二十話
「神、ねえ。人サマの信仰にケチはつけねえが、そこがどうにも引っかかる」
デンの酒場の二階である。浴びるように飲んでいたマイラが、ぽつりとこぼした。
「芝位のことか。たしかエングースとかいっていたな」
スターリアは炒り豆をかじっている。マイラの酒のつまみだが、口元の寂しさを紛らわせるためである。
「きいたことがない。異国のもんかね」
「さあな。あいつにもわかっていなさそうだし」
「そこなんだよ。どうにも要領を得ない」
酒のグラスは着席してからすでに三杯ほど空になっている。しかしマイラはちっとも酔わず、試しにスターリアはその空いたグラスの匂いをたしかめると、強い刺激に顔をしかめた。
「身の上も妙だし、お前よりもずっと世間知らずだ」
「さり気ない悪口だな。それでも護衛か」
「あっはっは。これは親愛の証だ、またあいつが私を褒めていると、そういう解釈で問題ない」
そんな馬鹿なはなしがあるか。スターリアは呆れたが、そういう節がマイラにはないでもない。いつだってこの女はからかいと悪態、そして称賛をまとめて吐き出している。
「ふん、お前に気に入られる者は大変だな。朝から晩まで攻撃される」
「それを好む奴しか気に入らないよ。お互いにね。お前もそのうちくせになる」
「なんだ、私を気に入ったのか」
「どうだろうねえ。まあ謎の神に悩まされる妙なヤツよりは、ずっといいだろうね」
スターリアはこの天邪鬼な護衛が発する言葉の意味を整理するのに手間取った。が、なんとなく理解すると、芝位のことこそを気に入っていること気がついた。
(ははあ、素直じゃない、というやつだな)
そう思うと急におかしくなって小さく笑った。マイラはその微笑を愛おしそうに眺めたが、それも一瞬で、すぐに視線を適当な方にやってごまかした。
「過保護にもなるわけだ」
「まいにち犬っころが周りをうろちょろしていたら自然と情もわくさ。馬鹿な犬ほど可愛いもんで、なんの因果か子犬までくっついてきたんだから、私だって人間だもの、無感動ってわけにはいかないよ」
頬が染まっていれば照れ隠しにでもきこえただろうが、マイラは平然としている。スターリアはその表情の奥にある真意こそ読み取れなかったが、おそらくはそうなのだろうとおもった。
からかえば応じるだろうが、それでは野暮ったくなるだろうと、
「その犬はうまくやるかな」
とまた豆をかじった。塩気が水を誘い、飲み干すとちょうどマイラがグラスを置くタイミングと重なった。
「荒事は得意なはずだよ。それにほら、あの間抜けな面だ、相手がホイホイ語っちまうかもしれないぜ」
相変わらずの物言いに、スターリアは苦笑した。しかし心のどこかそれを求めていることにまだ気がついていない。
「なんだか最近、街が物騒じゃないか」
犬っころ呼ばわりされている芝位娯楽は酒場の店主と世間話をしている。
腹には赤黒い染みができているのだが、彼は痛がりもしない。それどころか上機嫌である。
「聞いたところによると、どこかの姫君がいなくなったとか」
すると店主はすかさずに切り替えした。あんたも賞金狙いかと言って、酒の入ったグラスを置く。
「茶でいいよ」
「うちは酒場だ。酒以外ない」
飲むつもりはなかったがこの店主に妙な警戒をされても困るので、すするように口に入れた。
「美味いな」
「幸せなやつだな。ただの安酒だぞ」
水のように薄いビールである、マイラが飲めばまずいと喚きながらも一息に干しただろう。
「安かろうがいいものはいいんだ。さっきの因縁をつけてきた男だって、男としては安いだろうが、いいところもあるはずだ」
「ねえよ。ここの客はみんなクズだ」
「クズほど情報を持っているものだよ」
と、薄く笑って店主に金を差し出した。マイラのメモ通りの行為である。
「クズのたまり場の主だ。そうでなくともこういう場所は耳聡い連中も多いだろう」
店主はこのへんな男を無言で観察した。金をさり気なく受け取り、盗人のように周囲を警戒している。
「件の姫君を付け狙うのは誰だか知っているか」
また一口だけ酒を舐めた。話の途中ではあるが、美味いと内心でしきりに感心している。
「ウェステリア騎士団。てめえんところの姫サマだなんだから当たり前だろ」
「ほー、何人くらいいるんだ」
「何人って、ありゃあ国の軍隊だぞ。数なんか知らねえよ」
「そうか。なるほど、いよいよ負けそうだな」
店主には意味がわからないが、娯楽は喉の奥で笑った。瞳が煌々としていると自分でも感じ、軽く目を伏せて隠した。
「世話になったな。もう帰るよ、腹も痛いしな」
あまりにも平然としているため忘れていたが、娯楽は腹に刺し傷を負っている。店主はカウンターの下から包帯を出して治療すると提案したが、朗らかに断られた。
