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夢見人  作者: 深水晶
8/12

第8話 名刺

後悔は先にはできない

だけど

後悔せずに済む方法は

この世の何処にもない


何故なら

最初から後悔すると

知っているなら

誰もそんな選択はしない


実際に後悔するまでは

何が後悔の種になるか

知らずにいるから


だから人は後悔する



(執筆者 笠置博明)



 薄汚れたコンクリートの階段を、ゆっくり三階へと上る。気配はそこだと告げている。迷いない足取りの博明に、中戸は苦笑しながら言う。

「博明君って、度胸があるというか肝が据わっているよね」

「そうですか?」

 博明がきょとんとすると、中戸は頷く。

「将来絶対に大物になるよ」

 そこまで買い被られると、面映いどころか困惑する。

「冷静沈着だし」

「違いますよ」

 博明はきっぱり否定する。

「度胸なんてないし、冷静じゃないし、自信なんてないです」

「じゃあ、どうしてそんなふうに堂々としていられるんだ。知らない場所だろう?」

 中戸に聞かれて初めて、何かがおかしいと感じた。いつもと何かが違うと思う。いつもの自分ならば、こんなところでこんな事はしていない筈だ。そう気付いて、足が止まる。

「博明君?」

 博明は呆然とした。

(なんで僕は、ノコノコとこんなところまで来てしまったんだ?)

 今更気付いた。挑発だ。挑発に乗せられてここへ来たのだ。そして残された名刺を手掛かりにして、ここまで来た。

(……誘導された?)

 硬直した博明の顔を、中戸が心配そうに覗き込む。

「大丈夫か、博明君」

 それは二階と三階の間の踊り場だった。立ち止まった時間はほんの十数秒間。中戸の声に我に返った博明の全身に、突き刺さるような鋭い痛みが無数に走った。

「っ!?」

 声も上げられずに、その場に崩折れた。

「博明君!!」

 中戸の悲鳴が鼓膜を打つ。床や壁と接触する間際に、中戸に抱きとめられた。次の瞬間、激しい爆発音が鳴り響いた。

「!!」

 悲鳴と怒号と破裂音が交錯する。

「ごめん!!」

 中戸はそう言い置いて、博明をその場に残して駆け出した。

 博明は呻く事すらできなかった。尻を床につけて壁にもたれ、全身の鋭い痛みに耐えながら、冷たい汗を拭う事もできず、くらくらする視界を賢明に確保しようと、後頭部を壁に預けて、目に力を込めた。手足は痺れたように動かない。まるで糸の切れたマリオネットだ。そんな博明の前に男が一人、近付いてくる。

 危険を感じて立ち上がろうとしたが、指一本動かせない。ぶるりと震えた。

「私を見つけたらと言ったけど、やはりそれじゃつまらないから条件を変えるよ」

 男の声が言った。視界はぼんやりして、相手の顔も背丈も体格すらも判らない。霞がかっている。意識を保つ事すら困難だ。全身汗をかいているのにひどく冷たく、痛覚以外の感覚が遠い。朦朧とする意識の中、全身全霊で目の前の男に意識を集中するが、まるで幽鬼のように気配がない。煙のように意識を掴みきれない。曖昧でぼんやりしていて、生気も存在感もない。

「鬼ごっこにしよう。君が僕を捕まえられたら、ゲームオーバー。ただし、君が近くに来たらこんなふうに反撃もする。だから、良く考えて行動した方が良いだろう。他人を巻き込まないように」

 男は愉しそうに言った。

「……っ!」

 声が出ない。泣きたかった。悲鳴を上げたかった。男が何者で、何を企んでいるのか問い詰めたかった。

「じゃあね」

 そう言って、男は立ち去った。

「ま……て……っ」

 男が離れていく毎に、痛みが薄れていく。なかなか自由に動かせなかった。痛みと疲労で身体が重い。

「……なんで」

 涙が溢れてくる。中戸の悲鳴が聞こえた。それを合図にしたように、複数の他人の思念が流れ込んでくる。

『なんで結子が……っ』

『痛い、苦しい、熱い、痛い……』

『重い、痛い、避けてくれ、本棚が……胸が……っ!!』

『助けて! 助けて!!』

『火の気はなかったのに、いったいなんで……!』

『手帳が……』

『予兆はなかった。いったい何故……』

 博明は両手で耳を塞いだ。だが、器官を通さずに聞こえるそれを遮断することはできない。無防備に、無差別に、容赦なく侵入してくる。

「あぁぁああぁぁっ!!」

 博明は悲鳴を上げた。

「ふざけるな!! 何が鬼ごっこだ!! 誰がそんなものに付き合うなんて言ったんだよ!! ふざけるな!! 僕が、僕がいったい何をしたって言うんだ!! 被害に遭った人達がいったい何をしたっていうんだよ!!」

