プロローグ
麗春のみぎり。春もたけなわで街ゆく人々の装いが軽やかな今日このごろ、ちょっとした商店街の一角にあるテナントの美容院では、初夏を迎える準備に頭髪を整えようとやってくる美しいお客様たちで賑わっています。
salon de beauté
そんな名前の店で美容師の女性が二人と見習いらしい少年が忙しなく働いていた。
シックで落ち着いた雰囲気で居心地の良い空間のそこは界隈で人気店として繁盛している。
カランコロンとクラシックなドアチャイムの音がして若い女性が入店する。
「いらっしゃいませ」
見習いの少年が掃除の手を止めて応対する。
「ご予約の方でしょうか?」
「じゅっ……十九時かりゃ予約の一条でひゅっ……」
若い女性は盛大に噛んだ。
正面に来た彼の顔に見惚れて瞬く間に顔が熱くなっていく。
「いっ……一条様ですね?確認いたしますので少しお待ちください」
その一方で彼女に見覚えがある少年は一瞬身動いだが予約台帳に目を通すと一条依莉愛の名前を確認した。
彼は彼女の名前を知っている。何故なら二年続けてクラスメイトで二年続けて出席番号が一番だからだ。
「一条依莉愛様。ご予約を確認いたしました。ではこちらの椅子に座ってお待ちください」
少年は座席を案内すると彼女は熱くなった両頬を両手で押さえながら席に着いた。
それから彼女は忙しなくしている彼を目で追い続ける。
(やっば!めちゃくちゃ綺麗な顔じゃん!)
背は高くないが手足が長く頭が小さい。
(きっとウチと変わらない年齢だよね?)
テキパキと仕事をする彼を見て(すっご)と感心しながら高鳴る鼓動とキュンキュンと刺激する下腹部の奥を突き上げる感覚に依莉愛は一目惚れでの初恋を自覚した。
彼を見てスゴいと思えるのは見目好い依莉愛が読者モデルとしてアルバイトをしていたからである。
「あ、お姉ちゃん……」
依莉愛がこの美容院に来たのは姉が働いているからだ。
予約を入れておくから十九時に来てと言われていたのだが、その姉と目が合うと、先程の少年と姉がヒソヒソと会話しているのを見てしまった。
「一条さん、あの一条様って妹さんですか?」
「あ、うん。そだよ。妹の依莉愛。可愛いでしょ?」
彼には女の子が可愛いとかそういったものに関心を寄せない。いつも酷い目を見ているからである。
それに依莉愛の姉である一条聖愛も存外に可愛い。何故、こんなに可愛い女の子がキツイ・汚い・キケンの3Kと名高い仕事を選んだのかが理解し難い。彼はそう思っていた。
「あっちの一条さんって同級生なんですよ。だから俺の名前、絶対に出さないでくださいよ」
「えー……なんで?もったいないじゃん。依莉愛、読モだよ?かわいい女の子と仲良くなれるチャンスじゃん?」
少年の怒気を孕んだささやき声に、聖愛はニヤリと下卑た笑顔を彼に寄せる。
「読モとか可愛いとか関係ありません。俺にはムリなんです」
「あたしの可愛い妹にムリってひっど……」
「酷いことされてるのは俺の方なんですから頼みますよ。ダメだったら一条さんの手伝いしませんよ?」
「ヤ……それは困る」
少年はこういった助手的な仕事を長く手伝っているからなのか手際が良く新人の聖愛はとても助かっていた。
だから、少年の脅しに多少の焦りを見せる。
「だったら、絶対に、俺の、名前、出さないでくださいね」
「わかったよー。じゃあ、和音くんの言う事を聞くその代わりにさ。依莉愛の髪をやってもらっていい?」
「絶対に俺の名前を出さないってことと彼女が良いなら仕方ないですけど、できればヤりたくないです」
「おし、じゃあ訊いてくるよ」
和音というのは彼の名前だ。紫雲和音は十六歳の高校二年生。
母親の美希が営むこのサロン・ド・ビューテの手伝いをしている。
美希はつい先程から年配の女性を調髪しているから手が空いていないのだ。
「あ、お姉ちゃん……」
「いらっしゃい。あのさ」
聖愛は依莉愛の隣に座って話を切り出した。
「あたしが依莉愛の髪をヤると1万5千円するんだけどね。あそこにいる男の子がやると無料でできるんだよね。どう?あの子、あたしより上手いんだよ」
「え、ウチ、お姉ちゃんに切ってもらえるのかと思ってたのに」
「あたしはもう少し慣れておカネに余裕ができてからやってあげるしさ。あの子ならタダだよ?読モっつったってキツいんだろ?」
聖愛は親指と人差指で輪を作って依莉愛に見せる。
ちなみに、この1万5千円というのは諸々やればそれだけかかるがカットだけなら数千円もかからない。
つまり、聖愛が和音に依莉愛の髪を切らせるためのウソである。
「それに、あの子、綺麗な顔立ちのイケメンだしな。依莉愛も気に入ったろ?」
姉に抱いたばかりの淡い恋慕を悟られて不意に頬に血が集まる。
「あはは。お前、わかりやすいな。で、どうする?」
先程少年に見せた下品な笑顔を妹にも向ける聖愛。
依莉愛は姉のニチャニチャした笑顔を好ましく思っていないのだが、この顔を向けられるといつも断りきれないでいる。
「……わかったよ。良いよ。あの人に切ってもらっても良い」
「おし、じゃ、決まりな。店が閉まってからじゃないと切れないから、カフェとかで時間を潰して八時になったらまた来るでも良いよ」
依莉愛が応諾すると聖愛は席を立ってそう伝えた。
「閉店まで待ってる」
依莉愛は外で時間を潰すより彼を見たいと思ったからだ。
「あ、そう」
聖愛は予約枠がひとつ空いたことで当日客を一人受け持って今日の仕事を終えた。