第7話 なくした手帳
普段は決して
選択しない選択肢を
選ぶ原因や理由があるとしたら
それは
普段と異なる状況だ
平静なつもりで
平静ではない
魔が差すとしたら
そういう時
だから
平静なつもりで
平静ではない
そういう時が一番危険
周りを
自分を
見失っているから
安易な罠にも
容易にかかる
(執筆者 笠置博明)
普段なら無視する。逡巡したが、結局博明はその大学へ行く事にした。寝不足で判断力が低下していたのも要因の一つだったかもしれない。昨日の不安や怒り、興奮や不機嫌を引きずっていたせいもあるかもしれない。一人ではない――監視付き――だという事も、脳裏にあったのかもしれない。いずれにせよ、普段通りであれば、学校をサボって明らかに怪しい指示に従って行動する可能性は著しく低かった。だから魔が差した――だが、そんなものはただの言い訳だ。どんな理由があろうと、不用意で安易で短絡過ぎた。
どんな選択にも後悔はつきものだ。だが、ほとんどの後悔は、するべくしてするものだ。
一見したところ、ごく普通の大学だ。近付いてからしまったと思ったのは、自分が高校の制服を着て、学生鞄を持っている事に気付いた時だった。これでは目立ち過ぎる。とりあえず上着を脱いでみた。だが、鞄はどうしようもない。
「参ったな」
そう思いつつ、鞄を上着で包んでみた。あまり誤魔化せてはいないが仕方ないと、構内に足を踏み入れた。
色とりどりの私服姿の学生達が割歩し、あるいは佇み、談笑している。博明は自分が異分子だと自覚しながら、なるべく人目につかぬよう細心の注意を払い、慎重に歩いた。そのつもりだった。
「あれ、君は昨日の高校生?」
脇から不意に声をかけられ、ギクリと振り向くと、過呼吸の女性客を介抱しようとしていた、真面目な店員だった。
「あ……っ」
「いったいここで何をしてるんだい。誰か知り合いでも探しているのかな?」
屈託なく笑いかけられて、博明は硬直する。緊張は最高潮に達していた。まさかという気持ちと、もしやという気持ちが交錯する。博明は震えながら、恐る恐る握りしめたままだった汚れた名刺を差し出した。
「え? 何、これ。汚い名刺だな。あ、うちの大学の関係者のか。何だよ、名前と役職とかのところが塗り潰されているな。あ、でもこのレイアウト、なんかどこかで見たような気がする。俺、たぶん似たような名刺持ってるよ」
「ほ、本当ですか!? 教えてください」
博明は藁をも掴む思いで、すがってしまう。
「そういえば自己紹介がまだだったよね。俺は中戸安彦。君は?」
「笠置博明です」
「博明君か。年の割に落ち着いてるよね。俺なんか成人してるのに動揺しちゃって、君が言ってくれるまで何もできなくてさ。いや、あれ俺の彼女なんだよな。美人だろ? って、自分の彼女一人守ってやるどころか、まともに面倒みてやれない俺が、何か言う資格ないし、本当に恥ずかしいと思うけど。だけど、いやだからかな、すごく感動した。恰好良かった。俺、嬉しくて。あの時、テンパってて、お礼言えなくてごめん。有り難う」
そんな事はどうでも良いと博明は思った。しかし返した反応は苦笑だ。
「あの、ところで名刺」
「そうだった。忘れるところだった」
博明は密かに嘆息する。最初の真面目で律儀な印象は、会話する毎に薄くなっていくが、普段はこういう人なのかもしれないと思い直す。
「あれ、おかしいな。確かここにあったと思うけど」
「何か見つからないんですか?」
「ああ。名刺は手帳に挟んであった筈なんだけど。ないな、何処かに置き忘れたのかも。連絡先教えてくれたら、確認して連絡するから……」
「いえ、特徴を言ってくだされば、見つけられると思います」
「……え?」
博明の言葉に、中戸は目を丸くする。
「だって」
「探し物が得意なんです。たぶん近くにあれば、それほどかからずに見つかると思います」
「……へぇ、そう」
狐につままれたような顔をしたが、中戸は頷いた。
「特に特徴らしい特徴はないんだ。使い捨ての、黒い表紙の手帳で、貰った名刺とか、未使用のテレホンカードとか挟んである。主な予定とかメモしてあるけど、個人的なメモは携帯に入れてあるから、たいした内容は書いてないんだ」
博明は目を瞑って、脳裏に手帳を思い浮かべる。いつもはすぐに浮かぶのに、今日は調子が悪いらしい。持ち主の執着が低いからかもしれない。昔から、本人がなくしても良いと思っているものを見つけるのは、難しい。特に人が多い場所では。
「見付けたいと思って手帳を思い出してくれませんか」
「それで見つかるの?」
「はい。思い入れがないと、見つかる筈のものも見つかりません」
「だから俺、よく物をなくすんだよな。今年に入って手帳なくしたのはもう3回目だし」
博明はギクリとした。
「え。じゃあ、前回手帳なくしたのは?」
「先月かな」
「じゃあ、名刺は先月以降に入手したんですか?」
「いや、先週いらない名刺を挟んでおいただけなんだ」
嫌な予感がした。
「いらない名刺だったんですか?」
「ああ。たぶん、退職した教授とか講師とか顔見知りの教職員とか」
「……つまり、既にこの大学にはいない人だって事ですか」
「たぶんね。記憶薄いけど」
探す意味はあるだろうか、と一瞬悩む。
だが、名前や性別くらいの情報は欲しいと思い直した。
「では、手帳を思い浮かべてください」
頭痛も耳鳴りも眩暈もしなかった。だが、暫くすると、ぼんやりと手帳の映像が浮かんでくる。細身の銀色のボールペンがさしてあった。手帳本体よりもそちらの気配の方が強く感じられた。
「ボールペンは誰かのプレゼントですか?」
博明の質問に、中戸はギョッとした顔になる。
「え、なっ、何で知ってるんだ?」
「あ、すみません。話したくなかったら別に良いです」
「いや、そうじゃなくて。なんでボールペンが挟んであった事を知ってるんだ?」
その質問に、一瞬しまったと思う。だが、平静を装う。
「ボールペンが付いてるのかもと思っただけです。他意はありません」
「なんだ、そうか。いや、確かに彼女に貰ったボールペンを引っかけてあったよ。だから、手帳はなくなっても平気だけど、ボールペンはなくしたくないかも」
「判りました」
博明は頷き、目を瞑って、意識を集中する。キィンと金属的な音が鳴り響き、耳を貫く。熱い血流が全身を駆け巡り、全身に痛いくらいに緊張がみなぎり、体毛が逆立つような感覚を覚える。フッと一点に意識が集中する。ここだ、と全身のアンテナが、直感が指差す方を見上げると、そこには他より古びた建物があった。
「あれは、良く行く建物ですか?」
博明が尋ねると、中戸は首を傾げる。
「いや、俺は経済学部だから、ほとんどあっちの研究棟には行かないけど……そういえば、3日前くらいに、結子に会いに行ったかも」
「……たぶんあそこにあると思います」
「うわ、本当か? もしかして博明君て、霊感少年?」
「違います」
博明は苦笑した。感覚の差し示すまま、博明は中戸と共に研究棟へと向かった。
――To be continued. Next 8th story is "The Card".