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ジャンティエスな杖  作者: 榎町清志郎
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親切な物語

なんでこんなものを選んでしまったのだろうか?

 私は自分の部屋の隅に寄りかけられた杖を眺めながらそう思った。選んだ時はこれしかない、間違いない、と断定したのだけどな。事の始まりは二週間前、母方の祖父の訃報の知らせから始まる。私の両親は大学から帰宅したばかりの私をすぐに喪服に着替えさせ祖父の家へと向かった。あっと言う間にお通夜が過ぎ、葬式が済み、火葬が終わっていった。そして祖父の死から一週間後、遺品整理のため親族達は再び祖父の家に集まった。遺品の分配をするために。

そこで私はその時のことを詳しく思い返してみる。いとこ達は時計や万年筆、そういったものを選んでいたはずだ。そんな中、私は生前祖父が使っていた、祖父の介護ベッドのそばに立てかけられていた杖を選んだのだ。私はこれがいい、と選んだ時には周囲でざわめきが起こったのを覚えている。母が近づいてきて私にこう言った。

「ちょっと叶香かのか、あなたなんて物を選んでいるのよ。他の物にしなさいよ」

呆れた声だった。その時の母の顔と言ったら、「いい加減にして、人様の前で迷惑かけないで」といったメッセージが込められた恐ろしい顔だった。普段の私ならその有無を言わせない顔に怖気づき、母に従っただろうがその時ばかりは違った。どうしてもその杖が欲しく、激しく母に反抗した。ついに母は折れ、回りの親族に「まったく、や~ねぇ、家の娘ったら変わったものが好きで……」と必死に言い訳していた。キッ! と私を陰で睨みつける母に気づかないふりを通し私は祖父の杖を手にした。

その瞬間、その杖を欲していた気持ちが一気に冷めた。あれっ、何で? 私、この杖が欲しかったんだよね。それならもっと満足感があるはずだ。欲しいものを手に入れた時のあの達成感がちっとも感じられないのだ。

私、こんな物、欲しくない……。やっぱり違う物がいい、と言って変えてもらおうか。そうしないと後から母に何を言われるかわかったもんじゃない。いや、もう既に何か言われることは決まっているだろうけど、少しでも母のご機嫌が良くなることをせねば……。

「叶香ちゃん」 

「うえっ、はい、何でしょう」 突然、名前を呼ばれて変な返事をしてしまった。私の名前を呼んだのは母の弟であるいつきさんだった。母とはだいぶ年が離れており、私との方が年が近く、叔父さんというより少し年上のお兄さんといった感じのする人だ。会うたびによく遊んでくれた、樹さんとはいい思い出しかない。

「ははっ、そんなに改まらなくてもいいんだよ。いやね、その杖のことだけど大事にしてあげてね。なぜだか知らないけど父はその杖、気に入っていたみたいだからさ。」

「おじいちゃんがですか? 」

「そうなんだよ、父は意外と新しい物好きだったし、昔の人なのに物をあんまり大切にしない人だったけど、この杖だけはなぜか変えようとしなかったんだ。別に高い材木ってわけでもないのにね」

私は自分が今手にしている杖を見てみる。樹さんの言うように確かに杖自体はそこまで価値のある物には見えない。材料はありふれたアルミ合金で先端にはゴムキャップがしてある。それに古いせいかあっちこっちが擦り切れていて、「ザ使い古し」という言い方がよく似合う。

「まあ、ただそれが言いたかっただけね。叶香ちゃんがなんでその杖が欲しかったのかは知らないけど、何か父と通じるものがあったのかもしれないし、どうせ捨てる予定の物だったし、なんせ叶香ちゃんがもらってくれれば父も喜んでいると思うんだ。だから、大切にしてあげてね」

気づけば私は、その日一番の元気で「はいっ!」と返事をしていた。今更、やっぱり違う物が欲しいなんて口が裂けても言えなかった。樹さんは兄の様な存在だけではなく、私にとって初恋でもあったのだ。誰にも言ったことは無いけれど……。

三親等以外からじゃないと結婚が出来ないことぐらいはもちろん知っている。これでも大学一年生だ、バカにしないでほしい。叶わなくてもいい、心の奥底に秘めた恋があったっていいじゃないか! 私はそう思う。樹さんを異性として意識するようになったのは何気ない出来事からだった。

