第8話 名刺
後悔は先にはできない
だけど
後悔せずに済む方法は
この世の何処にもない
何故なら
最初から後悔すると
知っているなら
誰もそんな選択はしない
実際に後悔するまでは
何が後悔の種になるか
知らずにいるから
だから人は後悔する
(執筆者 笠置博明)
薄汚れたコンクリートの階段を、ゆっくり三階へと上る。気配はそこだと告げている。迷いない足取りの博明に、中戸は苦笑しながら言う。
「博明君って、度胸があるというか肝が据わっているよね」
「そうですか?」
博明がきょとんとすると、中戸は頷く。
「将来絶対に大物になるよ」
そこまで買い被られると、面映いどころか困惑する。
「冷静沈着だし」
「違いますよ」
博明はきっぱり否定する。
「度胸なんてないし、冷静じゃないし、自信なんてないです」
「じゃあ、どうしてそんなふうに堂々としていられるんだ。知らない場所だろう?」
中戸に聞かれて初めて、何かがおかしいと感じた。いつもと何かが違うと思う。いつもの自分ならば、こんなところでこんな事はしていない筈だ。そう気付いて、足が止まる。
「博明君?」
博明は呆然とした。
(なんで僕は、ノコノコとこんなところまで来てしまったんだ?)
今更気付いた。挑発だ。挑発に乗せられてここへ来たのだ。そして残された名刺を手掛かりにして、ここまで来た。
(……誘導された?)
硬直した博明の顔を、中戸が心配そうに覗き込む。
「大丈夫か、博明君」
それは二階と三階の間の踊り場だった。立ち止まった時間はほんの十数秒間。中戸の声に我に返った博明の全身に、突き刺さるような鋭い痛みが無数に走った。
「っ!?」
声も上げられずに、その場に崩折れた。
「博明君!!」
中戸の悲鳴が鼓膜を打つ。床や壁と接触する間際に、中戸に抱きとめられた。次の瞬間、激しい爆発音が鳴り響いた。
「!!」
悲鳴と怒号と破裂音が交錯する。
「ごめん!!」
中戸はそう言い置いて、博明をその場に残して駆け出した。
博明は呻く事すらできなかった。尻を床につけて壁にもたれ、全身の鋭い痛みに耐えながら、冷たい汗を拭う事もできず、くらくらする視界を賢明に確保しようと、後頭部を壁に預けて、目に力を込めた。手足は痺れたように動かない。まるで糸の切れたマリオネットだ。そんな博明の前に男が一人、近付いてくる。
危険を感じて立ち上がろうとしたが、指一本動かせない。ぶるりと震えた。
「私を見つけたらと言ったけど、やはりそれじゃつまらないから条件を変えるよ」
男の声が言った。視界はぼんやりして、相手の顔も背丈も体格すらも判らない。霞がかっている。意識を保つ事すら困難だ。全身汗をかいているのにひどく冷たく、痛覚以外の感覚が遠い。朦朧とする意識の中、全身全霊で目の前の男に意識を集中するが、まるで幽鬼のように気配がない。煙のように意識を掴みきれない。曖昧でぼんやりしていて、生気も存在感もない。
「鬼ごっこにしよう。君が僕を捕まえられたら、ゲームオーバー。ただし、君が近くに来たらこんなふうに反撃もする。だから、良く考えて行動した方が良いだろう。他人を巻き込まないように」
男は愉しそうに言った。
「……っ!」
声が出ない。泣きたかった。悲鳴を上げたかった。男が何者で、何を企んでいるのか問い詰めたかった。
「じゃあね」
そう言って、男は立ち去った。
「ま……て……っ」
男が離れていく毎に、痛みが薄れていく。なかなか自由に動かせなかった。痛みと疲労で身体が重い。
「……なんで」
涙が溢れてくる。中戸の悲鳴が聞こえた。それを合図にしたように、複数の他人の思念が流れ込んでくる。
『なんで結子が……っ』
『痛い、苦しい、熱い、痛い……』
『重い、痛い、避けてくれ、本棚が……胸が……っ!!』
『助けて! 助けて!!』
『火の気はなかったのに、いったいなんで……!』
『手帳が……』
『予兆はなかった。いったい何故……』
博明は両手で耳を塞いだ。だが、器官を通さずに聞こえるそれを遮断することはできない。無防備に、無差別に、容赦なく侵入してくる。
「あぁぁああぁぁっ!!」
博明は悲鳴を上げた。
「ふざけるな!! 何が鬼ごっこだ!! 誰がそんなものに付き合うなんて言ったんだよ!! ふざけるな!! 僕が、僕がいったい何をしたって言うんだ!! 被害に遭った人達がいったい何をしたっていうんだよ!!」
