00-2
桜子は大切なものを抱えない。
できるだけ手ぶらで。
できるだけ身軽で。
だって、失う怖さを知っているから。
失う絶望を知っているから。
守れないなら抱えない。
だから、桜子は紗菜がとても強いことを知っている。
*****
華奢なデザインのわりにどでーんと鎮座したグラスの横を白い雫が流れ、時間の経過と残り時間のカウントダウンを無言で伝えてきた。
「カロリー……は、考えちゃダメなんだと思う……」
「それってさー、独り言?」
「あぎゃぁぁぁぁー。心の声がダダ漏れたー!」
緑色のソースが鮮やかなソフトクリームの頂点が目線より上のBIGパフェを目の前にした桜子に向かいの席に座る智也が口元だけで薄く笑いからかいかけてきた。
「カロリーも気になるけど、あのパスタの山を律儀にきちんと半分片付けた桜子ちゃんの胃袋に余裕あるの?」
ご丁寧にあとの残り半分の消費に協力していただいた智也から畳み掛けられる事実に視線が泳ぎ、桜子は何も言い返せなかった。
「だって目が……目がぁ……」
「目が欲しかったのよねー。わかるわー。その乙女心ー」
続けたいけれど続けられない言葉を、同じくBIGパフェを目の前にした紗菜が智也の隣、笑顔で引き継いでくれる。
「ないわー、ない。そもそも紗菜さん、乙女じゃないですよねー」
それ、言って大丈夫なの?!ということを口にし、ケラケラ笑う通路側お誕生日席の直人に
「直人、うるさいー。泣かせるわよー」
と紗菜も軽く返すものだから、あの研修の終わった夜、桜子が眠っている間に、この二人が何を語り合ったのか少しだけ桜子は気になる。きっと怖くて聞けないけれど。
「げっ!!すみませんでしたっ!!」
ケラケラと笑う直人の笑顔がテーブルの上のマーブルに染まるアイスコーヒーの氷をカランと鳴らした。
クラスメイトの前ではぎこちなくなってしまうけれど、大地や智也を前にする時に見せる子供っぽい直人の笑顔が桜子は好きだ。いや、恋愛的な好きとかではなく……そう!犬が尻尾をぶんぶん振って甘えてくる感じの好きだ!あくまでも恋愛の好きではない!!
そして、同時に桜子はこの笑顔は下部ではない自分に向かって披露されることは皆無だとも知っている。
仕事の都合上、人間関係構築のため真似て見せることもできるし理解しているものの、この辺の親しい人間との感情の駆け引きや、ライン引きといった駆け引きが桜子には難しい。極力、一般人との関わりを避けるような下部達の人間関係の中で育った弊害ね。と杏子は以前とても苦い表情を見せていた。
ちなみに今、桜子の目の前で年相応の笑顔を見せつけた直人は、普段あれほど飄々としている癖に、大切なものはおそらく椅子に掛けたカメラバッグの中の二眼レフだけという、桜子以上の怖がりだ。
弱い……訳ではないはずだ。この帝都周辺地域において、戦闘に特化した実働部隊の五指に入っているはずだから。
何を失った恐怖からそうなったのか。桜子も人のことは言えないとはいえ、多少心配にもなってしまう。
抱えるものが少ないというは、自由で身軽という訳ではないのだ。
見えないトラウマや思考の茨に捕らわれ続け身動きが取れないからこそ抱えられないだけだから。
「もともとが、〈帰りたい〉が口癖みたいな子だったんですけど、こんな事になるなら、もっと強くやめるように言えばよかったなって思ってます」
あの大盛り店からの梯子でりんご屋に辿り着いた桜子達と共に目の前のBIGパフェのクリームを上品に且つ華麗に消化していく清楚なワンピース姿の美少女は桜子の友達、瑠奈だ。
「元々?……彼女、どこかに帰りたかったの?」
絵に描いたような柔和な笑顔を張り付け、普段の口調からは想像もできないほど優しく綺麗な言葉で瑠奈に語りかける智也の偽装としか言えない姿に桜子は鳥肌が立つのを止められない。
あの無茶苦茶な食事の途中、半分は智也君が食べてあげてもいいわよーという紗菜の魅惑の誘いにまんまとのせられた桜子は、瑠奈がもし暇だったらという前提条件を付けて尚、彼女をこの場に呼び出すことに成功してしまっていた。
「私も聞いた事があるんです。そしたら悠里『何処かとか、何時とかある訳じゃないのよ。ただ……そうただ、なんとなく漠然と帰りたいの。……なーんて嘘だよーん!こういうの空気に当てられたって言うんだっけ?』って少し寂しそうな顔を誤魔化して笑ってました……。ところで!!ねぇ、桜子、このイケメンさん達、どうしたの?!どこで知り合ったの?!」
