かっ飛ばせ! 真夏の夜のホームラン!
-◇-
『彼』のターン
スターティングオーダー:ビジター
八月七日は毎週土曜日に行われる夏祭りの最終日だ。
天気予報は真っ昼間から夜まで雲ひとつない快晴。夜には例年通り、バカでかい花火が打ち上げられるだろう。
だから。
僕は今晩ホームランを打つ。
そう決めている。
-◇-
いつもは部活帰りや親子連れでごった返しているバッティングセンターも、今晩ばかりはガラガラだった。
当然、北高野球部の姿も見えない。
暇そうにテレビを見ている店員の前を抜け、打ち慣れてきた時速100キロ用のバッターボックスに向かう。
念のため、扉に張られたガラス越しに中を見たけれど、そこには誰もいなかった。
今日はきっと貸切になるだろう。
1ゲームは21球、おおよそ5分。
今が7時ちょっと過ぎだから、最後の花火があがる8時半まで90分。休みなしでやったとしても、今日のために買っておいたゲームカード22回分を使い切ることはない。
先週末に買ったばかりのバッティンググローブをはめて、扉を開く。
むわっとした、夏の夜の空気が僕の体をなぜる。少しの間クーラーの効いた室内にいただけなのに、その変化はとても大きなものに感じられた。
まあ、当然だ。
なにせここからはプレイヤーしか入ることができない運動部側エリア。
僕みたいな帰宅部が立ち入る場所ではないのだ、本来なら。
ふぅ、と。
軽く息を吐く。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
繰り返して、内側から自分の体をそっち側に馴染ませる。
7回ほど深呼吸を繰り返せば、無駄な思考は意識の底に沈んでくれた。
振りやすい長さの金属バットを手に取ってから、入口脇の機械にゲームカードを差し入れる。
すぐさま、ピッチングマシンが動き出した。
カードを入れてからボールが投げられるまでの間隔はやっぱり短い。
急いでバッターボックスに入る。左足の先を後ろに向けたスタンスを取って前を見れば、機械仕掛のアームがボールを放つ直前だった。
ぶん、とボールが飛んでくる。
「よいしょおっ!」
ノーステップで腰を捻る。
遠心力でバットを振り回す。
がつっ……と両手に重い衝撃。
当たった。
そう意識して前を向くと、右斜め前の方にボールがぽーん、と飛んでいく。
「よし……!」
一球目から前に飛ぶなんて、かなりいい感じだ。
今日の調子ならホントにホームランのマトにぶち当たるような打撃ができるかもしれない。
そんな気がしたのだ。そのときは。
-◆-
『彼女』のターン
スターティングオーダー:ホーム
夏祭りというものは浴衣で行くものだと思っていた。
けれど、それは『女子』と呼ばれる年齢限定で、新人の時期を過ぎた『女性社員』の私に適用されるものではなかったらしい。
ワイシャツを着た男性社員たちと、薄手のブラウス姿の女性社員たちの中で、ひとりだけバリバリに着付け済みの私の姿は異様なまでに浮いていた。
部署全員で花火大会に行くイベント。
会社で初となるこの試みは、集合時間が普段の飲み会より30分遅く設定されていた。
それを着付けとかの時間を取るためだと判断したのは私だけだったらしい。企画した新人の子たちですら横一直線の『ザ・会社帰り』という服装である。
「みなさん、お疲れ様っす! 場所、とってあるんでご案内します。 こっちっす!」
昼から早退してた幹事くんすら普段のワイシャツ姿だ。