小学一年生の頃からピアノを習い始めている私であったが、最初の頃はまったく弾けなかったということは無く、結構弾けていた。別に自慢しているわけではない。本当に才能と言う奴だ。幼稚園児の頃から先生が弾くピアノの音に敏感だった。絶対音感というものが私には備わっていたのだ。私には普通の事だったが、どうやら周りの人とは違うらしい。そのことを知った母は私をピアノ教室に通わせ始めた。最初は週二回から、それが三回になり、五回になった。高校に入ってからはそれが毎日になった。お金だって馬鹿にならないはずだ、と思って一回、母に聞いたことがある。県から特別金が出ているから大丈夫の一言が返って来た。推薦で音楽大にも入学した。入学してからはピアノと触れ合う機会がさらに増えた。ピアノの腕も極端に上がっている。このまま行けば私はプロのピアニストになるだろう。というより、なるしかない。私にはこの道しかないのだ。それはそうと関係ないが大学に入ってから初めての友人が出来た。一人だけだが…、名前を由実という…。

……話を戻そう。とにかく私は小学生の頃からずっとピアノと触れ合って来た。それはもう祖父の家に遊びに行ってもピアノを一人で弾き続けるぐらいに。誰も私に話しかけてくることは無かった。ピアノ教室でも、学校でも、家でも。そんな中、樹さんだけは違ったのだ。無我夢中、一心不乱、一意専心、一意専念。何とでも言える。とにかくピアノを弾き続けるだけの私に話しかけてくれたのだ。率直に嬉しかった。別段、特別なことはしてもらっていない、ただ話しかけてもらっただけ。それだけで私は樹さんに恋をした。

ピアノを始める前からも樹さんは遊んでくれた。だからいい思い出しかないと言ったのだ。そんな樹さんからこの杖を大事にしてね、と言われたのだ。大事にするしかない。

簡単に言えばそんなことがあったから私の部屋の隅には杖が寄りかけられている。祖父の家から自分の家に帰ってきて母からグチグチ愚痴を言われた。父は黙ったままだった。一週間経った今も何か気に入らないことがあるたびにそのことを持ち出してくる。まったく厄介だ。

おっと、マズい、ピアノと向き合う時間がやって来た。私は楽譜が書かれた冊子だけを持ち、自分の部屋から出た。そしてすぐ隣の部屋に入る。この部屋は私がピアノを弾くためだけに作られた部屋だ。壁が防音するように作られており、中にはkawaiのグランドピアノが一台置かれている。通称、防音室だ。ピアノの屋根といわれる部分を開き、突き上げ棒で固定する。譜面版にピアノ教室からコンクール課題として出されている先ほど自分の部屋から持ってきた楽譜の冊子をセットした。ピアノ椅子に腰かけ、軽く鍵盤に触れてみる。程よい緊張が私からにじみ出る感覚がする。私がピアノと向き合う時はいつもこの感覚に支配されるのだ。一人で引く時、レッスンの時、大衆の前で弾かなくてはならないときも。

息を深く吸い込み、一気に鼻から吐き出しながら、鍵盤をたたき始めたのだった。


どれくらい時間が経ったのだろうか? 時計を見るともう既にピアノを弾き始めてから二時間が過ぎていた。あ~あ、またやっちゃった。ついピアノと向き合っていると時間の流れ方がわからなくなってしまうのだ。別に他にやりたいことがあるわけじゃないからいいか、と思い防音室を出た瞬間に気づいた。スマートフォンにLINEの通知が入っていたのだ。送り主はもちろん由実だ。そもそも、私にLINEを送ってくる人間は限られている。母か由実だけだ。父はガラケーのため必然的に候補から外される。母は同じ家の中にいるのでわざわざ連絡してくることなどない。よって除外。由実からの連絡の内容を見てみる。

九時からのドラマ見てくれた?

