四話
「あれが芝位の若虎か」
城にいた兵士や町人は娯楽を歓声で迎えた。
「娯楽さん、派手な格好だなし」
避難してきた町衆も親しみを込めて手を叩いた。
存在感のある芝位義郎である。その息子であるから歓迎も暖かなものだった。
「東郷様にお会いしては」
兵の一人がそう勧め、長島も同意した。ねんと初は江の家族と合流し、そこを身の置き場としていた。
「しかし、私など」
謙遜するも長嶋が段取りをつけあれよあれよと城へ通され、ある一室に招かれた。
地図がある。それを囲む武将たち。どの顔も険しく、疲労と脂汗がにじんでいた。
「只今、芝位殿をお連れしました」
案内役の小姓が高く言った。振り向く大人たちはその名に歓喜し、その顔に疑問を抱いた。
「義郎に成り代わり参りました。息子の芝位娯楽と申します」
「義郎はどうした」
東郷頼母の声は低く太い。地響きのように人を萎縮させ、嘘を認めない強さがあった。
「謹慎中に、出陣を」
平伏する額から一滴の汗が滴り床を濡らす。木目に広がり、立て続けにまたぽつぽつと落ちた。
「ふっ。やつのやりそうなことよ」
東郷は笑った。静かに、次第に豪快に、地図を囲んだ大人たちも散々に笑った。
「吉報じゃ。近日、稀な吉報じゃ。義郎が出たか。娯楽とやら、面を上げろ」
「はっ」
笑いでいくぶんか緊張はほぐれ、ようやく部屋を見渡せた。東郷の隣にいる小柄な男が、その柔らかな瞳をこちらに向けている。
「して、お主はどういたす」
武骨さの中にある高貴な佇まい。大名行列で盗み見た尊顔がある。このお方が我らの棟梁、方保様だ。娯楽は自然とまたひれ伏した。
「この非常時にも律儀だの。だが頭を上げよ。そして見よ、この者たちを。お主のように畏るものはおらん。これでは会津の陥落も早晩遅くはないと思わんか」
「何を仰る。確かにあなたの御治世は天下一だが、どうも御立場がよろしくない。低頭の潮を知っているだけあの小僧の方がましかもしれませんぞ」
「下げて終わるのならば何よりだがなあ」
肩をすくめる松平、切腹を申し付けられてもおかしくはないほどに無礼な東郷だが、誰も気にしていなかった。
「この通りよ。人をつくるのは人だということよ。我らの大将はこういうお人だ」
娯楽は息を飲む。呆気に取られたのではない。不可思議な忠義の言葉によって背筋に冷たいものが流れたのだ。この人のためならば何を厭うものがあるか、そんな覚悟がひしひしと伝わった。
「して、お主はどうする」
娯楽はがばと頭を上げ、あぐらをかいた。
「父の言いつけを守るのみにございまする。家を守るため励みまする。母と妹を守らねばなりません」
「では、ここにおるか」
東郷は手に持った扇子で床を軽く叩いた。
「芝位を守るため、芝位の名を汚すか」
行け。戦場に行け。そうした言外の圧力が娯楽を押し潰そうとする。
「芝位とは見物するものにございまする。演者ではありません」
諧謔を通した。娯楽は開き直りを選んだ。
「藩のためとは思わぬか」
「私の役目はそれではございませぬ」
「行かぬか。城下を朱に染めたいか」
娯楽は黙った。本心ではそれでもいいと思っていた。しかし家族を守らなければならない。生き延びなければならなかった。
しかし東郷はそんなことを許さないだろう。時代も立場も全てが逆風である。
「無理強いはせぬが、心で決めよ。ここがお主の分水嶺よ」
どくん。心臓が跳ねるように、骨と肉を突き破りそうなほどに暴れていた。
「行かねば誰かが死ぬぞ」
「家族が死ぬぞ」
「一族はきっと飢え死にさせぬ」
言葉が夏の雷のように降り注ぎ、その一撃ごとに痺れた。
父であればどうする。母はどうなる。妹はどうだ。あらゆる迷いが娯楽を苛み、疼く全身を震わせて立ち上がった。
「母上と妹を、どなたかお頼み申す」
湧水が川に注ぎ、支流へと伸びた。この選択肢を完遂してやろうと、娯楽は生死の分かれ道で、死を選んでしまった。
これも芝位の一幕。これも一生の些細な娯楽。そう十八の身空を棄てた。悲痛さを軽く飛び越えて、諦めに似た清々しさがあった。
「俺が預かる。不自由など、何一つさせない」
東郷がそれを汲んだ。
「ありがとうございます。それであれば悔いは無く、別れも楽しくなりましょう」
これが彼なりの、芝位の血が色濃い男の諧謔だった。
「……家族に別れを告げ即刻参陣致します」
一礼して辞すと、東郷が待てと言う。
「義郎に昔貰ったものがある。それをやる」
腰から刀を抜いた。ずんずんと歩み寄りそれを娯楽に握らせた。
「お主の父がお守りだとくれたのだ。やる」
「受けとれません。あなたは我が一家を預かるのですから。怪我などされては困ります」
「この野郎」
東郷は笑んだ目端に涙を溜めた。
「芝位の男は生意気なことばかり言う。いいから持っていけ。そして義郎に渡せ。あやつがおらねば、軍義もなにも、火の消えたように静かだ」
娯楽はそれを腰に差し、喉で笑う。涙が一筋頬を伝う。
「そのうち、父がおらずとも火がつきましょう。尻にでも、爪の先にでも。しかしこの城へはつきますまい」
「くだらぬ諧謔、ああ、もう聞けぬのか」
「失礼致します。私は今、死に申した。家族にもその旨を伝えて、それから真に死にましょう」
大股で去っていく若人を、松平は黙って見送った。
「あれも死ぬか」
呟きに東郷は目を擦る。
「芝位の面倒など見たくはありません。あんなのがうじゃうじゃいたら流石に堪えます」
ですから。東郷は自らの頬を両手で張った。気合いを入れ、小姓を呼ぶ。
「やつには生きてもらわねば」
指示は激烈な運動を呼び、城全体が躍動した。