ざわざわ、ぞろぞろと動き出す同僚たちに話しかけることもできず、慣れない下駄のせいでちょっとずつ集団から遅れていく。
内心、半泣きだった。
歩くこと10分。
海岸沿いの一角に置いてある、馬鹿でかいブルーシートにたどり着く。
「それじゃあ、ここからは自由行動で! 出店とか見てきてください! あとで集まるのも面倒だと思うんで、自由解散です! 自分はここにいるんで、よろしくお願いします!」
幹事くんの叫び声で、集団が小さく分かれて散らばっていく。
よく話す同僚グループも、いつの間にかどこかへ行ってしまっていた。
幹事くんと私の二人が取り残される。
ブルーシートは無駄に領地を主張していて、混んでくれば周りに白い目で見られそうだ。
「先輩、浴衣すげーキレイっすね」
幹事くんが私に話しかけてくる。
アップにして結んだ髪型だとか、メガネじゃなくてコンタクトだとか、赤い下地の浴衣だとか。そんなものを、大人の女っぽくてカッコイイなんて言葉で褒めてくれた。
まあ、中々に最悪だった。
それだけ、気を遣わせてるってのが分かったから。
「ありがとう。今日はお疲れ様」
間を繋ぐような言葉に対して、場の空気を壊さないように答えを返していく。
お互いに価値のない、くだらない時間。
年甲斐もなく浴衣を着た報いは、そんな罰じみたものだった。
「買い出し帰りましたー!」
出店に行っていた新人くんたちが帰ってくる。それを見た、幹事くんのほっとしたような表情。
「じゃあ、私も行ってくるから」
自由行動なのは幸いだった。
一人でハケても誰に文句を言われることもない。
(バッセン行こ)
ばかすこに打ちまくって、ストレス発散したい。そんな気分だった。
-◇-
『彼』のターン
両陣ピンチの9回表
ズバンッ! と後ろから音が響く。
バットに当たらなかった球が、後ろのマットに当たる音だ。
誤算だった。
3ゲーム目で兆候は出ていたけれど、連続5ゲーム目にもなるといい加減、息も完全に上がってるし、腕もプルプル震えておぼつかなかった。
ズバンッ! ズバンッ! ズバンッ!
最初のうちは半分の半分くらいを前に飛ばせていたものの、今はバットにカスリすらしなくない。
マシンの投球が止まる。一度も当たることなく、5ゲーム目が終わった。
(無理かなぁ、やっぱり)
弱気を自覚する。
自己満足だからだ、こんなことは。
本当は、別の人と一緒に花火を見ているあの人と同じ時間を過ごしたい。
けど、それが無理だと分かっているから、あてつけみたいにがむしゃらにバットを振っている。
ただ、それすら苦しい。
せめて何か。
諦めても仕方がないような何かがないと帰ることすらできず、上がった息が苦しかった。
そんなとき。
震えが止まらない手でゲームカードを機械に入れようとした、そのとき。
扉を開けて入ってきた、浴衣姿の女の人に声をかけられた。
「ねえ、代わってもらえる?」
びくっ、となって色々な思考が吹っ飛んだ。
それは、急に声をかけられたことに驚いたからでもあるし、順番を飛ばしそうになっていた気まずさもあるし、それに何より、浴衣を着ている人が今からバットを振ろうとしているのが意外すぎたからだ。
「……いいかな?」
「あ、はい、スイマセン、出ます!」
見下ろす視線に思わず敬語。
とっさに頭も下げてしまう。
「あー、ゴメンね?」
そんな言葉を後ろに聞きながら「っす」なんて、まるで運動部が言うみたいな、単語未満の言葉を呟いて扉を抜ける。
がちゃり、と扉を閉めて思い出すのは、さっきの人の足元。
下駄だった。
バッティングセンターなのに。