私は顔が真っ青になる、しまった、忘れていた。

大学に入って初めてできた友達と呼べる由実は樹さんと同じくピアノに夢中な私に話しかけてくれた。彼女はヴァイオリンを専攻している。扱う楽器が違うものの由実は毎回私が一人でピアノと向き合っていた姿を何度も見ていたのだという。私の通う大学には個人でレッスンするための自由に使える個室がある。私は暇さえあればそこに籠っている。ある日、個室から出てきた際に由実から話かけられたのだ。

「ねえ、ねえ。こんにちは。あなた、いっつもここにいるよね」

「え、えぇ、は、はい…?」 人と話し慣れていない私は最初からグイグイくる由実に戸惑ってしまい、傍から見れば勝手に一人で慌てている女の子だった。ああ、恥ずかしい…。

「ねえ、ねえ。そんなに慌てなくてもいいよ。私、前川由実。あなたは船村叶香さんだよね?」

「う、うん」

「ねえねえ、叶香さんは、なんでいつも、本当にいっつもピアノを弾いているの? いくら熱心でもあそこまでピアノをずっと弾き続ける人、初めて見た」

由実は話しかける時、必ず「ねえ、ねえ」と言ってくる子だった。本当に私に興味を持ってくれて話しかけてくれているのか、ただ単に懐っこい人柄なのか、私には判断できなかった。それでも悪意はなさそうだったし、話しかけてくれただけで私は嬉しかった。だから私は自分の描く将来像を由実に話した。

「へえ~、ピアニストかぁ。すっごいなあ、叶香さんは。ちゃんとやりたいことがあって、将来も安定だねえ」 

この大学に来る人間は少なからず、少しはプロの音楽家を目指して入学してくる者ばかりのはずだ。由実だってプロのヴァイオニストになりたくてここに来たのではないのか? そう疑問に思って気づけば質問していた。

「えぇ~、そんなの私の腕じゃぁ無理だよぅ。それに私は型にとらわれず好き勝手に演奏するのが好きなんだもん。自分勝手にやらなきゃ楽器している意味がないじゃん」

私はその由実の考えが理解できなかったが、それからというもの由実はよく私に話しかけてくるようになった。最初の方はまた彼女か、と投げやりに話を聞いていたが次第に私は由実との会話が楽しみになっていった。知り合って二か月経った頃、私と由実は二人で個室を借りた。そこで初めて由実のヴァイオリンの演奏を聞いた。由実自身が言うように彼女の演奏は自分勝手だった。ソロで弾けば聞けないこともなかったが、他の楽器と合わせることは難しいように思えた。それでも由実のヴァイオリンの弾いている様子は私が今まで見てきた楽器を扱う人間の中でも群を抜いて楽しそうだった。そんな由実とついに先日、LINEを交換した。珍しく私から「これからもよろしくね」と送ったら「あね」と帰って来た。

ん? あね? 「あね」ってなんだ。どういうことなのかまったく理解できなかった私はグーグルで検索した。どうやら了解という意味らしい、同い年の子に全然ついていけない。

そして本日、由実は今、放送中のドラマの話をネタに持ってきた。もちろん私はそんな話についていけないし、興味もない。だけど由実が言うにはとにかく面白いから、そのドラマを観て欲しいらしい。仕方なく観てみるだけ観てみるか、と思っていたのに、いつもの癖でピアノを弾き続けてしまった。このことを知ったら由実は怒るだろうか? 「観たよ。」と返信してこの場をやり過ごすか。いや、由実のことだ、明日必ず私に感想を求めてくるだろう。 

私はスマートフォンの画面を見つめ続けたまま、自分の部屋に入り、椅子に座った。どうしようか、今まであんまり友達というものがいたことのない私にはとても難しい問題だった。ふっと、あの祖父の杖が目に入る。貰ってきて部屋の隅に置いた時と同じように杖は壁に寄りかかっている。私は立ち上がり、杖の前まで行き、手に取った。

「あんたも少しは考えてよね。捨てられそうなところを私に救われたんだから」 私は杖に囁きかけるようにそう呟いていた。……まったく馬鹿みたい。何やってんだろう。動物ならまだしも物に話しかけるなんて、それにそれが祖父の杖とは。ロマンのかけらもない。

「よし…、明日正直に謝ろう。LINEよりも面と向かって言った方がいいよね」

私はそう自分で呟き、心に決めた。祖父の杖を元の壁に寄りかけ、寝る前の歯磨きのために、部屋を出たのだった。  


シャッコ、シャッコと私は自分の顔が映る鏡を見ながら、歯を磨いている。私は出来るだけ自分の顔を見たくない。だから鏡を見て行わなくてはならない作業の時は出来るだけ自分とは目を合わせないようにしている。トットットッ、廊下を誰かが歩いてくる音がする。洗面台の後ろの廊下を母が通った。そのまま通り過ぎていくのかと思ったら、ひょっこ、と顔を出して言った。

