十四話
「では」
マイラ、娯楽、そして少女はアザラを発った。遠ざかる都はどんどん小さくなる。平野は続き、その間、口を利く者はいなかった。
やがて夜が来る。先達たちが残した道から外れ、草むらを均し、火を焚いた。マイラの無言で差し出す水筒や干し肉、パンを少女も無言で受けとった。
「この調子ならあと数日でウェステリアだ」
独り言のようにマイラは言う。薪のはぜるぱちぱちという旋律と、夜だけが持つ静けさがあった。
「……バウトは、どうなったかな」
それを破る少女の声。答えのない問いだった。何を言っても無駄、彼女を傷つけるだけ。それを知っているマイラは水筒に口をつけることでしか沈黙を守れないでいる。
ふと娯楽と少女の視線が絡んだ。問いかけているようで、しかし試すような瞳であった。
「……思えば、遡るほどでもないが、俺はこんなところまで来た」
視線を外さないままで、彼はしみじみと火の温もりで言う。
「俺の父は戦場へ行った。俺が家族を守らねばならんというのに、のこのこと父を追って、妙な化物にしてやられた。その結果がこれだ」
汚れた死装束をはだけさせると、左胸にはまだ生々しい傷跡がある。腕にも、腹にも。平気な顔でいる娯楽だったから、マイラもぎょっとした。少女は言うまでもなく、卒倒しかけた。
ウォークロスで確認したあの傷はまだふさがってはいないが、すっかり痛みは無くなっている。さすっても皮膚の感触と凹凸の傷があるだけだった。
「見せびらかたいのではない。言いつけを守らなければこうなってしまうということだ」
「しまえよ、飯がまずくならあ」
マイラはちょっと顔をしかめ、だがすぐに打ち消して笑みを浮かべた。娯楽も笑って服を着た。真っ青になった少女に続ける。
「ウェステリアに行けばいい。それだけのことだ。父を想う気持ちわかるが、我らはすべきをせねばならん」
「……貴様はどう思うのだ。バウトは、どうなる」
娯楽は断じる。
「死ぬ。あれはそういう覚悟の目よ」
悲鳴を殺した音が、少女の喉奥からした。儚く両手で口を押さえ、しかしごぼごぼと胃液を吐き出した。
「芝位、正しいってのは、正しくない」
マイラは少女の口を拭い、ゆすがせた。背をさすっていると、落ち着きを取り戻した少女は小さな声で礼を言って、娯楽を睨み付ける。
「あいつは、とても強いのだ」
死への否定。弱々しく、それでいて確信に満ちていた。
俺の父もそうだった。と言いかけるが、娯楽は口を結んで少女への攻撃を止めた。
「俺の予想など当たるものか。それができたら、剣など振らず学者にでもなっていたわ」
一人で高く笑った。それにマイラも倣った。少女の頭を強引になで回し、水を勧めた。
(……妙なやつらだな)
水筒が空になるのを見届けてから、マイラは少女の肩に手を回した。
「な、なんだ」
訝しむも、払いのけなかった。
「お前の名前を聞いちゃいねえと思ってよ」
「ああ、そうだったな」
少女は回された腕に触れた。温もりを無意識で確かめていた。
「……スターリアだ。星の加護という意味がある。私が産まれた夜、流星が大層綺麗だったらしい」
「いい名前だ。なあ、お遊びよう」
マイラはからかうように娯楽に視線を預けた。
「娯楽だ。その名も悪くはないが、それではいささか幼稚だろう」
「ははは。そうかもな。ま、こんな感じだ。よろしくスターリア。男の裸なんぞ見て気分が悪いだろ? そろそろ寝ようぜ。明日も早いからよ」
そう言われるとスターリアも眠くなってきた気がする。張りつめていた糸が切れたように、マイラに肩を預けて眠ってしまった。
「懐かれたかね。羨ましいだろう」
マイラはそっとスターリアを馬車まで運んだ。戻ってくると「さて」と娯楽に一塊のパンを投げた。
「好物だろ」
ちぎって口に運ぶと油と麦の味がした。これがどうしてこんなに旨いのか不思議なほどだった 。
「ああ、旨い。パンとはいいな」
するとマイラはケラケラ笑って違うよと言った。
「こーゆー……素敵な状況のことさ」
紫煙が闇夜に消える。その根本、煙草をくわえる唇が妖しい。
「別に好きではないさ」
「へえ。そうか。なあ、お前さ、ここにはどうやって来たんだっけ」
脈絡はなさそうだったが、娯楽は素直に答えた。
「詳しいことはわからんが、化け物がな、何かしたんだろう」
「どんな化け物?」
しつこいとは思わなかった。隠すほどのことでもなかったので、詳細に語った。
「エングースとか言ったな。アンガルという神の遣いとか」
