十話
「安請合いして良かったのか?」
その晩に病室へとやって来たシャドが言った。娯楽はまだ半身の火傷と、足と胸、腹部の大きな刺し傷が完治していない。それなのにも関わらずまるで無痛の表情でいる。
「ああ。問題はない」
眠りもせず、寝台で上を向いたまま答えた。
「実際に会ってみてどうだった」
細い紙の筒を差し出される。これはなんだと訊ねると「煙草だろ」とむしろ驚かれた。
「これが? 俺の国とはかなり違うな。まあどうせ吸わないよ」
「そうか。で、どうだよ、あの女」
しつこいシャド、肘で娯楽をつついた。傷口には響いたが彼の友好的な態度に顔がほころぶ。
「さあ。俺がわかっているのはやつの名前と、何かの仕事をしているということだけ。評価なんてできない」
「真面目なやつめ。じゃああの面はどうだよ、タイプか?」
「タイプ……?」
「わっかんねえ奴だな。異性として好みの顔かって聞いてんだよ」
すると娯楽は少し考えた。置かれた状況はそういったこととはかけ離れた血生臭さであるし、以前の生活にも女の影はなかった。言い寄られたことはあったが、娯楽は毎回不思議そうに首をかしげ、
「にしゃにはきっと似合いの男が現れる」
と、相手にもしなかった。誰かと恋仲になるよりも子どもたちと、妹と遊んでいる方がずっと楽しかったのだ。
好みも何もない。訓練、鍛練、かくれんぼや鬼ごっこ、それが好きなものの全てだった。
人生で初めて異性について真剣に考えた。なんだか体中がむず痒くなって、それでもマイラの顔を思い浮かべる。シャドがワクワクと答えるのを待っているのがなんだか面白い。
「そうだな。綺麗な顔ではあるな」
ガタン。病室の外で物音がした。この辺りにいる野生の動物といえば、死体を貪る犬やカラス。その類いが俺の死期を嗅いで来たかと、娯楽はむしろ楽しそうだった。死んでなどやらんと決意を新たにした。
「そうか。俺は好かんね。あの目付きがどうも嫌だ」
「目付き?」
シャドは自分の目を指で吊り上げた。
「ああ。こんな感じじゃねえか? 俺なんか睨まれただけでぶるっちまう」
言われてみると確かに鋭かった。力強い印象は、シャドの真似したような鋭さによってもたらされていた。
「まあ、俺は悪くないと思うぞ。気にならなかったということは、それについてどうも思っていないということだ」
「綺麗な顔だとか言ったじゃねえか」
「……そのお前の言う目付きも、俺の好む一部分なのかもしれんな」
「へえ……惚れたか?」
娯楽は茶化すようなシャドのそれに、深く考え込んだ。包帯だらけの腕を組み、顎を撫でる。
これはどういう感情だろうと、そこから考えた。喜怒哀楽にあてはめるなら、少なくとも怒りや哀しみではない。つまりは喜びか楽しみだ。
「惚れた、か。うむ、これは俺の命題かもしれんな」
「は? いや、そんなに考えることじゃないだろ」
喜び。それはある。会いたい者に会えたのだから、当然、喜ばしい。
楽しみ。これは、どうだろうか。
「……惚れた、か。どうだろう、難しいな」
「……あっそ」
シャドは面倒なことを聞いたと反省すらした。相づちを打つのを片手間にして、キャンプに戻りたがった。
「喜びはあった。だが、楽しみとは時間を共有してこその楽しみではないか。各々が勝手をしても、まあ楽しいではあろうが、それは奴と俺と、それぞれのものだ。だから」
「もういい。なんか固いんだよな、お前」
言ってることもわかんねえし。シャドはあくびをして寝台の縁から腰をあげる。
「俺ァ寝るからよ。怪我、ひどいんだろ? 寝ておけよ」