「叶香、あなた何をしているの?」

「何って、寝る前に歯を磨いているだけだよ。見ればわかるでしょう」

私は当たり前のことを答えたが、母はまだ納得がいかないらしく首をかしげながら言った。

「寝るって、あなたまだ、八時過ぎよ。ちょっと早すぎない?」

は? 母は何を言っているのだ。私は八時ごろにピアノを弾き始め、今まで二時間以上弾いていたはずだ。防音室を出る時に時計を見たら十時を少し過ぎたぐらいだった。何より由実から九時から始まり十時に終わるドラマを見たかどうかのLINEが来ていた。だから八時過ぎである訳がないのだ。まだ四十代後半であるはずの母はもうぼけ始めたのだろうか? 私は半ば本気で母を心配した。

「お母さん、大丈夫? ちょっと疲れてるんじゃないの? もう十時過ぎだよ」

「何言っているのよ、母さんは大丈夫よ。おかしいのはあなたの方でしょう。時計を見てみたら」

私は、口をすぐにゆすぎ、父がテレビを観ているはずのリビングへと急いだ。リビングのドアを勢いよく開き、壁に取り付けられている時計を見る。私の焦った様子を父はポカンとしばらく眺めていたが、何も言うことなく、再びテレビへと目を戻した。

時計は母が言った通り、八時過ぎを指していた。電波時計のため時間が狂っているということも考えられない。じゃあ、私が見た防音室の時計はどうだったか。思い立ったらすぐにリビングを後にして、防音室へと急いだ。結果は同じ、リビングの時計と同じく八時過ぎを指していた。

これは一体どういうことなのか、私が時間を見間違えたということは決して考えられない。現に由実からのLINEはどう説明するのか、と思いスマートフォンの画面を見た。LINEを起動させ、由実との会話の記録を見てみる。

ない……。ない、ない、ない、ない、ない。先ほど見た「九時からのドラマ見てくれた?」と書かれたメッセージが残っていないのだ。どうして? 一体なにが起こったというのだ。まるで後味の悪い夢でも見ているような気分だった。

これじゃあ、まるで時が巻き戻ったとしか言いようがない。どうしようもなくなった私はとりあえず、本当に時が巻き戻ったかどうかを確かめるために九時まで待った。もし本当に時が巻き戻ったというのならば、再び由実の言っていたドラマが放送されるはずだ。

九時五分前、私はリビングに行き、父に九時から見たいものがあるんだけど、と言ったら「いいよ、何見るの?」と聞いてきた。ドラマと告げると「へぇ、ドラマか」と一言を残し、チャンネルを差し出してきた。どうやら父も一緒に観る気らしい。

そのまま九時になるのを待っていたら、九時から少し過ぎた頃に由実の言っていたドラマが始まった。

ドラマの内容としては、三話からの視聴となってしまったので最初は何がどうなっているのかわからなかったが、前回の内容も踏まえて放送してくれていたので、わかりやすかった。

観終わった後、「面白かったな、初めて見たけど…」という父の感想にはとてもこの人らしいと感じた。考えれば、父と何かをしたということ自体久しぶりだった。いつぶりなのかという質問には答えられない、それくらい久しぶりの感覚だった。普段はあまり何も言わない父、大学の推薦を受けると私が決めた時も父は特に何も反対しなかった。私に関心がないのだ、女の子よりも男の子が欲しかったのかな、と思った時も確かにあった。だけどそうじゃない。父はただ単にあまり話さない人なのだ。だけども、自分の意見が言いたい時があったら、ちゃんと自分の口で言ってくる。私は急にそんなことに気づいた。なぜ、今なのか、そんなことはどうでもいい。今気づけたことが大切なのだ。

ビンゴーン、という音に由実からのLINEがきたということに気づく。内容はさっき見たはずの「九時からのドラマみてくれた?」だった。どうやら本当に時が巻き戻ったらしい。でもそんなことも今の私にはどうでも良くなっていた。私は、由実に「観たよ、面白かった」とLINEを返信した。そして、父におやすみとだけ告げ、自分の部屋に戻った。

