五話
「母上」
「あら」
娯楽は江の一家と今後の相談をするねんに平伏した。芝位さんが何かしていると野次馬が集まったが、兵士が壁となって防いだ。
「……遊びに行くんですのね」
「ええ」
「帰りは遅くなるのね」
「ええ」
娯楽は立ちあがり、一礼した。込み上げるものを隠そうとしたが、顔を上げた時、しっかりと目尻は濡れている。
「お七さん、あなたは笑った方が格好いいわ」
ねんは娯楽の両頬を指で摘まんだ。
強い人だ。ずっとそうだと思っていたが、改めてさらけ出された慈しみに童心へと帰らざるを得なかった。
泣くでも笑うでもなく、二人はしばらくそのままでいて、指の離れた赤い頬を撫でる。
「私、心配なんてしていませんよ」
「ええ。わかっています。母上は、いつも……」
感極まっての男泣き、ねんはその雫を指で拭う。
「つねられた頬が痛いのです」
「わかっていますとも」
母子の別れは言葉上、一片も真実はなかった。ただその奥にある覚悟と優しさは本物だった。
「兄様」
初は娯楽の袴を小さく引いた。
「情けない兄を見るな」
はにかんで、頭をぐりぐりと撫で付ける。
「兄様」
「なんだ」
初はもじもじと言うべき別れを探した。
「草餅、また食べようよ」
精一杯の言葉だった。彼女もそういう伝え方しかできない、不器用な芝位だった。
「ははは。そうだな。や、お江さん、初とこれからも仲良くしてやってくれ」
頷く江に安心し、死装束の埃を払う。
「……ああ、ええと、そうだ。あそこに人を埋めただろう」
仙崎のことを今持ち出したのに意味はなかった。ただ初との別れを口にしたくなかった。
「うん」
「あそこじゃあ……冬は寒いな」
「そうだね。でも夏は涼しいよ」
「ああ。そうだな」
そして初はにっと笑った。娯楽は泣いて、笑った。
「では」
そして走り出す。暖かな視線を浴びながら遠くの黒煙が空へと伸びる彼の地まで。
城下から黒煙まで娯楽は休息を挟まず踏破した。すでにそこは古戦場になっていて、無惨な藩士の亡骸と血痕を頼りに新たな戦場へまた走った。
近い。銃声がすると自然に体が強ばった。
林を一直線に抜ける途中、どういうわけか、頭の中で声がする。ひどくおぼろげで聞き取れない。
「どこだ、どこからこの声が」
大きな悲鳴、それを追うと、まさに味方が倒れる瞬間だった。木陰からそれを、死というものを初めて直視した。
獣の雄叫びが全身を叩く。
「あれは、なんだ」
そこにいたのは人に似ているが、人ではない。二メートルはある巨大な躯。手足は丸太を二つも三つも束ねたように太い。胴体は石垣に勝るほど分厚い。
「面……」
顔に当たる部分には、鉄板を目鼻に沿ってくりぬいてあり、真っ黒な長髪を垂らしている。
あれが化け物か。おそらくは父を、そして目の前の味方を殺したのは奴か。下半身に生温い液体が流れるのを感じた。失禁している、しかし大胆にも林から飛び出した。
「上等だ。演目は山猿退治とでもしようか」
オオと化け物が叫んだ。大気が粉々になりそうな音響である。
「幕は開いているんだ」
娯楽は刀を抜いた。東郷から渡されたものではなく、家の床の間にあったものである。これは竹で作った偽物で、殺傷能力はほぼない。
「抜いたからにはもう戻れん」
実戦の経験などない。恐怖で歯がガチガチと鳴るのもそのままに踏み込んだ。
太い腕を避けて、仮面の目に切っ先を立てる。竹光はへし折れてそこに残り、絶叫の暇もなく獣の巨躯は沈む。
深呼吸で熱い吐息を冷ましていると、また声が響く。心なしか、先ほどよりも弾んでいる。
「それくらいできれば十分だ」
化け物の死体に幾度も竹光を突き刺す。血は赤いのか、と娯楽は呟いた。
「俺はここさ」
化け物の傷口が光った。かっと視界をまっ白にして、瞬き数回、娯楽の前には可憐な少女がいた。
ひらりとなびく黒い着物の裾、伝え聞く南蛮の衣装だろうと予想をつけた。ぞろぞろとした装飾に辟易し、その人相を拝んだ。
「にしゃ、だんじゃ」
十歳ほどだろうか、全てが年相応の愛らしい顔の幼女である。ただその瞳はギラギラとやたら血生臭く光っている。
「お前の妹に似せたのだが、どうだ」
刀は出番を待ち焦がれていた。竹光を捨てて鉄の煌めき鮮やかに、鞘から跳ねてその身を踊らせる。ピタリと当てられた首筋に、その少女は何を思ったのかクックと気味悪く笑う。
「その姿をやめろ化け物め」
「殺せんよな。だからこの姿を借りたのだ」
「似ているものか! そんな面ではない!」
「じゃあ落としてくれ。首を、ほら、早くやってみろ」
かたかたと震える両腕は押しても引いてもまるで動かない。細い首に吸い付いているようだった。
「そう。ここで斬れるようでは困るのだ。俺はお前と話がしたいだけなんだから」