そう考えたとき。
カッキィーーンッ! と。
目が覚めるような金属音。
顔をあげると白球が、敷地外への飛び出し防止用のネットに突き刺さっていた。
-◇-
鮮やかだった。
濃い赤色の布地にあしらわれた白い花模様。それがくるりと舞うたびに、白球が夜の空を飛んでいく。
空を貫いていくそれは凄まじいスピードで、正直それだけでテンションがあがる自分を自覚する。
こんなふうにあの人は、バットを振るアイツの姿に見惚れたんだ、と頭のどこかで理解した。
その、自分ではどうしようもならない僕の片隅が『さっさと別のバッターボックスに行ってホームランを打て』と駆り立ててくる。
けれど目が離せない。
タイミングを合わせて踏み込まれる左足のステップが。
向かってくるボールを真芯で捉えるスイングが。
回転する浴衣の後ろ姿から想像できるそれらがどれだけ難しいのか、僕は知っていたから。
「すげえ」
そんな言葉が自然に出たのだ。
いつの間にか。
手の震えは落ち着いて、呼吸は心地よく跳ねていた。
-◇-
打席を変わる。
思い出す。
YouTubeで何度も見た、プロらしき人のバッティング解説動画。
それを丁寧に自分の体で再現する。
両足を結ぶ線が前を向くように調整しつつ、肩幅程度に足を開く。
上半身のバランスを取りつつ、ぐぐっと右に腰を捻っていく。
ビュンッ。
一球目が風切り音を立てて、体の前を抜けた。
気にしない。
慌てて打っても、きっと当たらない。
ぎちぎちぎちと、バネを限界まで絞るイメージで体をよじり、限界ぎりぎりでロックする。
視線を前に。
ピッチングマシンの、縦に伸びる筒を球が登っていく。
それが見えなくなったあと、アームがゆっくりと振れていき、頂点あたりで、ぶんっ、と振り下ろされた。
球が飛んでくる。
それは少しずつ下に落ちながら、腰のあたりを通過していった。
次は打つ。
とん、とん、とん。
さっき確認した、球が上がるリズムを自分の中で刻んでいく。
とん、とん、かたかた、かたかた。
ぶんっ!
来る。
捻ったバネを解き放つ、そのとき。
くるりと舞う浴衣の後ろ姿が頭に浮かんだ。
思わず、それに沿うように上半身を滑らせる。
バットは地面と平行に走っていき、そして。
カキン!
ボールは真っ直ぐまん前に、自分が打ったものではないようなスピードで、地面の上を走っていった。
-◇-
バットを振るたびに、打席を交代して戻ってくるたびに、少しずつイメージは具体的になっていく。
そのたび、イメージから遠い体の動きにもどかしさも覚えるけれど、少しずつ良い当たりが増えて来ているのも確かだった。
けれど。
僕と反比例するように、浴衣の人の調子は悪くなっていく。
2ゲーム目の半ばくらい。何かに引っかかるように回転が乱れてから、ずっと何か様子がおかしくて、そして今。
3ゲーム目の3球目のあと、いきなり姿が消えた。
びっくりして扉に近づく。
中を見ると、浴衣の人はバッターボックスの中でうずくまっていた。
うずくまる頭の位置はちょうど腰のあたり。
ボールがそれたら、直撃しそうな高さ。
息を呑む。
気付けば、扉を開けて浴衣の人をかばうように立っていた。
同時に背中のすぐ近くを球が駆け抜ける感触。
ころころと転がるボールの先には、マシンの筒部分を次の球が登っていくのが見えた。
「大丈夫ですかっ!」
自分でも驚くほどの大声。
けれど内心は焦りで頭がこんがらがっている。
引きずって避難させる?
どこを持てば良い?
知らない男に触られるの嫌じゃないか?
