一話 事実と事実
はじめまして。本と猫をこよなく愛する女子中学生へおんです。
転生しませんし悪役令嬢も出てきませんが、それでも良ければ、読んでいただければ幸いです。
夜、静寂が膜を張る。聞こえるものと言えば、点滅する電灯のジ、ジジジ、という音と、自身の足音だけだ。
感覚のなくなってきた爪先で地面を蹴る。肺は空気を求めてのたうち回る。それでも、腹の中で暴れる感情に身を任せ、走り続けた。
瓦の屋根と高い塀が見えたとき、心臓が激しく鳴った。目が熱くなり、世界が滲む。つきんと鼻の先が痛んだ。歯を食いしばり、目を閉じた。
インターホンを鳴らす。指先には頼りない感触、簡単に沈む丸いボタン。
平坦な同じ音が二度繰り返される。答えが返ってくるのを、息を詰めて待つ。永遠に続くように感じた時間も、本当はほんの一瞬だったらしい。
「――はい、どなたですか」
「わ、私です」
返事が探し求めていた人物の声だったことに安堵し、なぜか咄嗟に敬語を使ってしまった。
「……え?」
その声には、激しい動揺が滲んでいた。
「……ちょっと待ってて」
そう告げる声は、機械越しだからか、ずいぶん無機質に感じられた。
しばらく待つと、鍵があく音とドアノブが回る音がして、少女が室内から出てきた。
「何か用?」
警戒心があらわになった目で、彼女はねめつけてくる。
「あの……は、話したいことが、あるの」
しどろもどろに言うと、少女はひゅっと息を呑んだ。細く柔らかな喉がひくりと震える。たぶん、なぜここに来たのかに気づいたのだ。
「……外は寒いでしょ。とりあえず入って」
走ってきたので、むしろ暑いくらいだったが、断る理由もないのでうなずいた。
少女は家に招き入れてくれた。そっと靴を脱ぎ、かがみ込んで、ばらばらの方向を向いた靴を綺麗に揃える。彼女に悪い印象を植え付けたくなかった。
「ごめんね、汚くて」
それは明らかに社交辞令だった。普段ならここで謙遜するが、今は何も言わなかった。本当に、この家は綺麗とは言い難かった。
汚いというより、古臭いという言葉のほうが似合う家だった。台所は壁に張り付いており、料理をする人はリビングに背を向ける形になる。煤け、黒ずんだガスコンロには、青白い火が燃えていた。
我が家のキッチンは、リビングにいる人と向かい合え、かつ料理している手元を隠せるような、まさに近代のキッチンだった。もちろんオール電化だ。この家は、奥に和室があり、破れた障子があるところも、昭和の家という雰囲気を強めていた。
「お茶淹れるから座って」
無言でうなずくと、言われた通り椅子に座った。机にはシールを張って剥がした痕がある。中には剥がせず、そのままになっているものもあった。
子供向けのアニメのキャラクターが、片目をつむってポーズをとっている。自分が可愛いことを自覚した、神に愛された容姿を持つ者特有の、あざとい笑み。それにわけもなく苛ついた。何度も剥がそうとしたようで、端のほうが白く色落ちし、変な形にめくれていた。
まだ息が整わない。はあはあと荒く息を吐いたり吸ったりする。普段何も考えずにしている息の仕方がわからなかった。一生こうだったらどうしよう、と不安になったが、気がつけば呼吸はいつも通りに戻っていた。
少女は盆に茶と菓子を乗せてやってきた。こちらの前には繊細な花の模様が入った硝子のコップを置き、自分の席にはプラスチック製の安っぽいコップを、まるで見せつけるようにわざとらしく置く。客人に対する、形だけの気遣いだった。扉が透明な食器棚を見ると、呑み口が欠けた陶器のものや、使い込まれて色の剥げたものしかなかった。
煎餅が入った皿を机の真ん中に乗せると、少女はまた台所へと戻っていった。
「お煎餅しか家になくて。もっと別のものがよかった?」
「ううん、大丈夫」
ここで別のものがいいと言っても、新しいものを出すことはあるまい。否定することが前提の質問に、自分の中のどこかが疼いた。
その袋に手を伸ばす。端をぴりりっと破くと、二枚の薄っぺらい煎餅が出てきた。まんべんなくまぶされている半透明の粒は砂糖か、それとも塩か。
香ばしい香りが漂ってくる煎餅を、少しだけかじってみた。乾いた音をたてて割れたそれは、ひどく甘ったるかった。舌打ちし、ほとんど噛まずに茶で流し込む。残った煎餅は袋ごとゴミ箱に突っ込んだ。
舌打ちの音は、たぶん、彼女には聞こえなかったはずだ。
「突然来てごめんね。迷惑だったよね?」
心にも思っていないことを、自らの意思で口にする。台所で作業をする少女の表情は、ここからは見えなかった。
「そんなことないよ」
いつも通りを装ってはいるが、そこには計り知れない棘がある。嘘つき、と口にしなかっただけ、自分には理性があった。耳をいじくりながら、冷めた目で少女の背を眺める。ピアスの穴の感触を、意味もなく指先で辿っていく。
「ほんと大丈夫だから。全然気にしないで。一週間後まで親帰ってこないし」
「毎日ご飯作ってるの?」
「まあ、毎日ではないんだけど、週に一回くらいは。大体買い食い。あと二十分までに仕上げなきゃだから、料理しながらでもいい?」
「もちろんいいけど」
少女は深呼吸をする。その背が少し硬くなった。
「それで、話って何?」
なんでもないような口調で、彼女は話を切り出した。
本当はわかっているくせに。
喉元までせり上がってきた言葉を、すんでのところで呑み込んだ。
ふつふつとこみ上げてくる感情を抑えようと、彼女の顔から目をそらすと、ちかりと反射する光が目に入った。
ボウルやスプーンが、ザルの中に無造作に突っ込まれている。その中には、包丁もあった。
無意識に立ち上がっていた。本当に、意識してしたことではなかった。
少女は冷蔵庫から物を取り出すため、ザルの前から移動した。少女は近づいていることに気づいていない。調理器具に埋もれていた包丁は、思いのほか簡単にザルから抜けた。
物音に気づいたのか、少女が振り返った。手に握っているモノにその目線が吸い寄せられる。
少女は声を出さなかった。己の手で口を塞ぎ、何かを堪えるような、苦痛に満ちた顔をする。
こちらはまだ何もしていないのに。
身を翻し、少女は逃げた。
無防備にさらされた彼女の背中。それを見た刹那、何もかもが消えた。
気がつけば、鈍く輝く包丁が手の中にあった。だから、仕方がないのだ。
甲高い声が耳朶を揺さぶり、そして――……ふつりと途切れた。