腹の底から、喉がかれんばかりに叫んだ。
叫んだ途端、周囲の意識が拡散し、自らの全身を満たした怒りと悲しみが、空気中に放出され、脱力していくような気がした。涙で視界が曇っていく。
「……やっぱり僕は大物にはなれないよ」
博明は呟いた。冷静になんてなれない。落ち着いた言動なんて無理だと思う。身体が上手く動かない。身体の感覚は徐々に戻ってくる。指先も動くようになった。だけど、動けない。無力感にうちのめされる。
苦しい。
『なんで結子がこんな目に……!』
それは中戸の悲鳴だった。博明はハッと息を呑む。
床に手をついてゆっくり立ち上がる。足が微かに震えるが、なんとか立ち上がった。
「……行かなきゃ」
気分が重い。だが、ここで逃げるよりはマシだった。マシだと思いたかった。
何故こんな事になったのか判らない。だが、糸口はある筈だ。
「……手帳」
博明は呟いた。確信はない。しかし、確認する必要はあると思った。他に手掛かりになりそうなものは考えつかなかった。そう考えてふと気付く。さっきまで握りしめていた筈の名刺が、手元になかった。慌てて辺りを見回したが、何処にも見つからない。確かに持っていた筈だ。少なくとも痛みに襲われるまでは持っていた。そう考えてドキリとした。
(……もしかして)
それを確認するために、階段を駆け上がる。足元がふらついたが、無視して身体を動かす。手帳とボールペンの気配は既になかった。だが、方角や位置を覚えていた。だから迷わなかった。
「中戸さん!」
目的の部屋のドアを開け放つ。そこには、爆風でなぎ倒された本棚、割れた窓ガラス、倒れて血を流す人々がいて、そのほぼ中央部に、血だらけの女性を抱きしめ、泣き叫ぶ中戸がいた。傍らには焼け焦げた黒い手帳が落ちていた。
(あれだ)
手帳に近付く。それは普通の手帳だった。拾い上げて開くと、表紙と中表紙の間を中心に焼け焦げており、挟まれていた名刺はほとんど原形を留めていなかった。だが、念のため一枚ずつ確認し、そして確信する。
(たぶんそうだ。あれと同じ物が確かにここにあったのだとしたら、それがない)
どうしたらそんなことが可能なのかは判らない。だがきっと、おそらく。
(名刺だ。名刺を媒介して、攻撃するんだ)
寒気が走った。名刺なんてありふれている。一枚くらい増減しても気にしない。親しい相手ならば気に留めるだろうが、ただの顔見知りのものまで気にするだろうか。
高校生の博明にとって、名刺はそれほど重要ではない。だが、社会人にとってはそうではないという事は、一般常識として知っている。
「そんなものを……どうやって事前に防ぐ事が出来る……?」
相手の名前すら判らない。唯一の手掛かりは消えてしまった。いつもならば気配で辿る事が出来る。だが、あの男に関しては全く自信がない。
「中戸さん」
博明は中戸の傍らにしゃがみ込む。中戸に抱きしめられているのは、あの過呼吸を起こしていた女性だ。ピクリとも動かない。だが死んではいなかった。まだ生きている。
「中戸さん、しっかりしてください」
中戸は焦点の合わない濡れた瞳で、博明を見上げる。
「結子さんは生きています。適切な処置をすれば、回復します」
全てを見たわけではない。表面上からの素人判断だ。博明は医師ではない。気配からそう憶測しただけだ。
「……え?」
「だからまず、人工呼吸をしましょう。心臓はかろうじて動いています。肋骨が折れているようですから、心臓マッサージが不要なのは幸いです。手遅れにならない内に。気道を確保して人工呼吸です。人工呼吸のやり方は判りますか?」
博明の言葉に、中戸は無言で頷いた。
(手遅れになんかさせるものか)
博明の目に涙はなかったが、赤く充血しギラギラと光っていた。
「では、結子さんの応急手当はお任せします。僕は、警察と消防に通報します」
余計な事は考えなかった。とにかく後悔したくなかった。既にしていたが、今以上に後悔したくなかった。だから、自分にできる事をする。悔やんで反省するのは、後からできる。とりあえず今は、そう腹をくくる事にした。
――To be continued. Next 9th story is "The Swindler".
今回で一区切り、次話「詐術師」に続きます。