どうすればいいのか分からずに、声だけが残響と共に溶けていく。
両手は浴衣の肩あたりを所在なくふらついて。
さらに2球、背中を抜けていったあと。
「ごめん、大丈夫……。歩けるから」
そう言って、目も合わさずに浴衣の人はひとりで立ち上がった。
そのまま、扉を抜けて歩いていく。
いたたまれなくて視線を落とす。
そこには、紐を止める部分が真っ赤に染まった下駄がぽつりと残されていた。
-◇-
「すいません、バンソウコウとかありますか?」
「あー、怪我? ほら、気をつけな」
受付の人は奥から救急箱を取り出して渡してくれた。
受け取ったそれを右手に持ち、ベンチに座っている浴衣の人のところへ歩く。
何かの助けになりたいと思った。
血染めの下駄を残して去っていく背中がどうしても気になって仕方なかった。
今さら、おかしさに思い至る。
浴衣でバッティングセンターなんて。
血が出るまでバットを振り続けるなんて。
何かきっと、今日。ここにくる前。
ひどくつらいことがあったに違いないのだ。
的外れな共感かもしれない。
自分の憐れさを勝手に重ねているだけなのかもしれない。
それでも。
まぶたの裏側に焼きついた、くるりと舞うあの浴衣姿を、はがゆさとともに思い出すような記憶にしたくなかった。
「あの、救急箱、借りてきて、もしよかったら」
カミながら、何とか言葉を口にする。
いち、に、さん。
たっぷり三秒数えたあと、俯いていた浴衣の人が、ぐしぐしと顔をぬぐうように手を動かした。
丁寧にセットされたっぽい頭がゆっくりと動く。やがて、顔は見上げるようにこちらを向いて。
「ありがとう。キミ、いいひとだね」
少し眉尻を下げて笑った。
どきり、とした。
年上のお姉さんらしきその人は、けっして美人というわけではない。
きっと、本来ならもっと整っているだろうその顔は、まぶたが少しはれていて、化粧が乱れたみたいになっている。
けど、きれいだと思った。
それだけ余裕がないはずの状態でこちらに微笑むその強さがどうしようもなくきれいだと、そう思ったのだ。
-◇-
「うん、痛くない」
救急箱で適切な治療を完了させたらしいお姉さんは、ぱしん、と浴衣の叩いたような音を立てた。
その音に安心して振り返る。
「ありがと。キミ、気遣いすごいね。足見えるからあっち向いてくれてたんでしょ」
「や、そういうわけでは……」
気遣いというわけではない。
ちらっと見えた足を、じいっ……と見てしまいそうになる自分が恥ずかしかっただけだ。
ただ、それを馬鹿正直に話すのは、それよりもっと恥ずかしかった。
「ふふふ。今の若い子って、そういうの当たり前? すごいね」
「お姉さんだって若いじゃないですか」
まるで小さい子供に向けるような口ぶりが悔しくて、思わずムキになってしまう。
けれど、お姉さんはイラッとした様子もなく、穏やかな顔で微笑んで見せた。
「ううん。もう若くないんだ。浴衣なんてもう着るべきじゃなかったのに、それが分かってなかった。それでむしゃくしゃして無茶して、挙げ句の果てには怪我して知らない男の子に助けられてさ……恥ずかしいよね」
腹が立った。
言っていることの全てが分かったわけではないけれど、自分を卑下してることは分かったから。
「恥ずかしくなんてないですよ」
「うん。やっぱりキミは良いコだね。私はもう大丈夫だからさ、バッティング戻りなよ」
何だそれ。何が大丈夫なんだよ。
大丈夫なものなんて、どこにあるんだ。
届かない言葉がもどかしい。
わざと空滑りするような返答が悔しくて仕方なかった。
「僕は」
伝えなければならない。あなたがもし自分のことを恥ずかしいというのなら、僕は僕が知る、あなたよりも恥ずかしいやつについて伝えて、その態度をぶち壊してやらなければ。
「僕は、クラスで2回くらいしか話したことのない女子を今日の花火大会に誘って振られました。好きになった理由は入学式の日に消しゴム拾ってくれたからです。一年半ずっと話しかけることもなく一方的に目で追ってました」
がーっ、と。息継ぎすることもなく言葉を放つ。
きょとん、と。完全に不意打ちをくらったような顔が心地よい。
ざまあみろ、というやつだった。
「で、その子は野球部のエース様と今日、花火大会行ってます。僕は、それが悔しくて仕方ないから、『テメーの球なんか打ってやるわい!』って気持ちで今日、ホームラン打ちにきました。どうですか? 訳わかんなくて気持ち悪いでしょ」
