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異郷戦記  作者: こま
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八話

「で、この火傷か?」

「言い訳はしない。だがあの火の玉が突然にだな」

「馬鹿野郎! んなところに行くからだろうが!」


 娯楽は手当てを受けながらキッパーから文句の雨を浴びていた。


「シャド、お前も止めればよかっただろうが。明らかな患者だろうが」


 シャドと呼ばれた男はへらへらしながら答える。


「訳ありかと」

「患者は患者だ、ばか」


 手当てを終えるとキッパーはソファにいたシャドを蹴飛ばし座った。これが医者かという目付きに、更なる威圧をもって応えた。


「戦闘が終わったんなら撤収命令も出る。そうじゃなくてももう少しで魔術師が来るだろうから、それまでは痛がってろ」

「それは別に後でもいい」


 娯楽にとって大切なことはひとつしかなかった。


「マイラは来るのか」

「ん? 来ると思うが、やけに執着するじゃねえか。なんかあんの? 礼がどうとか言ってたけど」


 シャドの問いに少しの間を持って娯楽は答える。


「礼もあるが、会いたいのに会えないというのがもどかしい」

「ふーん、あんまり期待しない方がいいと思うけど」


 キッパーはお決まりの「寝ろ」と「安静に」を告げて眠った。激務だったのはシャドも同じで、昼過ぎには自分の野営基地に戻った。娯楽も寝そべりながらその時を待った。


「さて。いつ来る」


 時計の文字盤には長短一対の針があって、それが少しずつ回転する。これがなにかはわからないが、時刻を表すというのは理解できた。それが少し恐ろしい。


「見たことはないが、俺はこれがわかる……これが一で、二で……」


 あちこちにある見知らぬ文字や記号、その全が自らの知るものに頭の中で置き換わり、意味を伝えてくる。


「まあ……理屈はわからんが、困るよりはずっと良い」


 明るく言うが、それは辛さの裏返しでもある。耳と喉で自分が自分であると、田舎を駆け回っていた自分のままであると確かめたかったのだ。


「そうだろよ。そういう風にしてやったんだから」


 いる、それともいたのか。あまりにも唐突で不規則さを具現化したかのような存在が戸口の前に、娯楽の前にいる。大柄な人間を象っているが不思議な逆光で顔がわからない。そもそも光源は反対側だから、この光は、野太い声から察するに、彼から発せられている。


「してやった?」

「わからないか? この格好、街じゃそれなりにちやほやされるから気に入っているんだが、まあ、お前にはこれが似合いか」


 男はその輪郭をぼやけさせ、ゆらゆらと不安定な影となり、そしてまた構成される。幼い体、娯楽とそっくりなやや上向きな眉の形、丸い顔。着物姿の、たった数日しか離れていない彼女の姿に、娯楽は思わず涙し、激昂した。


「……その姿をやめろと言ったはずだ、エングース!」

「ほう、発音は上手くなったな」


 また揺れて、別な幼子になった。彼女なりの冗談だったようだが、かなり刺激的だった。そして恭しく立礼する。


「ようこそこの世界へ。まずは来てくれたことに感謝を」

「俺の意思ではないがな」

「でも楽しんでいるじゃないか」


 言葉に詰まった。娯楽は確かに戦や識字に恐れたが、心のどこかでは楽しんでいたのだ。


「……帰る術を知らんのだから仕方がない。それよりこれはなんだ。どうして字が読める」

「俺からの贈り物さ。我が主は無知ではない。その従の俺もそう。それくらい造作もない」

「贈り物などされるようなことをした覚えはないが」

「殺しかけたこと。同意無きままにつれてきたこと。少なくとも二つはあるぞ」


 エングースは何かの気配を察知して「質問は?」と言った。


「一つだけ答えよう」


 時間がないからな。微笑みには意地悪そうな彼女の本性がある。適当なことを言えば、それで終わってしまいそうだった。


「家族はどうなった」


 考えるまでもないと、娯楽は寝台から降りてエングースの眼前まで吐息が交わるほどに近寄った。それほどまでの切願がありながらも、キッパーやシャドには悟らせもしない。

 エングースは目を閉じる。その質問を嫌ったのではなく、答えを吟味するためだ。


「それは……俺が決めることか? 死んだと言えば、生きていると言えば、お前は救われるのか?」

「……いや。気が急いたな、悪い質問だった」

「サービスだ。もう一つくらいなら答えよう」


 超至近距離でのにらみ合い。二人は堂々と、方や楽しげに、方や憎々しげに、対照的な鏡である。


「どうすれば俺は帰れるのだ」


 今度は即答だった。


「生きてりゃ帰れる。とにかく生きろ。守れ。で、励めよ」


 攻城する際、門を破らねばならない。それを成すのが大きな杭だ。丸太の先端に鉄を被せ、門にぶつける。閂ごと門は破られ、人が雪崩れ込む。まさにそういう衝撃が、他者と己とを分ける隔壁に柔らかく、そして猛烈な速度で叩きつけられた。言葉の侵入を許してしまった。