「それはあれか、有名なのか。お前のいたところでは」
マイラは顔が赤い。たき火の光ではない、小さな水筒からほんのりとツンとする匂いがした。聞いたこともないと娯楽また続ける。
「そのアンガルに命じられ、エングースは俺をここにつれてきた。いざこざがあって怪我はしたが、この通り、まあ無事だ」
大量の出血はそのせいだと言うと、マイラは水筒をまた傾ける。
「胸の傷はそのせいか」
「ああ。腹と足もそうだ」
「次に会ったら仕返ししてやれ」
娯楽はその仕返しという言葉に、うまく反応できなかった。
彼は冗談を好み、それなりに温厚ではある。だが剣術を学びそれなりな強さはあったために、逆恨みのように、弱者やあぶれ者に絡まれることもあった。
娯楽はそれを返り討ちか、仲間が止めにはいるかして、互いにひどい流血を見るということはなかったが、ある時、彼の妹が標的にされたことがある。初を人質にとった、己一人で来い、という手紙が道場に放り込まれた。
それはあくまでも娯楽を誘き寄せるための罠だった。それを見越し、同門たちには反対されながらも赴き、待ち構えていた六人の博打打ちやごろつきを半殺しにした。木刀一本での荒業である。
そういう気性の激しさを持っていた。そしてその相手の顔を、敵意を向けてきた者の顔を絶対に忘れなかった。だが、エングースにはそういう感情を一切持っていないことに気がついたのだ。
「仕返しか。考えていなかったな」
「泣寝入りすんのかい?」
マイラはもうすっかり酔っていた。煙草を一口だけ吸って、たき火の薪にした。
「それはないだろうな。俺はなぜここに連れてこられたのか、それを知るまでは生かしておく」
復讐も悪くはない。しかし、それは二の次であるし、なぜか自分には似合わないと思った。そうするに余りあるほどのことをされながらも、笑い飛ばしたほうが格好いいなと、不思議な思考でもって、
「……などとほざいてみるか」
と、言った。自分のことながら自分がよくわからず娯楽は苦笑する。
「はっはっは。ほざけほざけ。好きなだけほざけ。喧嘩を売るにはちょっと相手が悪そうだしなあ」
そのうち口数も減っていき、マイラは横になった。寝息が聞こえると、彼は馬車の方までいって、スターリアの近くで横になった。見張りのつもりでいる。
うとうととまぶたの重みを感じるころ、娯楽の頬が何度か打たれた。軽く冷たい感触に飛び起きる。
「久しぶりだな」
そこには父、義郎の姿があった。しかし、わずかな動揺もない。
「相変わらず趣味が悪い。俺の家族には化けるな、エングース」
「ほう、慣れたなあ」
輪郭がぼやける。快活そうな、それでいて眠たげな眼の少女に変身し、おそらくはこれがこの化物の普段の姿であり、俺をからかうために化けて出るのだろうと娯楽は思う。
「何をしにきた」
声は静かだったが、狂暴な響きがある。エングースはさらりと受け流し、にたにたと笑う。
「また一つ、貴様に贈り物をしにきたのよ」
娯楽がこの世界で言葉や事象を理解できるのは、エングースのいう贈り物の効果である。理解できるということに理解の及ばない何かが働きかけ、娯楽のもつ割り切る性格がなければ発狂していてもおかしくない。
「何故だ」
「言っただろう。お前には貸しがある」
その微笑みを娯楽は不気味に思い、しっしと手で払った。
「何を企んでいるか知らんが、貸しがあるのならば俺を元の世界に帰してくれ。それで収めるから」
「それはできんよ。お前にはやってもらいたいことがあるからな」
この世界での目的が娯楽にはない。あるにはあるが、それは元の世界に戻るということで、すでに断られている。
何をさせるつもりだ。そう問うよりも早く、エングースは娯楽に歩み寄る。
「な、なんだ」
「受け取れ。必要になるからな。ああ、傷も治してやる」
そっと娯楽の胸に手を置いた。傷口が淡く緑色に発光し、消えた。
「それとな、お前に突き刺した三本の槍だが、それは今もお前に残ったままだ。知覚し、使いこなしておくと便利だぞ」
「お前の言うことは難しい。俺の頭では理解が追いつかん」
「今は成り行きに任せればいいのさ。その仕事は大仕事の前の小事に過ぎんからな」
「何をさせる気だ」
エングースの姿は朧に散り始めた。娯楽は返答を期待していなかったしが、エングースは思わせぶりに呟いた。
「挑む。守る。励む。それだけしていろ、今はな」
そして消えた。娯楽は置いてけぼりにされた単語をなんども反芻し、首を傾げ、眠った。