一話
「このままでは城下にまで奴らが来ます。それなのに、なぜ逃げろなどと!」
永遠のような太平が終わった。愚かなまでの実直さで仕えてきた結末がこうである。それは彼が決定づけた運命ではないが、一人の藩士として悲劇に浸っているわけにもいかない、それに死ななければという焦りもあった。
「奴等は武器が違う。こっちは旧式で、奴らは最新だ。ただ死ににいくだけだ」
そう諭して息子の肩に手を置いた。古いが手入れの行き届いた甲冑が寂しそうに輝いた。
「ですが父上は向かうのでしょう。謹慎の身でありながら」
「……お前はこうはなるなよ。七郎」
十四で元服を済ませてから二年、彼にしてみれば、どんなに成長しても、いつまでも幼名のままの、赤子のような息子だった。
「……父上、この娯楽をお連れ下さい。きっと役に立ちますから」
芝位娯楽は頭を下げ懇願した。これを今生の別れとはしたくなかった。だが、それはならぬと大喝され、胸ぐらを掴まれ引き倒された。物音に娯楽の母と十になったばかりの妹が、襖から不安そうに顔を覗かせている。
「お前を連れていってどうなる」
「一人でも多くの敵を」
母と妹の前である。物騒な言葉を嫌った。だが言わんとすることは理解した妹の初は泣き出した。
「お前がすべきは母と妹を守ることだ。それ以外にはない」
「父上!」
「黙れ七郎。黙って父を、この義郎を見送ってくれ。なに、俺は大丈夫だ。芝位の名に泥など塗らんよ。青々としたまま、だ」
冗談めかしてはにかんだ。たしかに火中へと飛び込む者にはない生の輝きがあった。
娯楽はそれ以上何も言えなかった。この冗談ももう聞けなくなるのだと、父の袴にすがろうとさえしたが、それをすればどれほど父をがっかりさせるだろうと自らを諌めた。
「おねん、子らを頼む」
「はい。仰せの通りに」
ねんと呼ばれた娯楽の母は、火打ち石で験を担いだ。気丈な振る舞いは性格よりも、武士の妻として、という暗示のためである。
「お初も健やかにな」
嗚咽のやまない初を娯楽は抱き寄せた。そのまま自分の目尻を拭い、義郎を見つめた。
「武運のありますよう」
拭っても伝う止めどない涙に、義郎は多くを語らず静かに頷いた。
「励めよ」
最後にねんの方へと視線だけを送り、出ていった。それから数日もせずに城下は慌ただしくなり、往来では常に人馬の足音がしていた。
対照的に芝位の家はひっそりとしている。ここだけが穏やかな時間が流れているかのように、木刀が風を切り、炊事の心地よい響きがあった。
会津藩を治める松平方保、その家老を東郷頼母という。頼母の最も信頼する直臣が娯楽の父、義郎である。
高官ではあったが家族四人が生活するだけしか録を貰わず、変わり者で通った愉快な人物で、その気質は子どもたちはおろか妻にも伝播していた。この戦も近い冬の朝にも不変の態度でいる。残された家族は義郎の残した身震いのする静けさを味わっている。
「浮かない顔ですね」
庭で木刀を振っていた娯楽に、ねんは細い目をさらに細める。こんな状況でも練習を欠かさない姿勢を喜んだ。
「……相手がいないもので」
平時なら近所の剣術道場に通っているのだが、今は無人である。門下生たちは自分を置いて戦へと向かったので稽古もできない。髷はなく、ただ頭の後ろで結わいたただけである。その髪先から汗が滴っている。
ねんは「じゃあ」と炊事場へ行って、すぐ戻ってきた。風呂敷を娯楽に渡して、
「初が遊んでいるのでこれを届けてあげてください」
と、往来の喧騒などお構いなしに、彼女の人格としての無邪気さでそう言った。
