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お題小説

染み込んだ憧憬は群青に貴腐

作者: 水泡歌

大人なんてろくなもんじゃないよ。


それが兄ちゃんの最後の言葉だった。




成人式の後、中学の同級生と同窓会をして初めてお酒を飲んだ。


変わらない奴も変わった奴もいて、それでもその存在はきちんと覚えていて。


あの頃は想像したこともなかったお酒を飲む姿を見ながら、当時の話や今の話、これからの話をした。


解散をした後、喉のかわきを覚え、ふらついた足で駅前のコンビニに向かった。


飲み物を持ってレジに向かうと後ろにある煙草コーナーが目に入った。


店長の奥さんと見られる年配の女性に煙草の銘柄をつげて置いているか訊ねると「ありますよ」と出してきてくれた。


僕はすっかり着崩れた着慣れないスーツで100円ライターと一緒にそれを購入した。


群青色のパッケージ。


兄ちゃんが吸っていた煙草だった。



兄ちゃんの話をしてもいいだろうか。




初めて出会ったのは僕が10歳の時だった。


マンションの5階。


春、兄ちゃん一家は隣の部屋に引っ越して来た。


10歳年上の兄ちゃんは、その時、20歳だった。


夕暮れ時。自分の部屋のベランダ。玄関で大人たちが挨拶しあう声をぼんやりと聞いていた僕は右側から漂ってきた苦い匂いに振り向いた。


隣の家のベランダ。


手すりに寄り掛かりながら兄ちゃんがおいしそうに煙草を吸っていた。


手元で遊ばれている群青色のパッケージ。吐き出される白い煙。明るい茶色の髪が夕焼けに輝いていて、色素の薄い瞳が満足そうに細められていた。


その姿に目を奪われていると兄ちゃんが振り返った。


僕の姿を確認して、固まって、自分の手元を見て、


「あ、悪い」


慌てて灰皿で煙草を消した。


「ごめんな、煙たかったよな?」


申し訳なさそうに兄ちゃんはそう言った。


僕は横に首を振って返した。


「カッコ良かった」


お世辞でも何でもない。本心だった。兄ちゃんが煙草を吸う姿は本当にカッコ良かった。


兄ちゃんは少し驚いた顔をして、照れたようにくしゃりと笑った。


「名前、訊いてもいいか?」


「俊太」


「俊太、これからよろしくな」


堅苦しいものじゃなく、温かく柔らかい「初めまして」の挨拶だった。




それから僕と兄ちゃんは話をするようになった。


21時45分。


パジャマ姿でベランダに出ると兄ちゃんは煙草を吸っていて。僕の姿に気付くとすぐに消して笑いかけてくれた。


絵本の読み聞かせはとっくに卒業した僕にとって久しぶりの眠る前の楽しいひと時。15分間。


大学で習った哲学の話。


バイト先の喫茶店にいる尊敬できる店長の話。


少し前に終わってしまった年上の女性との恋の話。


兄ちゃんの話はどれも僕の知らないことばかりで聞いていてドキドキした。


僕が話す内容はそれに比べて中々幼稚なもので。


先生が出した宿題が難しくて解くのを諦めたこと。


友達とケンカをしてどうやって謝ったらいいか悩んでいること。


席替えで好きな女の子と隣同士になって嬉しくて仕方がないこと。


そんな話をした。


兄ちゃんはいつもニコニコ笑って楽しそうに僕の話を聞いてくれた。


時々、自分が面白いと思うものをすすめてくれることもあった。


「俊太、これ聴いてみるか?」


「俊太、これ読んでみるか?」


「俊太、これ観てみるか?」


音楽、本、映画。


同級生が夢中になっているものよりも一歩先のエンターテインメント。


僕がこれから出会うだろうものに一足先に出会わせてくれた。


正直に言うと僕にはまだ難しいものもあったけれど、それでもそれに触れられることが嬉しかった。


自分がすすめるだけじゃなく、僕の好きなものも訊いてくれた。


「俊太が今、面白いと思っているものは何?」


「ぼくの?」


「うん、俊太の」


「ぼくの面白いものなんて兄ちゃんにはつまらないでしょ?」


僕は兄ちゃんに自分がすすめられるものなんて何もないと思っていた。でも、そう言うと不思議そうに否定した。


「どうして? そんな失礼なことしないよ」


誰かが面白いと思っているものを見もしないで否定すること。それを兄ちゃんは失礼だと言った。


だから、僕は安心してその時の自分が好きなものをすすめることが出来た。