私はベッドに横になると、なぜだか知らないが、「ふふっ、」と笑みが漏れた。多分嬉しかったのだろう。他人から紹介されたドラマに対して同じ面白さを感じることが出来たこと、父と同じものを一緒に観て、父を知れたことが。いわゆる共感できたことが。全然眠いという感覚がなかった。むしろ目は冴えてしまっている。その日、私は遅くまで起きていた。


次の朝、私は珍しくもう少し眠っていたい、と思った。しかし、目覚まし時計のアラームは鳴り響いてしまっている。私は時計に手を伸ばし、アラームをオフにした。その瞬間、部屋の隅に寄りかけられてある杖が目に入る。例えるなら杖の手も借りたい気分だった。あと三分だけ、お願い…、私の意識はそのまま眠りに落ちていった…深く。

…ん、ああ、よく寝た。私は満足げに上体を起こした。あれ? ちょっと待てよ…。アラームをオフにしてからどれくらいたった? 今何時だ! 私はガバッと時計を両手で取り、時間を確認した。しかし、時計はアラームが鳴るようセットしてある時刻の十分前を指していた。

一体どうなっている? また時が巻き戻っている。この力は何がきっかけで働くのだろうか。突然私が身に着けてしまった超能力とでも解釈すればいいのか。まだ時が巻き戻るというものを私はまだ二回しか体験していない。それも昨日の今日で、だ。この二回の時間が巻き戻るということを体験してみて共通していることとは何だ。それは私が困った時だ。心の中でどうしよう、と思った時だ。じゃあ、私が朝食にステーキが食べたい、食べなきゃ嫌だ、と心の中で思えば叶うのだろうか? 答えはやってみるに限る。私は心の中で朝食にステーキが食べたい、食べたいよ~と何度も思った。よし、リビングに行ってみるか。

私はリビングに入りながら、「おはよう」と一人で朝食を食べている母に挨拶した。父はもう既に仕事に出かけている。

母は私の顔をまじまじと眺めながら、「叶香、あなた起きるのが随分早いのね。まだ目覚ましが鳴る五分前よ。昨日も意味の分からないことばかり言っていたけど、本当に大丈夫なの?」と言った。昨日のことは仕方ないとして、いつも起きる時刻の五分前に起きただけでここまで心配されるのはいかがなものだろうか、と思いながら私は食卓に着いた。母はわかめの味噌汁とごはんを食べている。私だけにこれからステーキが運ばれてくるのだ、と少し興奮した。しかし、母が立ち上がり私の前へと運んできたのはわかめの味噌汁とごはんだけだった。

「ステーキ…」 ステーキが運ばれてこなかったことがショックだったのか、私はそう呟いていた。

「は…、ステーキ? あなた朝からなに言っているの。やっぱりどこか体調悪いんじゃないの?」

私は、「違うよ、大丈夫。」と言いながら、私の力じゃなかったか、と少しがっかりした。じゃあ、いったい何がこの力を発しているのか?

私が時を巻き戻す力について深く考えようとした時、「ああ、そうそう」と母が何かを思い出したように話しし始めた。

「ほら、樹叔父さんいるでしょう」 

「…うん」 急に樹さんの名前を出されて私は顔が熱くなった。それと同時に樹さんに「叔父さん」と付ける母に少しむっと来た。

「樹叔父さんね、今度結婚するんだって、」 私は目の前が真っ暗になった。

「こないだのお爺ちゃんの葬式の時にはもう既に結婚することは決まっていたらしいんだけど、場所が場所だからわざわざ言わなかったらしいのよ。それじゃ、遺品分配で集まった時になんで言わなかったのか、って話よねえ…」 母はその後もやっと弟の身が安定して良かったなど、話を続けていたが私の耳にはまったく入ってきていなかった。

私は小さく「ごちそうさま…」と呟くとすぐに自分の部屋に走った。聞きたくなかった。何がステーキだ、朝から私は浮かれていたのだ。でも、こんな…話、聞きたくなどなかった。自分の部屋に入ると、パジャマから大学へ向かうための私服に着替える気も、うせてしまい、ベッドにうつぶせで突っ伏した。もう大学にも行きたくない。誰にも会いたくない。

 部屋のドアの前で母が強めにノックをしながら、「叶香、叶香! どうしたの、大学に行く時間よ。やっぱり体調が悪いの? 」と声がしていたが私が返答しないものだから、しばらくして静かになった。

