三話
「母上、失礼します」
食事は全員でするというのが義郎の指導だった。彼は笑わない息子と柔らかい妻と、元気な娘が団欒することに意味があるような気がした。今でもそれは続いている。
その食事が済んで初が眠った後、服の繕いをするねんの部屋の前に娯楽がいた。
「失礼します」
はいと声がする。そっと襖を開いた。
「あの着物、汚れが落ちなさそうなので、切って布を当てておきました」
見せびらかすように着物を広げた。胸元に大きく白い布が当ててある。裁縫はそれほど上手くはなかった。
娯楽は頭を下げ「今日は帰りが遅くなりまして」と切り出す。
「戦帰りのお方の最後を見ました。仙台藩の仙崎殿と申すお方です」
「はあ、その血がついてしまったのですか」
どんな時でも動揺をしないのがねんであるが、
「河原の木陰に埋めました。そのお方は父上に、芝位義郎に良くしてもらったと」
不意に出た名に、その肩が跳ねた。気丈に振舞ってはいるが内心はかなり参っている。
「そうですか。……初は何か言っていましたか?」
「いいえ。あの子もやはり芝位です。泣きもしない」
「あなたは?」
ねんはいたずらに微笑む。娯楽は照れたように頭をかいた。
「少しばかり」
「それでもいいのですよ。旦那様も似たようなことをおっしゃっていましたから」
「父上が」
「ええ。戦の度に手が震えるとか、手柄を上げた時に怖くて泣き喚いて、それが嬉し泣きと勘違いされたとか」
「そんなことがあったのですか」
ねんは懐かしそうに言った。
「泣いたっていいじゃないですか。武士は泣くなかれという掟なんか、私は知りませんもの」
武士の妻らしからぬことを言う。が、これに娯楽は救われた気がした。張り詰めていた緊張の糸がようやくほぐれた。
「はい。母上のおっしゃる通りです。この娯楽、そのお言葉、胸に刻みました」
「そんなに大したことでもありませんけど、あなたがそうしてくれるのなら私も言ったかいがありました」
翌朝、野太い雄叫びが会津の城下を揺らした。
「峠に奴らがいる! 逃げろ、早く逃げろ!」
機敏に行動したのは商人たちである。家財を荷車に積んで、避難先の会津城へと一目散に走った。そして次に町人たち。車などはなく、風呂敷を担げるだけ担いで商人の間を縫うように急いだ。城門はいっぱいに開かれて住人を受け入れ、兵士たちはその逆でどんどん出ていった。
城から東へ十数キロのところに石塁を積んだ陣地が構築されているのだが、そこが破られたのだ。会津の兵士たちはそこを目指し、押し返そうとしている。今から出立しても間に合わないだろうが、食い止めなくては城に火がつくかもしれない。それだけは避けなくてはならなかった。
この戦争は負ける、しかし遂行しなければならない。戦の継続も勝利も難しく、また助けもない。敗者として革命のための礎になるしかなかった。
「芝位殿はおられるか!」
誰かが玄関で叫んだ。その声に娯楽は心臓が破裂するほどに驚いた。日課の木刀を振る手を止め、わざとゆっくり出迎えた。
「おはようございます」
見覚えのある人物だった。義郎が一度か二度、家に連れてきたことのある人物だった。昔のことだから、記憶は定かではない。
「えっと、長島様、何かご用でしょうか」
長島忠之進だ。顔を合わせると名が浮かんだ。
「おお、七郎殿!」
彼も俺を幼名で呼んでいたか。懐かしさに娯楽は包まれたが、しかし長島の必死さが激しく懐古を打ちのめす。
「義郎殿はどこです。謹慎は解かれました。敵が、敵は目と鼻の先です」
「そのように焦っても仕方がありませんよ」
ねんが割烹着をほどきながら現れた。そうは言うが慌てていたのだろう、しゃもじを持っていた。
「おお、これは奥方様。随分と顔も見せず申し訳ない……いや、それどころではない」
長島は玄関先で声を張った。
「今こそ御出陣の時です。義郎殿! 寝坊などしている場合ではありませんぞ」
返事はない。代わりに寝ぼけたままの初がやってきた。それを見て長島はまた暢気に戻る。
「や、ご息女か。お初殿、と申しましたかな」
「ええ。朝が苦手なんですのよ。この子、早くに寝てしまうのに朝は一番遅いんですの」
「最後に会ったのはまだ赤んぼうの頃でしたから。こんなに大きくなられているとは」
そこでまた自分の用向きを思いだし、頭を振った。
