第七章 遺作 その2
「くそ!どこだ、ここは!どっちの方角に向かってるのかもわからなくなっちまった!」
40がらみの男が、キョロキョロと辺りを見回しながらすっかり日が落ちた雑木林の中を駆けていた。広大な林の中に迷い込んでから数時間が経過し、かなり焦っていた。着ている囚人服は、すっかり泥まみれになっていた。
しばらく行ってから一旦立ち止まると、地面に這いつくばって耳をあてた。
(まだ追手は近くまで来てないか。今のうちに安全な場所に逃げないとまずいが、腹になにか入れないと、このまま足で逃げるにはしんどいな。それに、走りずくめでのども乾いたな)
男はそう考えると、さらに雑木林の奥へ進んで行った。
しばらくすると、水が流れる音が聞こえて来たので、そちらの方に進むと高台の上に出た。見下ろすと、30メートルほど下に川が流れている。
(とりあえず、あそこに降りて水を飲むか。どこか降りられるところはないか)
そう考えながら崖の上を左に移動して行ったが、しばらくすると左手に大きな屋敷が見えて来た。
「おお!あそこなら水も食料もありそうだ!」
そう言って、その屋敷に向かって1歩踏み出そうとしたが、左後ろから強烈な殺気のようなものを感じて思わずそちらを振り返った。
すると、自分から7、8メートルほどのところに長身でがっしりした体格の男が立っていた。驚いたことに、その男は右手に日本刀を持っており、こちらを睨んでいるようだった。
その長身の男は、大下刀悟であった。
囚人服の男は、その様子に圧倒され、声もなく立ちすくんでいたが、しばらくすると、刀悟は、持っていた日本刀をゆっくりと上げ、男に向かって正眼に構えた。
その瞬間、男は、刀悟の体から青白い炎のようなものが立ち上り、刀悟と日本刀全体を包み込むのを見ると同時に、爆発的な殺気のようなものが放たれるのを感じた。
良く見ると、刀悟の視線は、自分ではなくはるか先を見ているようだったが、それによってさらに恐怖が増した。
「うわ、助けて」
男は、後ろが崖であるのも忘れて後ずさった。
「う、うわー!」
次の瞬間、男は、後ろ向きに崖から転落していた。
その直後、刀悟の体から放たれた青白い炎は、構えた日本刀の刀身に吸い込まれていった。
刀悟は目をつむり、手をだらりと下ろすと、後ろを向いて作業小屋の方へゆっくりと歩いて行った。
囚人服の男は、二日後の朝に3キロほど下流の岸辺で発見されたが、左側頭部がつぶれており、検死の結果、死んでから二日は経っていると判定された。
その男は殺人犯で、護送の途中で逃げだしたのだが、死因を究明するために、他殺の線も含めてそこから上流の川沿いが大掛かりに捜査された。
1日経ってから、3キロ上流の崖下の岩場から血痕が見つかり、血液検査の結果、男のものと一致したため、誤って崖から転落して死亡し、そのまま川に落ちて下流に流されたのだろうと結論付けられた。
念のため、その真上の崖周辺が調査されたが、男の足跡とは別の足跡が見つかったため、目撃者である可能性があるので周辺に聞き込みをすることになった。
まず、一番近い場所にある大きな屋敷を訪れたが、返事はなく、不在だと思われた。
次に、上川という近くの農家を訪れた。
応対した70歳ほどの老人の話によると、その屋敷は、横浜に住む大下という古美術商の別荘で、自分が管理人をしているが、ここ5年ほどはまったく利用されていないとのことだった。
ただ、横に建っている小さな小屋には、その大下家の30歳ぐらいになる息子の刀悟という男が鍛冶仕事をするために住んでいるとのことだったため、合鍵を持っているという上川に案内してもらって、その小屋を訪れることになった。
上川は、三日前に刀悟と転落死した男の間に起こったことを遠目から目撃していたが、刀悟にあらぬ疑いがかかってはいけないと、そのことは警察には話さなかった。
和人が自宅で玄関先を通りかかった時、そこにある電話が鳴った。
「はい、山中です」