「喧嘩しないで、仲良く食べるんですよ」
何が入っているのかわからないが、妹と争ってまで何かを得ようとするほど幼くはないと思った娯楽だったが、素直にはいと頷いた。
「今、どこに?」
「さあ。川か、町外れか、どこでしょう?」
「……じゃあ探してみます。日が暮れる前には帰りますので」
「お願いしますね。気をつけて行ってらっしゃい」
娯楽は小走りで家を出た。少し歩けば道場が見えてくるし、どこもかしこも馴染み深の場所だ。それに子どもの遊び場など限られてくる。
「初」
家からほど近い放置されたままの空き家が、この辺りでは絶好の遊び場所になっている。一家離散した商人の家という事実を娯楽は最近知ってなんとなくぞっとしたが、幼い頃は友人と思い出を共有した懐かしい場所だ。
「初、いるか」
ひょいと縁側に現れたのは江という初の友人だった。初より一つ歳下だが、ずっとしっかりしている。
「お江さん。こんにちは」
「あ、娯楽さん。こんにちは。今ね、かくれんぼしているの」
この娯楽という男は十八歳になっても近所の子どもたちと遊んでいる。近所でも評判の、悪評を含めた有名人である。年少からよく懐かれ、彼自身にも幼さが多分にあった。
だからかくれんぼといわれると、無性に遊びの虫が騒ぐのだ。
「初が隠れているのかい」
「そうだよ。でも見つからないの。上手なんだよ、お初ちゃん。とってもね」
「そうか。なら俺も探そう。鬼が二人なら、すぐ見つかるよ」
娯楽は子どもが好きだった。そして遊びが好きだった。近所の小さな子たちにまざって、釣りをしたり山で走り回ったり、そういうことに時間を使っていた。将来は塾などを開いてみようかと思ったこともあったが、勉強はあまり好きではなかったのでやめた。
江は目を輝かせて了承した。娯楽はよく遊んでくれるし、道場通いというもあり腕っぷしが強く、男女を問わず人気者だった。
「ありがとう。私はお台所を探すね」
とことこと走って行く様を微笑みで送り、さてと指の節を鳴らした。
「初! 兄が参ったぞ!」
そう叫んで、どかどかと縁側から室内へと飛び込んだ。
「押入れか! 軒下ではないのはわかっているからな!」
部屋と部屋をつなぐ襖を蹴っ倒し、娯楽は嬉々として探し回った。畳を剥がし、天井を裏を覗き、蜘蛛の巣のはった水瓶まで持ち上げた。
「……娯楽さんって、やっぱり面白いなあ」
娯楽は幼少の頃、あまり笑わない子どもだった。黙々と義郎の友人から読み書きや計算を習い、道場に通って剣を振った。その中に遊びは一切含めず、同級生の輪にも入らなかった。それを慮って、少しでも明るくなるよう、遊ぶよう娯楽とつけた。もちろんそれも幼さからの引っ込み思案からくるもので、成長するとそれなりに交友関係を持つようになった。
「お江さん、そっちは」
「お台所にはいませんよ」
となれば、と娯楽は一度外に出た。壊れた塀をよじ登り、屋根に飛び移る。それを見た近所の者たちは「ああ、芝位さんちの娯楽さんか」といつまでも成長しないガキだなと微笑ましく通りを過ぎて行った。
瓦を何枚か滑り落とし、やっとの事で登ると、デコボコした瓦の床に正座した初がいる。
「見つかりました。でも、兄様が鬼だなんて、ずるいです」
そのまま一礼した後で、初は口を尖らせる。娯楽は爽快に笑った。
「今回はなかなか手強かったぞ。さ、降りよう。お江さんがまだ探しているやもしれんからな」
初をひょいと小脇に抱きかかえ、娯楽はそのまま飛び降りた。ずんと屋敷に伝わるほどの地響きで、土壁のぱらりとその一部を崩した。