言い切って、はぁはぁ、と荒い息を吐く。
所詮、この程度で息が上がる僕である。それすら情けない僕である。
じっと見る。
お姉さんは、呆気に取られた顔のあと、視線を上にさまよわせるようにクルクルと回した。
そして目が合う。
じっと見つめ合うようになって、少し。
そして急に、ぼん! という効果音が聞こえてきそうなほど、一気に顔が真っ赤になった。
「あ、あはは。若いってすご……むりぃ」
そう言って目を逸らした。
勝った。サバンナでは目を逸らしたら負けなのだから、僕は勝ちで良いのだ。
よく分からない高揚感である。
「ふーっ! 分かった! ありがと! ひどいね、私ら。二人とも恥ずかしいや、あはは!」
お姉さんが大声を出して笑う。
つられて僕も笑った。
花火大会の夜。会ったばっかりの二人。
バッティングセンターのベンチの上で、お互いの恥をさらして馬鹿みたいに笑いあう、そんな時間。
-◇-
「ねえ、ホームラン打ってよ」
一生分くらい笑ったあと、お姉さんはそんなことを口にした。
「いや。無理っす」
「えぇーっ!」
極めて冷静な僕の分析結果に、お姉さんは口を尖らせた。
「私、足こんなだし、今日はもうバッティング無理なの。けど、まだ打ち足りないんだよね。だからさあ、代わりに仇討ってほしいワケ」
「はあ」
言われても無理なものは無理である。
「何よう、やる気なーい。キミ、当たるようになってきてたし、いくつか工夫すれば打てると思うんだけどなあ」
ぴく、と反応した、と思う。
お姉さんがニマニマした表情を見せたから、きっとそうなのだろう。
だって反応するのも仕方ないのだ。お姉さんが言ったことは、お姉さんが僕のバッティングを見てたことに他ならないから。
「どこっすか。工夫すればいいとこ」
「ふふふ! 良いね」
憮然と横を向く僕に、とても満足そうなお姉さん。
(まあ、いいか。そういう顔をしてもらえるなら)
そんなことを考えてしまう。
「それじゃあ、改善策。アッパースイング、押し手の意識、それから……」
ひとつひとつ、実際の動きをしてもらいながらアドバイスを聞いていく。
それらを自分の体で再現するたび、細かいところを修正してもらう。
お姉さんの指先が僕の体に触れるたび、そこがまるで焼けるように熱い。
もしかしたら、そういう動揺も見透かされてはいたかもしれないけど。
-◇-
ボールが飛んでくる。
タイミングが合うよう、バットを斜め上に振り上げる。
ずしん、と。バットが真芯でボールを捉える感触。
瞬間、右手に力を込めてバットを前に押し出した。
カッキィーーンッ!
耳元で弾けるような金属音。
打球は空を切り裂いて、マトに向かってまっすぐ飛んでいき、そして。
「あーっ! 惜しいっ!」
マトに当たる、その寸前に失速して落ちていった。
「くっそー……」
会心の当たりだった。じんわりと、未だ痺れるように手に残る感覚は、今まで生きてきたなかで一番のものだと断言できる。
ただ、それでも届かない。
前を向く。球は来ない。
何回目か分からないゲームは、さっきのバッティングで終わっていたらしい。
「お疲れ様、惜しかったねー! でも、すごい当たりだったよ」
防護マット裏の、ゲームカードを入れる機械の隣に控えてくれていたお姉さんが労いの言葉をかけてくれる。
興奮した様子のそれはきっと本心で。
「ホームランじゃなかったけど、すっごいの見せてもらったよ! ありがと!」
これもきっと本心だろう。
教えてもらったぶん、全部合わせて最高の当たりでギリギリ届かないのだから、きっとどうあがいてもホームランは打てないのを、お姉さんは分かっているのだ。
その、優しい気遣いをあえて見て見ぬふりをして、ゲームカードをマシンに挿し入れる。
「見ててください。次は当てます」
顔も見ない。
赤面した顔を見られるのが恥ずかしいから。
打席に戻って構えるうちに、最初の一球はやっぱり通り過ぎる。
まあ、仕方ない。
次の球を待つ。
かたかた、かたかた。
マシンから球が放たれる。
その瞬間に左足をあげて体を捻る。
「ステップ!?」
踏み下ろす。全身の体重、一気に左足に預けるように。
バットはこれまでとは比べ物にならないスピードで回り、空を切った。
「無茶だって! 慣れてないステップ打法で当てに行くと変なクセついちゃうよ!」
後ろから、遠慮のない怒り声。
それがなんだか嬉しくて、けど、声援じゃないのがちょっとだけ残念だ。
ズバンッ! ズバンッ! ズバンッ!