「それは……」


 ありふれた励まし、しかし娯楽にとっては大きな意味を持つ。俺にそれをせよと言いつけたのは一体誰だ。未知の恐怖が全身を叩いた。


「じゃあな。またそのうち」

「待て! もう一つだけ……!」


 影は消える。逆光もなくなる。無駄と知りつつ手を伸ばした。


 がつん。


「お……?」


 影は消えた。逆光はない。しかし何かに触れた。その伸ばした手の行方とは。


「ほう。まさかこの私に」


 掌底は小高い丘、つまりは鼻を潰し、


「出会い頭にアイアンクローをするとはな」


 反射で握った手のひらは、そのまま小さな顔を掴んでいた。


「いい、度胸、だ、な……」


 謝罪も言い訳も出てこない。俺の手は何をしたのだと自問に囚われた娯楽は、ゆっくりと手を離した。


「申し訳な」

「殺す」


 矢のように真っ直ぐな右拳。娯楽の反射はそれを凌駕し、腕の関節を極めて背後を取った。流れるように膝の裏を押して、膝立ちになり体重をかけて背にのしかかった。腕を極めながらにして自由を奪ったのだ。


「あ、すまん。少しばかり気が動転した」


 うつ伏せのままそいつは憎悪でくすんだ瞳を向けてきた。双眸には薄緑色の宝石がはめ込まれているようだった。


「ふ、ざ、け、ん、な」


 怒りからか声も出ない。しかし口の開閉だけでもそれがわかった。殺気を隠すつもりもないようで、娯楽の肌が余すところなく粟立つ。


「この通り。俺が悪かった」


 視線を合わせての謝罪、すぐに厚ぼったい革靴が娯楽の鼻を蹴り上げた。

 蛙のように仰向けにひっくり返り、馬乗りになってからはひどかった。ごつごつという断続的な音符が五線譜を彩り、ぴちゃぴちゃと血の礫が跳ねる。


「てめえ、やって良いことと悪いことの区別もつかねえのか! 気絶なんか絶対に許さねえからな、死ね糞ったれ! 死んでからも二百発はぶち込んでやるから覚悟しろ!」


 その絶叫はサイレンになってキッパーを眠りから引き起こす。


「ん、ああ。お前か……て、おい何してんだ!」

「こいつが!」


 ごつん。


「私に!」


 ごつん。ごつん。


「手を出したんだ!」


 ごつん、ごつん。ごつん。


 怒りは頂点を知らず、殴れば殴る程に熱された。加減をしない拳はもう数十発はぶつけられ、歯が当たったのか、血が滲んでいる。その血も気絶した娯楽のものと混ざってうやむやになっていた。


「手を? 本当かよ……いや、いくらなんでもやりすぎだって! おい誰か来てくれ!」


 最初に看護師たちが集まったが、彼女たちでは止められない。騒がしさにシャドも顔を見せ、ボコボコになった娯楽をみて笑った。


「そこらへんにしておけよ。ここは医療の現場だぜ。戦場のど真ん中で平和主義を唱える奴はいない。それと同じく、ここでは争いなんてするもんじゃない」


 肩で息をする女。痙攣する娯楽。汗を拭うキッパーは「糞ったれ。何しに来やがった」と罵る。


「はあ? 呼ばれたんだよ、あいつに。ヤブ医者め、邪険に扱うと殺すぞ」

「やってみろ。何度でも生き返ってやる」


 売り言葉に買い言葉。女医と侵入者は火花を散らし、もうすっかり足元に横たわる男のことを忘れていた。


「先生、ほっといてやるなよ」


 シャドは呆れながら娯楽を抱えた。寝台に、やや乱暴に転がす。


「自業自得だ。こいつは後で殺す。おいシャド、客はどこだ。かなり待たせたんじゃねえか」

「ここにいるだろ」


 シャドが顔を腫らした娯楽の肩を揺すった。起きろと三回、呻きとともに手だけが挙がった。


「……いい拳だった。参ったな、お手上げだ」


 ぱたり、そして気絶。清々しさのある、晴れた顔だった。


「……なんだ、こいつ」


 その問いにキッパーもシャドも首を振る。それは誰にもわからない。

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