「お前が来なければもう寝ていたよ」
娯楽に悪気はなく、シャドも笑った。
「はっはっは。それもそうだ」
シャドが出て行くと、静けさは深くなり、開け放たれた窓の枠にかかる月に娯楽はまた胸を打たれた。
家族はどうしているのか。自問自答をどれほど繰り返しても、前進も後退もなく、ただただ不安と焦りのみが積もる。怪我の傷みは激しく、しかしそれ以上に心が辛い。
「父上も、このような痛みを感じておられたのか」
じくじくと暴れ回るこの胸の内! 娯楽は無人無音の中で必死になって目を閉じた。
それから少しして、コンコンという音に微睡みを邪魔され、やや不機嫌に起き上がる。
「誰だ」
するとまた音がする。窓からだった。拳で木枠を軽く叩いた人影が月明りによって浮かび上がる。
「よう」
くわえた煙草を壁に押し当てて消したのは、話題の女マイラ・ロードレッドだった。
「ロードレッドか」
「みんな寝ちまってさ、暇なんだ」
「お主も眠ればいいだろう。俺もそうしたい」
痛みを忘れるには眠ることが一番であり、ようやく和らいできた感覚がまたやってきた。それでも、誰かと触れあう瞬間だけは、眠りと同程度の効果があることも知っていた。
「そう言うなよ。ほら」
差し出されたのは細い紙筒。煙草だった。娯楽がそれを拒否するより早く、マイラは引っ込めた。
「おっと。吸わないんだったな」
「ああ。それで、何か用でもあるのか」
「なんだよ、お前が私に会いに来たんだろうが」
「……それもそうだな」
噛み付かれても娯楽は少しも気を弱めない。事実を伝えられ、同意しただけのことと認識していた。
「そうだ、お前の仕事とはなんだ。金次第で働くとかなんとか」
手伝えるならばと啖呵を切ったが、今更になって若干の不安があった。法にでも反したら家族に顔向けできないと、この世界の法も知らないのに臆病でいた。
「傭兵だよ。いくつか依頼があって、それを選ぶ。戦場にも行くし、宝探しもする。要人護衛とかもあるぜ」
「依頼、か。便利屋なのか」
マイラは新しい煙草を取り出しながら頭をかいた。
「ん、まあ、そんな感じだ」
煙草の先端を手で覆うと、何もないところから火が生まれた。手の隙間から煙が立ち上り、これが魔法かと娯楽は興味津々でいたが、マイラは気にせず続ける。
「出発は明日だ」
唐突な宣言だが、娯楽は頷く。怪我などお構い無しな二人だった。
「任せる。キッパー医師とシャドにも礼をせねばならんな」
「シャドの阿呆にゃしなくていい。あの野郎、人がいねえと思って好き勝手言いやがって」
「ん、聞いていたのか?」
不意に切り込まれたマイラの動揺は、無表情を装うが不自然で、
「ん、いや、知らない。聞いてない」
と、ぼそぼそと呟いた。
「いたなら入ってくれば良かっただろう。それにすぐ声をかけてくれれば」
「うるせえ馬鹿。いねえよ。かけねえよ。調子に乗るんじゃねえ」
ギラギラと月夜に輝く瞳の鋭さ、抜き身の刀など遠く及ばない程に美しく、文句は恐ろしくもあったが、娯楽はそこに楽しさを感じていた。
「ははあ、これで喜楽が揃ったか」
一人で笑う娯楽にマイラは背を向ける。頬を乱暴に擦って、手を振った。
「つまんねえこと言いやがって」
「わはは、それが俺よ。お前のおかげで気が楽になった。これで良く眠れる」
しばらくその背を見送ると、近くの小屋に入っていった。こちらを一瞬見たような気もしたが、そんなはずはないとすぐ横になる。
「妙な心地だ」
マイラ。家族。喜怒哀楽の渦に身を揉まれながら、ふっと息をついて眠った。