「和人くんかね」
「あ、猪ノ介さん。こんにちは」
少し沈黙があった。
「和人くん、恐れていたとおりになったよ」
電話口の猪ノ介の声は、重く沈んでいた。
「どうしました?・・・まさか!」
「そう、そのまさかだ。刀悟は死んでしまったよ」
猪ノ介は、それだけ言うと、また沈黙した。
「今、どちらです?」
沈黙に耐えかねたように和人は聞いた。
「ああ、山梨の別荘だ。警察に呼ばれて来た」
「わかりました、俺もすぐ行きます」
和人が蔵人の車を借りて大下家の別荘に駆けつけたとき、現場での検死も終わり、刀悟の遺体は担架に乗せられて救急車へと運ばれていくところだった。
あわてて、その担架に駆け寄ったが、その死に顔は穏やかで、和人には満足感がその顔に漂っているように見えた。
後ろから複数の足音が近づいてくるのが聞こえたので振り返ると、猪ノ介と、その妻の淑子だった。
「和人くん。ついにこうなってしまったよ。坂口さんが戻ってきてから半年だったが、こんな形で終わりを迎えてほしくはなかった。こいつには色々と可能性を感じていたので、実に残念でならない」
猪ノ介は、沈んだ声でそう言った。
「大下さん、俺も残念でなりません。このイヤな予感だけは当たってほしくなかった」
「そうだな。私は、最初からその予感がしていたから最初は反対していたんだが、きっと、許可したことを一生後悔するのだろう。ただ、私が許可しなくても、刀悟は強引に今回のことを行おうとしたとは思うがね」
猪ノ介は、そう言って視線を落とすとしばらく黙り込んだ。
猪ノ介は、そこで、ふと思い出したかのように右後方に立っている淑子の方を振り返り、その手から日本刀と思しき白木の鞘に収められている細長いものを受け取った。
それから、懐から封書を取り出すと刀と一緒に和人に差し出した。
「和人くん、この手紙はきみに宛てたものだ。そしてこれが、刀悟が造り上げた目的の刀だが、刀悟がきみへ遺したものだ」
「え?俺に?」
和人は、驚きながら、まず、手紙を受け取った。
封はされていなかったので、すぐに便箋を取り出して読んだ。便箋は1枚だけだった。
和人、これが何なのか、自分は何を造ろうとしていたのか、どうしても思い出せない。
しかし、今、ついに俺は自分の造りたかったものを造ることができたと感じている。
ただ、俺の命はもう長くはなさそうだ。だから、これをお前に遺すことにする。
お前がこれを見守り、これが何であるかを決めることができるだろう。
書かれていたことはそれだけだった。
「この刀は、本当に俺がもらっていいんでしょうか」
和人は、猪ノ介から刀を受け取りながら、困惑した様子で聞いた。
「私は、この刀に本当に大いなる使命があるのだとしたら、誰が持っていようとも時が来ればその役割を果たすだろうと考えている。だから、刀悟の意思を尊重して、きみに持っていて欲しいんだよ」
「そうですか・・・わかりました。大切に保管しておきます」
「私たちは、事情聴取があるので警察署に行くが、和人くんはどうするかね」
和人は、少し考えてから答えた。
「刀悟の最後の姿をよく見ておきたいという思いはありますが、今は少し混乱しているので、ちょっと考えさせてください」
「そうか分かった」
和人は、そのまま猪ノ介たちが車で去っていくのを見送った。
それから、自分が乗って来た車の運転席に座り、刀悟の刀を両手で持ってしばらく眺めていた。
気が付くと、大粒の涙が頬を伝っていた。その時になって初めて、刀悟が友人として自分の中でいかに大きな存在であったかに気がついた。
(刀悟はきっと、この刀を造るために自分が命を懸けることになるとわかっていたに違いない。そこまでして造る必要があるものだと感じていたんだろう。しかし、俺は、本当にそうなるかもわからない未来のために何かをするより、お前に生きていて欲しかった)
そう考えると、さらに悲しい思いが沸き上がってきて、ついには、ハンドルに突っ伏して嗚咽を漏らした。