「そのお初殿よりも、いや、あなたをないがしろにするのではなくてですな、とにかく義郎殿はまだいらっしゃらないのですか」
娯楽はその場でかしこまった。稽古着のまま一息に言う。
「父は数日前に出陣いたしました。ここにはもうおりません」
「な、何と!」
「私は母と妹を連れて城へと向かいます」
義郎であればこうする。あの人は俺たちを守るはず。娯楽はそういう父の遺志をくみとった。
命懸けで戦うことが武士であるという世の流れ、少なくとも出世や金、そして録を食む者の務め、恩義などを考えればこの行為は許されない。爪弾きにされる。
芝位家には変り者が多いということを義郎から常々聞かされてはいたが、こうした決断をする自分というものをやはり俺もそうなのだと娯楽は密かに誇らしく感じた。
「……それは、いや、ううむ」
長島は顎に手を置いて長考した。
義郎がいないのであれば、その息子でもいい。人手が足りないし、何より本人も家名を背負わなければならない。
しかしどうであろう。娯楽は逃げを選んだ。少なくとも逃げたと後ろ指を指されてもおかしくないことである。だが母と妹と言われると長島も弱ってしまう。彼もこの一家とはそれなりに深く関わっていた。
「……では戦には」
「父がもう出向いております。私が行けばかえって足手まといになりましょう」
「そんなはずはない。お主の腕前は城にまで伝わっている。何よりあの芝位義郎の息子ではないか」
義郎の謹慎は上司である東郷の息子を稽古で叩きのめしたことから始まる。
もっとも東郷との間には絆があり、それを咎めることもせず、むしろいい薬だと笑い話にすらなった。実際にその息子にはやや威張り散らす癖があった。
だが建前として処分はしないといけなかったので一月ばかり城へ顔を出さず家で休めということで謹慎処分となったのだ。
義郎にはそういう奔放さ、悪くいえば自由な勝手気ままさがあった。それが認められていたのは分け隔てのない性格と、武の巧みさにある。武芸百般に通じ会津の虎と敬われるほどに強かった。
「虎の子が猫なはずもないであろう」
娯楽も道場では虎であった。そして稽古が終わればけろっとして朗らかで、汗を流して近所の子と遊ぶ。似たもの親子である。
「芝位の名に泥を塗るつもりか」
長島はもう娯楽を戦場に引っ張っていくつもりである。挑発すれば、こうまで言われれば、とわざとらしい。雄叫びが混ざったような、嫌な風が通り過ぎた。鉄臭さもあるようである。
「……これより城へと参ります」
立礼し、準備のために屋敷へと戻っていった娯楽に、長島は焦った。突っ立っているねんにどうにかしてくれと哀願した。
「よろしいのですか。あれでは笑い者になりますぞ。どうか母親として、武士の妻として説得を」
「私は旦那様にこの子たちを頼まれましたので」
「しかし」
「したいようにさせてやって下さいませ。もう少しだけ、あの子の面倒を見させて下さい」
ねんは頭を下げ、踵を返し玄関をくぐった。その後を長島は追う。このままではとても城には戻れない。口を結んでいる初に、彼は「この子の方がまだ武士らしい」と、そんな嫌味を持った。
「あっ!」
居間に入った長島は腰を抜かすほど驚いた。さっきの気弱な男が見違えた姿で彼を出迎えたのだ。
純白の上衣の袴、刀は二本差し。鎧をつければ立派な若武者である。
「し、七郎殿……」
長島は娯楽の姿を直視できなかった。確実な死というものが今ある生にぴったりとくっついている。
「母上、家財道具などは後でよろしい。急いで飯を食ってしまいましょう」
「兄様」
不安そうな妹を撫でた。
「泣いた方が可愛げがあるのに」
初の舌を出しての抗議に娯楽は笑った。
「七郎殿! お、お出でになるのか」
娯楽は長島をじろりと睨んだ。
「いや。城へと向かいます。こういう格好でないと、母や妹が臆病者の親族だと笑われるかと思いまして」
(筋金入りの戦嫌いだ)
長島は観念し、飯を食った。これはねんが用意した。
「今も戦は進んでおるのに、悠長ですな」
そう言って味噌汁をすする長島に娯楽は微笑んだ。
「これぞ娯楽です。どうか長島様も芝位を見物なさって下さい」
「ほ。まるで義郎殿のような物言い。これは嬉しい」
ねんも笑った。初もつられて笑った。娯楽は両手の震えを咀嚼に隠した。