福岡工場作業員殺害事件はなぜ未解決なのか
依頼人の男は幼い頃、父親を何者かに殺害され、ずっと養護施設で生活してきた。彼に母親はおらず、兄弟もいない。高卒認定試験を受けたのち、現在に至るまで、父親の職場でもあった福岡県内の工場で働いている。彼にとって唯一の家族が殺害されたこの事件は、警察の懸命な捜査も虚しく、公訴時効を迎えてしまった。
今回、玻璃光彦に寄せられた依頼はこの事件の真犯人を探し出してほしい、というものだ。この事件は発生当時、福岡で大きな話題になっていた。光彦はまだ生まれていなかったが、警察官である光彦の父から聞かされていた。また、最近では依頼人自身がテレビ番組に出演して情報提供を呼びかけている。よくある『依頼人が実は重大な真相を握っていた』という線は今回の場合はなさそうだ、と初動段階で光彦は判断した。
ここで事件の詳細な情報を説明しよう。なお、人名は被害者および依頼人のプライバシーのため伏せさせていただく。昭和三十九年十月十二日の昼頃、出勤しなかった被害者Xの様子を見に来た工場長が、Xの自宅でXの遺体と、衰弱したXの息子を発見した。遺体は一見すれば首吊り自殺にも見えたが、遺書がないこと、踏み台がないことから警察は事件と自殺の両面で捜査を開始。十月十九日には自殺に見せかけた殺人事件と断定した。
しかし、現場からはXのものを除いて事件と関係のありそうな指紋は検出されなかった。また、付近の住民に警察が聞き込み捜査を行ったものの、不審者などの情報は一切上がらなかった。犯人は相当完璧な証拠隠滅を行ったと見える。捜査も行き詰まってしまい、平成元年に公訴時効が成立することとなった。殺人における公訴時効が廃止されるのは平成二十二年、即ち今年のことである。
光彦は当時の捜査に関わった元刑事に話を聞いた。事件当時、Xは満一歳の息子Zとの二人暮らしだった。少々わかりにくいが、このZがすなわち今回の依頼人である。Xには保険金がかけられており、遺書などが全くなかったため、保険会社の規定により全てZに支払われた。決して裕福とは言えなかったが、Xの財産もZが相続した。「残されたZは、父親が殺されたことも認識していなかったと思う。上司や同僚たちも気の毒そうにしていた」と元刑事は語った。
光彦は不思議に思った。元刑事の話を聞く限り、Xが殺害されて利益を得た人物は当時一歳のZのみだ。一歳の子供が首吊り自殺に見せかけて大人を殺害することができるとは到底思えない。確かに遺体に何者かと争った形跡は記録されていないが、いくら実の息子相手といっても、命の危機となれば必死に抵抗するはずだ。
光彦は続いて、興信所と市役所へ向かった。Xの妻を特定するためだ。以前にXをZにとって唯一の家族と表現したが、それは事件当時の話。父親のみで人間は生まれないので、少なくとも昭和三十八年時点では必ずZの母親が存在していたはずだ。その結果、母親YはXの子Zを確かに妊娠したが、戸籍上の結婚はしていないことが判明した。離婚ではなく、最初から入籍していなかったのだ。
ここに何かを感じ取った光彦は法務局を訪ね、苦い顔をする係員を説得し、古い戸籍謄本を調べた。明治期に編製されたものまで遡ると、Yの先祖に『新平民』という注釈を発見した。新平民とは何を意味するのか、尋ねられた係員は怒ったような顔で口を閉ざした。そのため光彦は彼への追及をやめ、図書館で戸籍に関する文献を探した。すると同和問題を紹介する項目の中に、新平民の文字を発見した。
同和問題とは部落差別問題とも言い、生まれた地域によって就職、転居、結婚などの場面で不当な差別を受けることである。元々は中世の身分制度だった。明治に入って表面上は四民平等とされたが事実上の差別は残り、明治五年に編製された壬申戸籍には一部の被差別部落出身者に『新平民』あるいは『元非人』などといった注釈がつけられた。
Yは被差別部落出身者の子孫だった。これを受け、光彦は事件をYの目線から見直した。ここから先は光彦の想像になる。XとYは両親への正式な交際の報告をする前にZを身ごもった。二人の結婚に反対したのはXの両親だ。恐らく被差別部落出身者を先祖に持つYが親戚になることを嫌がったのだろう。その上、生まれるZの親権だけはXに主張させ、XにZを育てさせた。ところがXは亡くなってしまう。光彦は自殺だと考えた。
差別主義な両親に絶望したのか、愛するYとの関係を認められなかったのが悔しかったのか、Zに両親がいる家庭を用意してやれなかったことに責任を感じたのか。遺書がない以上、正確な理由はもはや特定できない。ともかく、Zが養護施設に入所できる程度の保険金と財産を残し、Xは自ら命を絶った。
Xが首吊り自殺を選んだとして、床から三十センチは飛び上がらなければならない。しかし、踏み台に使用したと思われるようなものは現場には残されていなかった。だからこそ、警察はこれを事件と断定した。もし保険金をZに支払わせることを目的にXが偽装工作を行ったのであれば、警察はまんまとその策略にはまったということになる。
この現場について、光彦はひとつの仮説を立てた。大きな氷を踏み台にしたのである。実はXが勤務していた工場では、氷の加工を行っていた。氷をいくつかの塊ごとに分けて家に運び、踏み台のように積むことができたのだ。また、遺体発見の日時から、氷が溶けて蒸発するまで十分な時間を確保できることもわかった。
Xの遺体が発見されたのは昭和三十九年十月十二日。月曜日だ。この日になって初めて工場長がXの家に向かっている。一方で十月十日土曜日は東京五輪の開会式がテレビ中継されており、町の人目は少なかったと推測できる。土曜日の昼から月曜日の昼まで丸二日あり、記録によれば福岡市はその間ずっと晴れていた。
以上の調査報告書をまとめ、光彦はZからの依頼を完遂した。近代オリンピックという華々しい祭典の裏で、中世から続く差別に翻弄された男が引き起こした悲劇だった。光彦の帰宅を十歳の歩美と三歳の元太が迎えた。子どもたちの母、苗子はいない。元太を産んですぐに殺害されたのだ。もしも今日、自分がいなくなったら。本件の調査中、暗い想像が光彦の頭をよぎることもあった。
光彦には捜査資料を見て疑問に思った点がある。警察は当初、自殺と事件の両面で捜査していたのだが、確たる証拠もないまま一週間で事件と断定している。まるで「Zに保険金を渡すため、殺人事件として処理しよう」と考えたかのように。もしXの死を殺人事件だとするならば、誰を逮捕するべきだったのだろうか。