九話
「先程は失礼した」
顔がひどく腫れている。しかし何食わぬ顔で挨拶し、深く頭を下げた。
「先程?」
シャドが首をかしげる。騒動の後、気絶してからずっと寝ていた娯楽にとっては先ほどでも、シャドたちにとっては昨日のことである。
「ああ、先程だ。介抱はキッパー医師が?」
「他に誰がやる」
そのひねくれた答えに娯楽は微笑んだ。
「ベッドに運んだのはお主だな」
そこでシャドは自分が名乗っていないことに気がついた。
「クライブ・シャドだ」
さらにもう一つ。彼も、そしてキッパーもこの不自然な身なりの不可解な行動をする男の名前を知らないことにも気がついた。問おうにも、その男の眼差しはある一点に張り付いている。
くっくと唸るように、そしてヘラヘラしながら視線を下げた。
「いやあ、なんだ、焦っておったのかもしれんな」
手を伸ばすことが無駄だとしても、そうしなければならなかった。あの神の使いを名乗る化け物にはまだ聞きたいことがあった。
「お主がマイラ・ロードレッドか」
ソファに座るキッパーの隣、小柄な女がいる。立ち上がり、一瞥。
腰まで届く金髪が。大きな漆黒の瞳が。手入れの行き届いた眉が。ほどよく焼けた肌が。赤い唇、豊かな胸。それらの調和も素晴らしい。視覚的な衝撃は、娯楽の家族と郷里のことで一杯な頭にも干ばつの地に降る雨のように染み渡らせた。
だらしなく着こなす戦衣装。胸元の留め具を外し、足の形に沿った袴も腰のあたりに引っ掛けているだけで、本来は支えとなるベルトも寂しそうである。
綺麗な面だ。しかし、だらしない。娯楽はそう思った。
「……名乗るんなら、あんたが先だ。礼儀知らずめ」
それはどこか娯楽を試すような口ぶりでもあった。
「芝位娯楽だ」
よろしくとはにかんだ。故郷では目立った人気者ではあるが、注目されることには慣れていない。いつも知らずのうちに人目を引いていたに過ぎないのだ。
「へえ。娯楽って、あれか? ラジオとか、小説とかの娯楽? へえ、立派だ」
挑発的な侮蔑のようにシャドには聞こえたが、当の本人は満足げである。
「楽しそうでいいだろう?」
「……けっ」
嫌味が通じないと困るのはそれを言った者である。女はそっぽを向いてまたどっと座った。埃が立つとキッパーは肘で突いたが無視された。
「で、お主は」
この瞬間を待ち望んでいただけに、その興奮も甚だしい。ただ、それは内面だけのことで表情には現れていない。むしろ唇を引き絞って隠していた。
「マイラ・ロードレッド」
名をなぞる唇が動いて、ようやく出会えた気がした。
「お前か、私の客って」
「客っつーと、変な意味みたいだな」
「殺すぞシャド」
長い付き合いのようで軽口にも遠慮がない。キッパーも止めることはしなかった。
「俺をここに運んだのはお前だろう。その礼がしたくてな。ありがとう」
そっぽを向いたまま鼻を鳴らすマイラ。照れんなよとキッパーはまたちょっかいを出すが、今度は仕返しに腕を極められていた。
「形で示せ」
視線も合わせない。正面切っての感謝などあまりされたことがなかった。
「持ち合わせはない。どうすればいい」
刀と衣服以外、娯楽は何も持っていない。自分には刀以外には何もなくていいという妙な心根があった。
マイラは何度も降参宣言をしていたキッパーの腕を放し、初めて目を合わせた。
「お前、傭兵か?」
「なんだそれ」
質問の意味ではなく、傭兵の意味がわからなかった。文字で置きかえてみようとも思ったが紙も筆もない。
「あー、金次第でどの組織にも属する兵隊だ」
浪人か。合点がいったと娯楽は首を振る。
「違う。俺は武士だ。藩士だ。仕える主君がいる」
「いようがいまいが関係ねえ。詫びを入れろって言ってんだよ」
「詫びって、何を」
マイラはこの鈍感な男の腹に拳を叩き込んだ。ぐえと間抜けな悲鳴。
「言うこと聞けってことだ。なあ、お前強いんだろ? 強いんだよなあ? 私にかましてきたくらいだからよ、さぞお強いんだろうなあ」
今度の嫌味はわかった。うなだれながらも謙遜する。
「それほどでもない。普通の教育と、平凡な稽古だ」
どうするつもりだとシャドは目だけで問いかける。マイラは小さな口を広げ、残忍に微笑んだ。
「私の仕事を手伝え。それでチャラだ」
即答、にっこり微笑んだ。
「できることがあるのなら、もちろんだとも」
あーあ。キッパーは成り行きを見届けて、心からの同情を娯楽に寄せた。