 腹の底から、喉がかれんばかりに叫んだ。

 叫んだ途端、周囲の意識が拡散し、自らの全身を満たした怒りと悲しみが、空気中に放出され、脱力していくような気がした。涙で視界が曇っていく。

「……やっぱり僕は大物にはなれないよ」

 博明は呟いた。冷静になんてなれない。落ち着いた言動なんて無理だと思う。身体が上手く動かない。身体の感覚は徐々に戻ってくる。指先も動くようになった。だけど、動けない。無力感にうちのめされる。

 苦しい。

『なんで結子がこんな目に……!』

 それは中戸の悲鳴だった。博明はハッと息を呑む。

 床に手をついてゆっくり立ち上がる。足が微かに震えるが、なんとか立ち上がった。

「……行かなきゃ」

 気分が重い。だが、ここで逃げるよりはマシだった。マシだと思いたかった。

 何故こんな事になったのか判らない。だが、糸口はある筈だ。

「……手帳」

 博明は呟いた。確信はない。しかし、確認する必要はあると思った。他に手掛かりになりそうなものは考えつかなかった。そう考えてふと気付く。さっきまで握りしめていた筈の名刺が、手元になかった。慌てて辺りを見回したが、何処にも見つからない。確かに持っていた筈だ。少なくとも痛みに襲われるまでは持っていた。そう考えてドキリとした。

(……もしかして)

 それを確認するために、階段を駆け上がる。足元がふらついたが、無視して身体を動かす。手帳とボールペンの気配は既になかった。だが、方角や位置を覚えていた。だから迷わなかった。

「中戸さん!」

 目的の部屋のドアを開け放つ。そこには、爆風でなぎ倒された本棚、割れた窓ガラス、倒れて血を流す人々がいて、そのほぼ中央部に、血だらけの女性を抱きしめ、泣き叫ぶ中戸がいた。傍らには焼け焦げた黒い手帳が落ちていた。

(あれだ)

 手帳に近付く。それは普通の手帳だった。拾い上げて開くと、表紙と中表紙の間を中心に焼け焦げており、挟まれていた名刺はほとんど原形を留めていなかった。だが、念のため一枚ずつ確認し、そして確信する。

(たぶんそうだ。あれと同じ物が確かにここにあったのだとしたら、それがない)

 どうしたらそんなことが可能なのかは判らない。だがきっと、おそらく。

(名刺だ。名刺を媒介して、攻撃するんだ)

 寒気が走った。名刺なんてありふれている。一枚くらい増減しても気にしない。親しい相手ならば気に留めるだろうが、ただの顔見知りのものまで気にするだろうか。

 高校生の博明にとって、名刺はそれほど重要ではない。だが、社会人にとってはそうではないという事は、一般常識として知っている。

「そんなものを……どうやって事前に防ぐ事が出来る……?」

 相手の名前すら判らない。唯一の手掛かりは消えてしまった。いつもならば気配で辿る事が出来る。だが、あの男に関しては全く自信がない。

「中戸さん」

 博明は中戸の傍らにしゃがみ込む。中戸に抱きしめられているのは、あの過呼吸を起こしていた女性だ。ピクリとも動かない。だが死んではいなかった。まだ生きている。

「中戸さん、しっかりしてください」

 中戸は焦点の合わない濡れた瞳で、博明を見上げる。

「結子さんは生きています。適切な処置をすれば、回復します」

 全てを見たわけではない。表面上からの素人判断だ。博明は医師ではない。気配からそう憶測しただけだ。

「……え?」

「だからまず、人工呼吸をしましょう。心臓はかろうじて動いています。肋骨が折れているようですから、心臓マッサージが不要なのは幸いです。手遅れにならない内に。気道を確保して人工呼吸です。人工呼吸のやり方は判りますか?」

 博明の言葉に、中戸は無言で頷いた。

(手遅れになんかさせるものか)

 博明の目に涙はなかったが、赤く充血しギラギラと光っていた。

「では、結子さんの応急手当はお任せします。僕は、警察と消防に通報します」

 余計な事は考えなかった。とにかく後悔したくなかった。既にしていたが、今以上に後悔したくなかった。だから、自分にできる事をする。悔やんで反省するのは、後からできる。とりあえず今は、そう腹をくくる事にした。


――To be continued. Next 9th story is "The Swindler".


今回で一区切り、次話「詐術師」に続きます。

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