「なあに、俺の不注意よ。このくらいじゃ死にたくても死なないさ」
溌剌と辞す娯楽の背には、もはや怯え一色の店主の視線が数瞬だけ浴びせられたが、あとは不気味がってそらしてしまった。
(いい報告ができそうじゃないか)
不思議なことに、ナイフを掴んだ指にはもうかさぶたができている。腹部にもまだ熱が残っているが指で触れるとやはり血が固まっている。もう治ったと痛みも忘れ、上機嫌である。
宿に戻るとマイラとスターリアの姿はない。
ベッドに横になって、二人の同行者についてなんとなく思想を巡らせる。
(お初が大きくなったら、ああなるのだろうか)
スターリアに似ればその成長を手放しで喜べる気がする。出自も真っ当だし礼儀もある。
ただマイラのようになると、首をひねらざるをえない。自分の妹はあのまま健やかに成長して欲しい、とは思うものの、自分はマイラを好んでいる。
(友人にひとりいればあれほど頼りになる奴はいない)
当たり障りのない結論に満足し、腹を撫でた。傷はもう塞がっている。人外の治癒速度だが慄くようなことはなく、あくびをした。
「お初、兄は怪我をしてもすぐに治るぞ。便利だな」
その程度にしか異常さを把握しようとしなかった。考えてどうにかなることでもなく、受け止めるしかできないし、実際便利に思っている。
「暇だな。おい、エングース。いるなら出てこい」
馬鹿なことを言っているなとおかしくなって苦笑すると、ドアがノックされた。起き上がると、そばの椅子に誰かが腰掛けている。
「私を呼びつけるとはいい度胸だ。ま、出てきた私も私だが」
さっきまでは間違いなく娯楽しかいなかった部屋に幼い女の声がする。その少女がにやりと微笑むと、娯楽も微笑み返した。
「神の遣いも楽じゃないだろう。愚痴でも聞かせろ」
おつかいが上手く済んだから気が大きくなっている。まるでスターリアや妹にでもするかのような温和な微笑でエングースを迎えた。
「愚痴などないさ。我が主は何事も私の好きにさせてくれるよ」
「主とはあれだろう、俺をここによこした」
「そうだ」
「なぜだかわかるか」
エングースは道化のように肩をすくめ、知らないという。娯楽がみたところ、嘘であるようにおもえた。
「にしゃ、嘘が下手だな。俺と同じだ」
「ふふ、わかるか。当然知っているとも。だが伝えてもいいものかどうか」
「言いたくないならそれでいい。やることができたから、ここで帰れといわれても困るんだ。家族は守らねばならんが、友人とその重要度合を秤にかければ、それはマイラたちに傾く。エングース、頼むから連れ去ったりしないでくれよ」
エングースは怪訝な様子で娯楽を見ている。その言葉の真意が汲めなかった。隠しているのではなく、本気ではあるだろうが、そのこたえに行き着くにどういう精神が作用したのかがわからない。
「あれほど両親や妹に固執していたくせにどういう心変わりをしたんだ。惚れたのか」
「こっちの連中は二言目には色恋を持ち出すが、そんなんじゃないよ。芝位は、多分みんなそうなんだ。身内が何よりも好きなくせに、それを放って他所様の元へ駆け出すのだ。そうしてこそ好きな身内に胸を張れるのだと、そういうところがあるんだ」
だからこそ父も仙崎殿のため、そして会津のために戦場へ出たのだ。と胸のなかで呟いた。父親と同じような心理と行動を自分ができていること、そしてそれについて嫌悪していないことを、娯楽はエングースにうち明けた。
「妙な男だな」
「わはは、褒めるな。マイラもスターもよくそう言ってくれるが、実は照れてばかりいるんだ」
本当に変な男だ。とエングース面白がって、
「そんな芝位の娯楽に贈り物だ。そのうち渡そうと思っていたが、ちょうどよかった」
指先をくるりと回した。娯楽は興味深そうに、エングースが自分にしたことなど忘れたような態度だ。
「贈るは防具よ。その身に潜る私の鋼、そのうち抜いてやろうと思っていたが、くれてやる」
パチンと指が弾かれた。すると娯楽は身体の内側でなにかが蠢くのをはっきりと感じた。
「銘を『形無形無』という。あの時お前を貫いたように槍へと変化することもできるし、身を護る鎧にも盾にもなる。うまく使えよ」
「気色が悪いな。腹となく背となく、ぞわぞわする」
「慣れればなんてことないさ。それに贈り物はこれで最後。それじゃ、お暇するよ」
薄れるその姿に、娯楽は待ったをかけた。
「ここまでされると気味も悪いな。なぜだ」
エングースは微笑し、冗談めかしていう。
「護国のためだよ。あとは、前にもいったが殺しかけたことと、有無を言わさずつれてきたこと。だがこれで貸し借りなし」
消えゆく間際、エングースの口唇が動いた。娯楽には励めよと読み取れたが、定かではなかった。