3球連続で空振ったところで、目をつむる。
正解のイメージ。あの浴衣姿を思い出す。
かたかた、かたかた。
球が上がっていく、そのときにはもう左足を上げておく。
ぶんっ! とアームから球が離れる。そこからタイミングを見て体を捻り、体重を前に預けた。
ぢっ、とバットの上を球がかする感触。
見上げれば、ボールは真上の方向に打ち上がっている。
「当たった……」
呟きはどっちのものか。
もしかしたら、二人両方だったのかもしれない。
次の球。その、次の球。
少しずつ、少しずつ。イメージと体の動き、それとタイミングのズレが無くなっていく。
そのたびに少しずつ、ボールは斜め左上に跳ね上がっていった。
「ふぅ」
ホームランのマト。そのすぐ近くのネットに突き刺さる白球を見て、僕は小さく息を吐いた。
感じは掴めた。
あとは運次第というとこだろう。
いつのまにか、お姉さんの制止の声は消えていた。
思わず振り向く。
すると、ぎゅっ、と両方の手を小さく胸の前で握っている姿が見えた。
「キミ、名前は!」
「え」
不意の問いかけに、思わず反応が遅れた。
何球目か分からないボールが真横を通り過ぎていく。
「名前! 教えて!」
「黒木です。黒木康平!」
意図も分からず、正直に答えて前に向き直る。
ちょうど、次の球が放たれたところだった。
改めて構え直す。
もう、球数もそんなにはないだろう。
なかなかに厳しい勝負だった。
けど。
「かっとばせーっ! くーろーきっ!」
後ろから、調子外れの応援歌。まるで、酒を飲んだ親父がテレビで贔屓の試合を見ているときのような、残念な既視感を覚えるようなそれ。
それが。
それがどれだけ、僕を滾らせるか。
きっと、あなたが想像してるより、ずっと。
ずっとずっと、僕はもう、フルチャージなのだ!
飛んでくる球はまるでスローモーション。
踏み出す一歩は万感の思いを込めて。
必然と確信を備えたバットはボールに吸い込まれるように近づいていく。
耳がぶち壊れるような金属音。
白球が、夜の空を駆けていく。
便箋に書かれた『ごめん、行けない』の小さな文字も、彼氏に対する一方的な嫉妬心も、全部全部置き去りにして駆けていく。
そこにあるのは。
がこん! とボールがマトに当たる衝撃音。
そして流れる、ジャジャーン、というチープなファンファーレ。
そして。
「やったー! すごい! すごーっい!」
最初のクールな感じはどこへやら。
お姉さんは思いっきりはしゃいでいた。
「ふくく……っ!」
笑いが抑えきれない。
だって、白球に乗せたひとつきりの思いが、今そこに叶っているのだから。
月は新月、晴れていて。
打ち上がる花火はきっと綺麗に見えただろう。
ただ、どれだけ美しい花火より、ずっとずっと。
僕が自分で打ち上げたホームランは、最高に違いないのだった。
お読みいただきありがとうございました。
ご意見・ご感想などいただければ非常に嬉しいです。