音楽、本、映画。


兄ちゃんにとってはとっくに通り過ぎたはずのエンターテインメント。


それでも兄ちゃんは受け入れてくれた。


お世辞でも何でもない本当の感想をくれた。


そういうところも大好きだった。




忘れられない夜がある。



12歳の秋。


初めて兄ちゃんの部屋に遊びに行った。


「汚くてごめんな」


少し散らかった部屋に兄ちゃんは恥ずかしそうにしていたけど、むしろ僕にはそれが良かった。


「何か持ってくるから適当にくつろいでて」


そう言って兄ちゃんが部屋から出て行った後、そわそわと部屋の中を見た。


棚に並べられた僕にすすめてくれたCDや本やDVD。


壁に貼られた兄ちゃんの好きなロックバンドのポスター。立てかけられたフォークギター。


勉強机の上には開かれたノートパソコンがあって、横には難しい題名の本が積まれていた。


当たり前の話だけど、そこは本当に兄ちゃんの部屋だった。


すごい。すごい。


興奮してワクワクと歩き回っていた僕はゴミ箱にぶつかって倒してしまった。


広がる中身。慌てて拾い集めようとした時、ひとつのものに目が止まった。


群青色のパッケージ。煙草の空き箱だった。


僕はそれをじっと見つめた。


上着のポケットにしまった。


出来心。


ただ、欲しかった。


ゴミ箱に捨てられているってことはもういらないってことだ。だから、もらってもいいだろう。


そんな風に言い訳して、自分の行動を正当化した。




僕は自分の机の引き出しにそれをしまった。自分の部屋。時々こっそり取り出しては、にやにやと眺めていた。


大人にとってはただのゴミ。僕にとっては見るだけで幸せな気持ちになれる宝物だった。


でも、ある日、外で遊んで帰ってくると、母さんが深刻な顔をして玄関に立っていた。


「俊太、ちょっと来なさい」


「なに?」


不思議に思いながらリビングに連れていかれた。驚いた。机の上に置かれたもの。そこには引出しにしまっていたはずの煙草の空き箱があった。


「今日、あなたの部屋を掃除していたら見つけたの。これは何?」


「これは……」


言い淀む僕に母さんは深くため息を吐いた。そして、言った。


「隣のお兄ちゃんにすすめられたの?」


「え?」


今、なんて言った?


僕は母さんの言っている意味が本当に分からなかった。


母さんは涙目で言葉の意味を教えてくれた。


「隣のお兄ちゃんがあなたに吸えって言ったの?」


頭の中がまっ白になった。


兄ちゃんのこと、そんな風に見ていた?


僕は机の上の空き箱を掴むと母さんを思いっきり睨み付けて家を飛び出した。


僕を疑うだけじゃなく、兄ちゃんを疑ったことが許せなかった。




金木犀の匂いあふれる近所の公園。ドーム型の遊具の中。


体育座りをしながらドームに空いている穴から星空を見上げた。


夜の公園はいつも遊んでいるものと違って僕を拒絶していて、ひどく居心地が悪かった。


今、何時だろう。


知りたいけれど知ってしまえばもっと怖くなる気がして、時計を見ることが出来なかった。


群青色のパッケージを掲げる。


これしか持って来なかったから何も出来ない。


お腹が空いた。のどが渇いた。ちょっと寒い。


でも、帰りたくはなかった。


「う~……」


どうしようもない感情にぐるぐるしていると上から何かが降ってきた。


「?」


見るとそれはスーツの上着だった。


「おーい、不良小学生」


上着をのけると入り口に黒髪にスーツ姿の兄ちゃんが立っていた。


兄ちゃんは狭そうに身体を屈めると中に入ってきた。僕の隣に体育座りして、「寒いだろ、着ていいぞ」とさっき降ってきた上着を指差した。僕はそれを着た。ぶかぶかだった。強張っていた身体から力がすっと抜けたのが分かった。


「どうしてこの場所がわかったの?」


尋ねると当たり前のように返された。


「前に言ってただろ、お気に入りの場所があるって。教えてくれた大事なことはちゃんと覚えているよ」


僕にとって大切なこと。それを兄ちゃんは分かってくれていた。嬉しくて唇を噛む僕に兄ちゃんは優しく微笑んだ。


「少し話をしようか」


そう言ってココアの缶を差し出した。受け取るとあたたかくて。兄ちゃんは自分の缶コーヒーのプルタブを開けた。コーヒーの匂い。僕も同じようにプルタブを開けた。ココアの甘い匂い。口に入れるとびっくりするほどおいしかった。