「二度は言わん。その姿をやめて、本当の面を晒せ」
娯楽は渾身の力で刀を納めた。まだ震えの残る腕には何かが這ったような跡がある。
「話をするか?」
したいはずもない。だが肯定しなければこの憎い顔のままなのだ。愛した顔を憎悪するという矛盾のままではいたくなかった。
「してやる。だから、早く」
満足げな化け物はまた光を放つ。現れたのは別の顔、しかしその顔もまた幼い女だった。
「これでどうだ」
「……本物の化け物め。しかしどうして幼子ばかりに」
「この方が助力してくれる者が多いのでな。まあ妙齢の女になっても良いが、お主には刺激が強かろうと思うてな」
「くだらんことを。それで話とは……いや、待てよ」
娯楽はその続きを自ら遮った。
「なんだ」
「俺は芝位娯楽と申す。にしゃの名はなんだ。名乗れ」
「……は?」
娯楽は真面目な顔でいる。その言葉が嘘や冗談ではないとわかってはいたが、化け物は首を傾げずにはいられない。
「名、とな?」
「俺は人だが人とは呼ばれん。芝位だからな。天狗同士でおいそこの天狗とは言わぬはずだ」
「いくらなんでもそれくらいはわかる。……そうだな、思い返してみればしばらく名乗っておらんなあ」
しばらく考え込んで、娯楽はその間何をするでもなく突っ立っていたが、化け物はぽんと手を打った。
「エングースと呼ばれている。そう呼べ」
耳馴染みのない響きがある。近所には間違いなくいない名だ。
「えんぐぅす。奇妙な名だ」
「お前に言われたくはない」
娯楽は「それもそうだ」と同意して吹き出した。
「俺も大層な名を貰っていた。それでえんぐぅすよ。話とはなんだ」
間を外されエングースはやりづらさを感じたが、ともあれ本題へと入った。
「お主、我が世界へ来い」
単刀直入、エングースは虚空へと手を当て、その空間にヒビを入れた。空中に浮かぶヒビがどんどんと黒い穴となり、ぽっかりと三次元に二次元を生み出した。
「……不思議だなぁ」
娯楽はそんなことしか言えなかった。
「さ、行こう」
「なぜ俺が」
ヒビに足をかけ手招きをするエングース、娯楽の疑問に肩をすくめる。
「俺がお主を連れて行くのではなく、お主は連れていかれるから俺が来たのだ。俺は神の遣いよ」
「神……? 神道、ではないのだろうなぁ。どうも俺の想像できる範囲から全て逸脱しておる」
「神の名はアンガルという。泥を司っているが、まあランクは低い。我が主人ながら下の下なのだ」
エングースは笑い飛ばし、そしてきつく口を引き結ぶ。
「だが仕えるには値する。お前はそれに選ばれた。どうだ、我が主人のためにこちらへと来てはくれまいか」
体の丈夫さを十とすれば、頭は六の娯楽である。何を言われているかはよくわからないが、エングースが本気であることは伝わった。だが彼も本気なのだ、ここに残らなければならない理由がある。
「俺にはすることがある。家族を守らなければならんのだ。母と妹がいる。知っているだろう。さっきの面の持ち主が妹だ」
「ああ。生きて戻りたいのはわかる。だが俺も、君命なのだ」
突風、娯楽はよろめいて、尻もちをついた。
「な、風を操るのか」
「違う」
エングースが指差したもの、それは娯楽の心臓に突き刺さる槍の穂だった。銀色の鋭い穂先がしっかりと食い込み、ごぼと血を吐いた。
「……殺すか」
「こちらへ来い。そうすれば治る」
これが死ぬということか。娯楽は流れ落ちる命そのものを目で追った。
「夢か。だがこんなんじゃ目も覚めん」
「現実だ」
ドスン。ドスン。槍は腹と太ももにも刺さった。地面へと縫い付けられた己が身を見て、一層現実感がなくなった。
「ふん。家族を守る、名を守る。その果てがこれか」
これから死ぬ。間違いなく死ぬ男は陽気に笑うばかりで、少しも恨み言などこぼさない。こぼすのはただ血と妙な洒落ばかり。
「ああ、拍子木が鳴って、黒子が出張って幕が降りる。だが芝居は終わっても我が家は終わらん。娯楽などなくとも母上も妹も平気だ。俺の家族は強いからな」
赤い咳をしながら、娯楽は白く霞んだ瞳でエングースを見た。そこにはもう命はなく、暗闇があった。
こういう時に笑うのか。娯楽は母の指を思い出す。
「俺が憎いかよ」
「当たり前だ。切り殺してやりたい。だが体が動かん。だから……俺はお前を忘れないことにする。絶対に、死んでもなお忘れん。霊魂尽き果ててもだ。今日を忘れるものか! 俺を殺しやがって、いつか貴様の元へゆくぞ。同じようにしてやる。俺から家族を奪いやがって!」
槍の柄を握る手に力はなく、言葉だけが溢れる。だがそれもすぐに静かになるだろう。
「それだけの元気があれば大丈夫だ。行くぞ」
エングースの言葉は届いていない。喚き散らす娯楽は突き刺さった槍と共に黒い穴へと吸い込まれ、消えた。