「わわ。え、娯楽さん……あ! お初ちゃん!」
抱えられた妹を離すと、少女二人はまるで子犬同士のじゃれ合いのように手を取って、昼間でも薄暗い屋敷へと走っていった。
「もうお江ちゃん、兄様に頼むなんてずるいよう」
「えへへ、ごめんね。次は何をしようか」
微笑ましさににやける娯楽はうっかりここへと出向いた用を忘れそうになった。それに気がついたのももう昼をかなり過ぎていて、自らの腹が鳴ったからだ。
「お江さん、初、母上から差し入れがあるぞ」
渡された包みを掲げると、二人はまたしても子犬のように駆け寄ってくる。
「腹が減ったろう」
広げてみると草餅が四つ入っている。少女たちの喜色を見て、娯楽は満足そうに頷いた。
「ここは少し埃っぽいから、場所を変えよう」
「あっ! じゃあ河原に行きましょうよ! 今の時期は暖かいですし」
「わあ! トンボはいるかな」
「それはもう少し先だな。よし、それじゃあ行こうか」
三人は連れ立って空き家を去った。目的の河原とは、天神川という大層な名前だが、流れは穏やかそのものである。土手を降りたところが砂利と岩の混じる、彼らの目的地である河原であり、春には遠くの桜が、夏には川飛沫が、秋には流れる紅葉、冬は凍りついた川を愛でるという、季節を問わない明媚な場所だった。
「お江ちゃん」
「なあに?」
二人は娯楽の前を歩いている。ここから半里もない川なので、娯楽はのんびりと歩いたが、どうやら草餅につられてか、初も江も急ぎ足だ。
「おやつ、楽しみだねえ」
「ふふ、お初ちゃんのお母さん、料理上手だもんね」
他愛のない会話は密かに、しかし確かに娯楽の心を癒した。剣を振っても、どんなに無心であれと言い聞かせても晴れなかった心の靄を、さっと一瞬で輝かせた。
「とうちゃーく!」
初は大きな岩に一足飛びに飛び乗った。林との境とも近く、砂利の上にぽつんとあるお気に入りの場所だ。せせらぎと緑の生い茂った中間のここが彼らのお気に入りの場所だった。
「お江ちゃん、おいでよ」
手を差し伸ばされても江は乗れないと言う。娯楽が脇を抱えて初に渡して、自らも乗った。三人横並びで座れるほどの広さが十分にあった。
「ほら。二人で食べなさい」
「兄様は?」
草餅は四つ。三人で食べると一つ余る。遠慮がそこに絡まると面倒だと思い、娯楽は申し訳なさそうに言う。
「すまん。兄はもう食べたのだ」
「そうなの?」
「ああ。母上の目を離した隙に、二つばかり」
そして豪快に笑った。呆れる少女たちの興味は草餅に移り、頬張る。手を洗えと言い忘れていたが、娯楽自身、そうしたことはしてきていない。少し男らしくさせ過ぎているような気もしたが、愛らしい姿を見ると小言を言う気は失せていた。
「おいしいねえ。お江ちゃん」
「そうだねえ。毎日でも食べたいよ」
戦の匂いは濃くなっているが家事の手を抜く母ねんではなく、またそれはどの家庭でもそうであった。江は鍛冶屋の娘であり、父親世代からの付き合いがある。江の父と義郎は友人であり、その妻同士も友人であった。
のんびりと、爽やかな川飛沫をほどほどに浴びながら、三人は遠くの山々を眺めていた。磐梯山の山頂付近にはまだ雪が残っていた。
これほど穏やかな時間であるにも関わらず、愛する妹とその友人がいても、娯楽は胸騒ぎがしている。それは父の安否についてでもあったし、戦の進展についてでもある。
「兄様……」
「お、おう。どうかしたか」
心配が顔に出ていたのかと、娯楽は驚いたが、どうやら初はそんなつもりではなかったようだ。
「あれって」