定したかった。
だが、否定の方法が思いつかなかった。
絢音は衝動のまま勢いよくスマホの電源を切った。それしかできなかった。
ぶーっ、とメッセージが来た音がする。しかし、それらを無視して、絢音はベッドに倒れ込んだ。
五月一日、絢音は美術部に入部した。三人には、「もとから美術部に入りたかったの。もちろん第二美術室を使うよ」と言い訳した。本当はテニス部に入るつもりだったし、それは三人にも話したことがあった。
美湖は「ふうん」と意味ありげな視線を送り、のぞみは無邪気にうなずいた。気が変わったのだと思い込んでいたようだった。
美湖は疑いを隠すこともせず、絢音を見つめていた。責めるみたいに、同時にすがるような期待を宿して。
「私、絢音のこと、トモダチだと思ってるよ」
絢音はそこに込められたモノに気づかぬフリをして、「私もだよ」と笑ってみせた。
「私だって、友達だよ!? しんゆーだよ!」
のぞみが張り合うように二人の間に割って入る。長い黒髪が絢音の肩にふわりと乗る。眼鏡の薄いフレーム越しに、瞳に光が散ったのが見えた。
「絢音も美湖も夏希もみんな、友達でしょう?」
のぞみの無邪気さが、今の絢音には救いだった。
美湖はニコニコと笑ってうなずいた。絢音から見れば胡散臭い笑みだが、のぞみは嬉しげに美湖を抱きしめている。
夏希は「そっか」と妙に冷めた口調で呟いた。
「そっか。よかったね、絢音」
絢音の名字は「仮鐘」です。
現実には(たぶん)存在しない名字ですが、たまにはこういう非現実的なのも入れさせてください。
ちなみに、同じ「かりがね」という読み方でも、「雁金」などならあるそうです。
「萌芽」は春に植物の芽が出てくること。
ものごとの始まりを表します。