「……お母さん、変なこと言ってなかった?」


「んー、言っては無かったけど、家出の原因は今、俊太が持ってるものかな?」


「あ……」


僕は慌てて空き箱を後ろに隠した。兄ちゃんは苦笑した。


「俺、それ、あげた覚えないんだけど。どうして持ってるんだ?」


僕は小さな声で主張した。


「……捨ててあったから、いらないと思って」


兄ちゃんは「なるほどな」と言葉を選ぶように考えた。


「そんなものを小学生の息子が持ってたらそりゃ心配するよな。俊太はちゃんとそれがただの空箱でしかないことを説明したのか?」


「してないけど、そもそも疑うのがおかしいじゃんか。お母さんたら兄ちゃんがぼくに吸わせたと思ってたんだよ。兄ちゃん、そんなこと絶対しないのに」


兄ちゃんはくすりと笑うとくしゃりと僕の頭を撫でた。


「俺のために怒ってくれてありがとう。でもな、俊太、ちゃんと話をしないと伝わらないことはあるんだよ。残念なことに子どもが思っている以上に大人はたくさん間違えるからね。難しいことだとは思うけど、俺と一緒にお母さんに本当のことを伝えてみないか」


「……兄ちゃんもいっしょに?」


「うん、俺も一緒に。そしたら、頑張れるかな?」


「……うん」


「俊太は良い子だな」


そう言って穏やかに目を細めると僕の手から空き箱を取った。


「それにしても、これ、そんなに欲しかったのか?」


僕は恥ずかしそうに返した。


「だって、あこがれだったから」


「そっか……」


そうして、少し考えると空箱の蓋を開けた。


「一本どうですか、お兄さん」


僕に向かって軽く微笑みながら差し出した。


僕は少し驚きながら一本手に取るとぎこちなく指先に挟んだ。


火をつけて空気を吐き出す。


兄ちゃんは同じように架空の煙草を手に取って慣れた手つきで火をつけて空気を吐き出した。


からっぽの喫煙。からっぽなのにドキドキした。兄ちゃんは楽しそうにくすくす笑った。


「俊太が20歳になってさ。もしまだこれが好きなようなら一緒に吸おうか。いつものベランダで並んでさ」


「20才? そんなの遠い未来のことじゃんか」


「そんなことないよ、結構すぐに来るもんだよ」


「そうかな」


「そうだよ。楽しみだな、俊太はどんな大人になるのかな」


兄ちゃんは想像するように目を瞑った。


僕も想像しようとしたけれど中々難しくて。


それでも、こんな風にわざわざ探しに来てくれて、話を聞いてくれて、一緒に伝えようとしてくれる。そんな兄ちゃんみたいな大人になっていたらいいのにと思っていた。


それから僕と兄ちゃんは手を繋ぎながら帰った。


「そう言えば、兄ちゃん、何でそんな格好してるの?」


「ん? ああ、兄ちゃんもいつまでも学生でいられないからな。面接ってものを受けてきたんだ」


「めんせつ?」


「そう、やっとやりたいことが決まってな。兄ちゃんも来年の春から社会人ってやつだ」


あの時、兄ちゃんはキラキラと希望に満ちた目でそう言っていた。


家に帰ると母さんは泣きながら僕を迎えてくれて、僕は兄ちゃんと一緒に一生懸命、本当のことを伝えた。


母さんは「ごめんね」と謝ってくれて、僕も「心配させてごめんなさい」ときちんと謝ることが出来た。


兄ちゃんは僕の隣で嬉しそうに笑っていた。




中学生になって小学生の時より夜更かしが出来るようになった。それなのに、兄ちゃんと話す時間はどんどんと減っていった。


いつもの時間にベランダに出ると働き始めてすぐはいつも通りの兄ちゃんで。


初めての中学生活に戸惑いながら楽しむ僕の話をニコニコ笑って聞いてくれた。


兄ちゃんも仕事の話を楽しそうにしていた。


新人の自分にもたくさんの仕事を任せてくれて、先輩も良い人ばかりなんだと言っていた。


でも、どんどんと兄ちゃんがベランダに現れる時間は遅くなっていった。


キラキラと輝いていた目は段々と淀み始め、笑顔がなくなっていった。


おいしそうに吸っていた煙草は何かを忘れるように吸うようになり、ベランダに置かれた灰皿には溢れんばかりの吸い殻があった。


兄ちゃんの会話から幸せがなくなっていった。自分の話をしなくなった。きっと僕に話せるような話題がなくなっていたんだと思う。


