一枚一円以下。
時計が深夜三時を指しているのを見た瞬間に、わたしは文章には書き表せないような叫び声を上げた。スカイプで繋がっていた友人の絵師さんが「なに!? なに!? どしたの!?」とペンを置いてくれたのが聞こえた。ありがとう、でも君も急いだほうがいいと思う。
「いや……もう、なんでもない。眠かったから気合い入れ直しただけっす」
「おうおう頑張れー寝るなー」
彼女の後ろから「あんたもさっきから目薬差しまくってんでしょ」という突っ込みが聞こえてきたあたり、窮状は自分とさほど変わらないらしい。いいなーアシスタントくん。文字書きにもアシが欲しい。
「春フェスまで時間ないからね……今寝たらそのまんま死亡。その前に絶望」
先ほどから情熱的に愛し合おうとする上まぶたと下まぶたをロミジュリのごとく引き離し(つまりは結ばれたら死)、キーボードの上の指を舞わせる。とはいえ、先ほどから致命的なまでに打ち間違えが多く、本当に舞っていたとすれば何度も自分で自分の足を踏みまくっている状態だ。わたしはダンスを踊らないが、何度もとちってしまう踊り手さんはきっと気持ちが荒れると思う。それは文字書きも同じ。
「ちっ……××が」
「急に放送禁止用語呟くのやめよう?」
「ごめん。そっちはどう? 終わりそう?」
「ん? ああ、ヨユーヨユー」
彼女の後ろから「嘘をつけ嘘を」という突っ込みが聞こえて(以下略)。
「いいねー。なんか、チームワークって感じ」
「そう? だってさー、よかったね」
茶化すように彼女がアシくんに声をかけると「ペンを動かしてくださいよおおお!」という悲痛な叫びがこちらにも届いてきた。うん、そうだね。わたしも一生懸命ペンを動かすよ。キーボードで作業してるけど。
「…………あのさ」
またしばらく沈黙の中で作業に集中したのち、彼女が今までと違うトーンの声で言った。
「なあに」
「初めてサークルに参加したとき、どう思った?」
「どうって……」
随分と懐かしい話を持ち出されて、わたしの思考は一瞬彼方に飛行する。
嬉しかったに決まってる。自分の作品に値段がついたことが、公の場所で売られたことが、ファンだという人に「いつも読んでます!」と面と向かって言われたことが。
アリーナに自分のスペースが設けられて、並べられた机の上に自分の本を積み上げたとき、どんなに誇らしかったことか。
信じられない。自分が書いたものが、お金を出してまで人に求められるなんて。
「……有り得ないって、思ったかな」
「あはは、あたしも」
紙は、一枚一円以下。それに文字や絵を刷って何枚ずつかにまとめ、大体三百円から五百円くらいで売る。有り得ないぼったくりだ。
紙は、あくまでただの紙だ。しかしそこに刷られるものによって、紙はただの紙であることを超えていく。
紙の付加価値を決めるのは作者の腕だ。とある同人誌が一冊四十ページで三百円だとして、紙がおおよそ一枚〇.五円、インク代込みで原材料費は一冊十円と少し。つまり、二百九十円の価値は自分にかかっているということ。
「スランプのときとか、こんなん一円でも売れねーって思った」
某サイトで神と崇められる彼女にも、確かに荒れている時期があった。夜中に急に電話がかかってきたかと思ったら「今泣きながらB5の紙を塗りつぶしてる」と告白されたり、新しい絵がまったく投稿されない時期があったり。病んでるなーとそのときは呑気に思った。わりと近いうちに自分も似たような状況に陥るとはつゆ知らず。「書けない書けない書けない」と呪詛のように吐きながら画面に「ああああああああああああああああああああああああああああ」を量産する日々。自分の書いた文字がバラバラと地面に落っこちて、それを「――確かにこんな文章じゃな」と冷めた目で見つめる夢を見た日には、起きてから溜め息とともにぽろぽろと涙をこぼした。
楽しいばかりじゃない。つらいことのほうが多い気がする。現に今がそんな感じだ。仕事でやっているわけじゃないから給料も出ない。
それでもわたしたちが、作業台の前から決して離れなかったのは、その二百九十円にそれだけ命を懸けていたから、そして結局、自分たちはかき続けるしかないと知っていたから。
真っ黒に塗りつぶされた紙、そして「ああああああああああああああああああああああああああああ」で埋め尽くされた画面。その先に、きっと次の作品への足掛かりがある。そう信じたから。信じるしかなかったから。
「……あ、くそ、線歪んだ」
「はい付加価値下がったー」
「今直してますよって」
短針は四時を指そうとしている。また一時間締め切りに近付いた時計を忌々し気に睨みつけ、わたしは深く息を吐き出した。
この先も、きっと何度もこういう窮地に立たされる。どうせそのたびにぐだぐだと悩むし、夜更かしもする。
遊びでこんなに憂鬱になるわたしを、世間は馬鹿だ馬鹿だと指差して笑うだろう。
それがどうした。遊びに全力になれる大人でなにが悪い。
こんなふうにパソコンにかじりついて、寝ないように気力が失せないように友人と励まし合いながら夜更かしすることが、半端じゃなく楽しいということを知れる人間は、
「やっべ低姿勢で描いてたから腰めっちゃ痛ぇんだけど」
「踊り狂え」
「アシくんに怒られろと?」
きっと、そうはいないはずだ。
夜な夜な作業台に現れる亡霊と成り果てたのは、わたしたちの人生において、もしかしたら最も不幸な出来事だったのかもしれない。
けれど、仮にもう一度自分の人生をやり直せるとして「かく人生か、かかない人生か」と誰かに訊かれたとしたら、きっとわたしたちは迷いなく「前者で」と答えるのだろう。
かくことは、闘うこと。そして闘うことは、生きること。
最後のエンターキーを叩いたとき、そして最後の一筆を描き終えたときの「今日もまた生き延びた」という実感が、わたしたちをこの業界に留めおく最大の要因なのかもしれない。
〈おわり〉
高校も最後、なにか書きたいなあと思い立ったので。誰に宛てようか悩んで、ふと一緒に頑張ってきた絵師さんたちの姿が思い浮かびました。ジャンルは違えど、がりがりと紙に向かって頑張る君たちの姿は私に創作意欲を与えてくれたよー!