 静寂に包まれた自分の部屋の中で、私は枕から顔を上げた。初めての失恋だった、というよりも伯父と言う立場の人に好意を抱いていたのだ。叶わないのが当たり前だ、最初からわかっていたはずなのに、悲しい…。人に振り向いてもらえないってことはこんなにも悲しいものなのか…。

 樹さんから大事にしてね、と言われて渡された祖父の杖の方を見る。相変わらず部屋の隅に寄りかけられている。私はベッドから起き上がり、立って杖の方に行った。杖を両手で持つ。あの時、大事にしてあげてね、と言われたときにもう既に結婚するということが決まっていたなんて信じられなかった。いや、信じたくなかった。

 こんな話、聞きたくなかった…。


 はあ…、のどが渇いた私は仕方なく何時間ぶりかに自分の部屋を出た。誰もいませんように、と祈りながらリビングを覗く。

 んん! 驚いた! 母が朝食と同じメニューを朝と同じように平然と食べているのだ。リビングの時計を見てみれば、今朝私が起きてきた時間を指している。これは時が巻き戻っている。じゃあ、これは私なんかの力ではなく、もしかして…祖父の杖の力か。そう考えれば全てに合点がいく。私があの杖を選んだのもただの偶然ではなく、あの杖の仕業だったのかもしれない。そして祖父はその杖の力を知っていた、だからあの新しい物好きの祖父は杖を手放さなかったのだ。

「叶香…、あなた…、そんなところで何しているのよ? 」

「え…?」 母が今まで見たことのないような怪訝な顔で私を見つめていた。

「早く入って、朝ごはん食べたら…どう…? 」 そうか、私が樹さんの結婚の話を聞きたくない、と心の中で思ったからこの時間帯に時が巻き戻っているのだ。このままではまた、母から樹さんの結婚話を聞かされてしまう。

「ごめん、お母さん、ちょっと、体調が悪くて…、」

「えぇ! そういえば昨日からあなた、ちょっと様子がおかしかったわね。今日は大学休んだら、コンクールに響いても弱るから」

「うん、そうする」

 そのまま私は二度目の朝食を食べないで、自分の部屋に戻った。部屋の隅に置かれている杖を取り、呟いた。

「あんたの力だったんだ…。もう、あんたなんて呼べないね。君はいつからおじいちゃんに使われていたんだろう。いや、そんなことより君を使えば、樹さんの結婚を無かったことに出来るかもしれない…」 私は自分にこんな恐ろしいことを考える一面があるとは知らなかった。息が少し荒くなっているのが自分でもわかる。

「はぁ…、はぁ…、はぁ…」 怖い、でもこれを使えば、これさえ使えば…。 「やめておけ、後悔する」 声が聞こえた。私は時が巻き戻るという非現実的な体験をした人間だ。そんじょそこらの事じゃ驚かないようになってしまっている。

「やめておけ、後悔する」 まただ、また聞こえた。私は声の主を探して自分の部屋を出た。 「ここは…」 そこは結婚式場だった。これも…あの杖の力…なのか。考える暇はなかった。なんせその結婚式場にはたくさんの人がいたからだ。よく見れば、私の知る顔がいくつもある。親戚の人達だ。

 急に周りから歓声が上がった。大きな拍手の音が波のようにこの空間を包みこんでいく。その場にいるあらゆる人々が幸せそうだった。その幸せの中心に樹さんはいた。

 正確には樹さんともう一人、樹さんのお嫁さんだ。二人は笑顔で周りの歓声にこたえながら歩みを進めていく。二人の進む先にはなにがあるのか、ただ眩しい光があるだけでわからなかった。恐らく、祖父の杖もそこまでは予想しきれないのだろう。

 私は樹さんとそのお嫁さんが眩しい光に一歩、また一歩と歩みを進めていく様子をずっと眺めていた。二人が歩みを止めたかと思うと、お互いの顔を見つめ合い、笑顔を浮かべた。

 私は悔しかった、だがそれと同時に自分が壊そうとしていたものの大きさがわかった。


 気づけば私は自分の部屋で祖父の杖を抱えて立っていた。なんて親切な杖だろう…。私が道を踏み外そうとしていたのを助けてくれた。私は自分の道を歩もう、そう強く思わせてくれる。

 ビンゴーン、とLINEの通知音がした。多分、由実からだろう。今どこの時間帯に私はいるのか、そんなことはどうでもいい。私は私の時間を生きるだけだ……。


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