面白い音楽や本や映画をすすめてくれることもなくなり、僕がすすめても忙しくて見る時間がないんだと言っていた。


その内にベランダに全く現れなくなった。


僕は上手く言葉に出来ないものに不安で仕方がなかった。


兄ちゃんが教えてくれたこと。話がしたい。言葉にしたい。伝えたい。


14歳の秋のことだった。


あの日の夜と同じように町には金木犀の匂いがあふれていた。


早朝。マンションの玄関前。僕は覚悟を決めて兄ちゃんが出てくるのを待っていた。


兄ちゃんは疲れ果てた様子で出てきた。


「兄ちゃん」


駆け寄ると兄ちゃんは虚ろな目で僕を見た。


「ああ、何だ、俊太か。こんなところで何してんだ」


「兄ちゃん、大丈夫?」


「何が?」


「すごくしんどそうだから。ねえ、仕事、楽しい?」


「仕事なんだから楽しいわけないじゃないか」


兄ちゃんは当たり前のようにそう言って足早に歩き始めた。


僕は追いかけた。


「ねえ、兄ちゃん、その仕事じゃなきゃだめなの」


「何が?」


苛立ったような声。僕の目を全く見てくれない。


「他の仕事じゃだめなの? 兄ちゃんがいる場所はそこじゃなきゃいけないの?」


「そんな簡単に辞められるものじゃないんだよ。たくさんの人に迷惑が掛かる」


「でも、このままじゃ兄ちゃんが……!」


上手く言葉に出来なかったもの。それは分からなかったんじゃなくて言葉にしたくなかったもの。


兄ちゃんが、殺されてしまう。


人生の中で一度も口にしたことがなかった言葉。


それは音にならずに僕の中に呑み込まれた。


兄ちゃんの足が止まった。


口にしなかったけれど、伝わったんだろう。いつだって僕のことを分かってくれていた人だったから。


泣きそうな顔をする僕を安心させるように兄ちゃんは笑った。


「ありがとう。でも、大丈夫だよ」


そう言って、久しぶりにいつものように。


「ごめんな、仕事、遅れちゃうから。やらなきゃいけないことがたくさんあるんだ」


駅に向かおうとする後ろ姿。僕は問い掛けた。


「兄ちゃん、大人って楽しい?」


兄ちゃんは振り返らずに答えた。


「大人なんてろくなもんじゃないよ」


それが兄ちゃんの最後の言葉だった。



その日、兄ちゃんは電車に飛び込んで死んだ。




「死」の意味を分からないほど僕は子どもではなかった。それでもちっとも理解出来なかった。兄ちゃんとその言葉は僕の中で一緒になんてならなかった。


飛び込んだことについて調べると「迷惑」という言葉が並んでいた。


「人の迷惑、考えろ」


僕は違うと思った。


むしろ兄ちゃんは人の迷惑ばかり考えていた。


人の迷惑を考えて考えて、だからこそ、その選択をしてしまった。


その後、兄ちゃん一家はどこかに引っ越してしまった。今、僕の隣には違う家族が住んでいる。


僕は未だに考えてしまう。あの最後の日、僕は一体何を伝えればよかったんだろう。僕の言葉はただ終わろうとするあなたの背中を押してしまっただけなんだろうか。




公園のドーム型の遊具の中。


「せま……」


身体を屈めながら中に入る。


自分の背丈にぴったりのスーツで、あの頃は絶対に吸わせてくれなかった煙草を一本取り出して口にくわえる。


100円ライターで火を点けて吸う。


激しくむせる。


涙目になりながら笑う。


架空ではなく本物の煙草。


あの日、兄ちゃんがこの場所で想像した大人の僕はどんな姿をしていたんだろう。


おいしそうにこの煙草を吸っていた兄ちゃんの年齢に僕はなってしまった。


このままいけば最期の年齢にすぐに追い付いてしまうだろう。


でも、誕生日を迎えた時、僕は今でも自分の歳に10を足す。


今は30の兄ちゃんが。30になったら40。40になったら50。


「大人なんてろくなもんじゃない」と兄ちゃんは言ったけど、僕が生きている限り10歳上のあなたを存在させ続けようと思う。


殺したりなんてしない。


僕とともにしわしわになって、おいしくいなくなればいい。


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