桜子の隣、一呼吸前までは思いつめた深窓の令嬢然としていた瑠奈が桜子の肩を激しくゆすり、黒い髪につけられたラベンダー色のリボンを乱しながら目をギラギラと輝かせて聞いてくる。どうやら、瑠奈はこのメンツの気配に猫を被る必要性を感じなかったらしい。まったくもってその通りなわけだが、お嬢様の本能怖い、などと桜子は思ってしまう。
「えっと、こちら紗菜さんと智也君。直人君のバイト先の先輩らしいんだけど、偶然瑠奈の話と似た状態の知り合いがいるらしくて」
「うん、知人がね、似た症状で……。で、何か少しでも手がかりがないかって思ってたところで桜子ちゃんから君の知人の話を伝え聞いてさ。居てもたってもいられなかったから呼び出してもらったんだ。忙しかっただろうにごめんね。ちなみに俺、実は桜子ちゃんの従兄」
みたいなもんだよ。という後半の台詞は唇が紡ぐだけで音が伴わない。言霊逃れしてる。完全に。
そして、この憂いを帯びて語る智也の姿に瑠奈が瞳を潤ませる。
こういう智也は疑問を抱かせる前に女性の保護欲をそそると、七瀬さんが以前豪快に笑いながら語るのを桜子は聞いたことがある。
眼前の状況はまさにそれだろう。
「桜子ちゃんにこんなイケメンな従兄さんがいるなんて初めて知りました。大学生さんですか?」
「うん。帝都のだけど。バイトの関係で時々直人がいるこっちの事務所の手伝いにも来てるんだ。しかし桜子ちゃんにこんな友人がいたとは!僕もこんな可憐なお嬢さんとお話しできて光栄だよ」
「彼氏も同じバイトなんていいですねぇ。いや、こんなに可愛かったらほっとけませんもんねぇ」
テーブルの上、瑠奈の白い指先を狙ってそそそと動いていた智也の手が瞳をギランギランに輝かせる瑠奈のその一言でピタリと止まった。そして、そのまま一連の動作のように壊れたロボットのようにぐぎぎっと隣の人物に顔を向ける。
「やだー。バレちゃった?」
フリフリとした袖口から延びる白い指先でテーブルの上から固まってしまった智也の手を引きはがし、恐怖で震えるその腕を両腕で抱きかかえた紗菜はうふふと笑って、何一つ否定をしなかった。
*****
空になった透明な器に満面な笑顔を写した後、このあとお稽古があるのでと辞した瑠奈に付き合い店の外に出ると、アーケードの中を駆ける暑さを歌う風が桜子の頬を撫でた。
他愛もない話をしつつ、大通りに面した商店街の入り口に着けば、タイミングよく、いかにも品のいい瑠奈の母親の運転する高級車が到着した。
乗り込み手を振る瑠奈を見送った後、桜子はふたたびアーケードの蒸し暑い風を感じながら、リンゴ屋の皆がいるテーブルの椅子に座った。
「ねーよ……直人じゃないが、マジねーわ。もう、俺この店使えねぇ」
先程よりは随分落ち着いたとはいえ、少なくはない店内の他の客からの好奇の視線に真っ青な顔色で呟くの智也の腕には相変わらずニコニコの紗奈の腕が巻き付いている。桜子の隣へと席を移動した直人が我関せずと肩肘をつきながら人通りの少ないアーケード通りを窓越しに見つめている。
「確かに、ないわー……マジない。『空気に当てられた』とか……。こいつはやられたな」
思わず漏らしてしまったであろう、直人の妙に感情を殺したような冷たいかさついた言葉がクールビズをうたう張り紙を無視してエアコンの効きすぎを疑わせる。
「まったくもって、やられたとしか言い様がねぇーな」
先程までのおちゃらけた雰囲気を吹き飛ばし、直人に同意を見せる智也も、紗奈に絡まれつつもいつもの鉄仮面の無表情に戻っていった。
「桜姫のお嬢さん、おかえりー。お友達さんもお帰りになったし、そろそろ私たちもー行きましょうー」
ズズズっといつの間に頼んだのかアイスフロートが入っていたらしきグラスの底を綺麗に吸い尽くすした紗菜は、散々遊んだはずの智也の腕をポイと興味はなくなったと言わんばかりに放り投げ捨て席から立った。
「え、行くって?帰るんじゃなくて?」
まだ、座り直したばかりだったし、このまま、紗菜の自宅に戻って置いてある自転車を回収、解散だと思っていた桜子は思わず声が裏返った。
「あれれー私は関係ない、なんて許さないわよー?まだ時間は早いしー、今の時期、日も長いー。なによりー、私は現場にある使えるものはー、みーんな効率よーく使わせていただく主義なのー」
桜子の考えなんてお見通しなのよと語る紗菜の口元が艶やかな弧を描く。
「さーて、着任最初の大仕事の始まりよー」
テーブルの上の伝票をつかみ取りると可愛らしさを纏った帝都近辺一の〈憑依の王〉は毛先がクルクルとした長い髪を揺らし、軽やかな足取りで会計に向かっていった。