第4話 パニック
グロテスクな描写があります。
苦手な方はご注意ください。
超人はいない。
何処にも存在しない。
だから、自分の始末は自分でしよう。
だけど自力でどうにもできなかったら?
その時は仕方ない
助けを求めよう
一人が全てを引き受けられるほど
大きくはないから
時には
助けを求める事が必要だ
なのに
気持ちがすっきりしないのは
不甲斐ない自分に
苛立ちを覚えるからだ
(執筆者 笠置博明)
店員が肉のパックをトレイに乗せて現れると、耳鳴りが更に強くなった。
キィンという金属的な音が、脳髄を貫き掻き回す。
博明は腕を伸ばして店員に近付いた。
『助けて』
幻聴が囁く。
『私を助けて。苦しい。苦しいよ』
店員が博明の方を見た。店内放送を知らせるチャイムが鳴り響く。
「お待たせいたしました。これでは5時のタイムセールを開始します。今日のタイムセールの商品は、精肉売り場では豚バラ肉、鮮魚売り場では……」
『いや、いや、いや。私をこれ以上壊さないで。私を助けて。私を救って。お願い、お願いよ!』
肉入りパックが差し出される。店員は爽やかな営業スマイルを浮かべている。博明がパックに手を触れた瞬間、電流のようなものが全身を駆け巡った。
「……っ!」
幼く見える顔立ちの、ぽっちゃりした女性が目の前に現れ、淡々と語り出す。
『私の名は相良依子。宇多由伸の恋人、いいえ、5日前まで恋人だった。私の死体は冷凍庫の中。内臓や骨などは粉々に砕いて捨てられ、肉は部位毎に切り分けられて……』
「相良依子、21歳のOL……最悪だ」
ポツリ、と博明が呟いた。喧騒の中、その呟きを聞いたのは、店員一人きりだった。
「何?」
店員の顔から笑みが消え、警戒の色が覗く。
「ちょっとぉ、何やってんのよ。早くしなさいよ!」
ざわめきの中、主婦と覚しき女性が怒鳴るが、博明は気にせず、糸のようにすがめた目つきで、店員を見据えた。
「宇多由伸22歳、高卒のフリーター。このスーパーに来てから3ヶ月目の勤務。犯した罪は、殺人、死体損壊と遺棄、それと……」
「なんだ、てめぇ!! 俺に喧嘩売ってんのか!?」
店員は博明を睨み付け、襟首掴んで怒鳴るが博明は動じない。
「最悪だ。豚肉にまぎれて人肉が混じってる。こんなものを売るだなんて、随分酷い。酷過ぎる。いったいどういう神経してるんだ。本当に信じられない」
その口調は淡々としていた。だが、やけに響く声だった。暫し辺りが静まり返った。次いで、悲鳴と怒声と狂乱に支配される。
「なん……っ!」
「信じたかったのに」
博明は沈痛な表情で呟いた。
パニックに陥ったり、気分が悪くなった客も多くいた。騒ぎに気付いた他の店員も駆けつける。
「信じていたかったのに、最悪だ。なんて事をするんだ。人の肉を食肉として売るだなんて。そんなことをしたらどうなるか、判ってただろう?」
店員は博明を殴りつけた。博明は吹っ飛ばされて、後ろにあったワゴンに後頭部をぶつけて呻いた。
店員は博明に掴みかかり、更に殴る。
「やめろ! やめないか!!」
店内は大騒ぎになった。店員は駆けつけた別の店員に引きはがされて拘束され、博明は別の店員に助け起こされる。
「大丈夫ですか」
尋ねられて、博明は苦笑する。
(大丈夫じゃないのは、このスーパーマーケットだ)
そう思いながら謝る。
「すみません」
博明は謝った。
「いえ、こちらこそ申し訳ありません」
店員は深々と頭を下げる。
「いえ、僕も考えなしだったんで」
「そんなことは……」
「本当に人肉を売ってると知った途端、逆上してしまって」
そう博明が言うと、店員がヒッと悲鳴を上げて、硬直した。
「あ」
しまったと思う。だが、遅かった。目の前の店員は蒼白し、博明を睨む。
「人肉……?」
「あ、いえ、その、豚肉以外の物が混じってるなと……」
博明は冷や汗をかきながら、誤魔化そうとする。
幻聴はもう聞こえなかった。耳鳴りや眩暈もない。博明は落ち着きを取り戻しつつあったが、店内はますます混乱に陥っていた。
「う、うごぁ、」
店員は酸っぱそうな顔つきになり、次に胃の辺りを押さえて、
「あ、ちょっと、待っ……!」
博明は悲鳴を上げかけたが、その前に吐瀉物が盛大に降りかかってきた。
「……っ!!!!」
博明は声にならない悲鳴を上げる。
事態を収拾できる者は現れず、状況はますます悪くなるばかりだった。博明は店員を介抱しながら、内心頭を抱えた。
(どうしよう?)
悩んだ末に、電話したのは祖母の元。
『なんだね、博明』
「ばあちゃん? 大変なんだ。駅前のスーパーでとんでもない事態になって。僕が発端なんだけど、僕だけが原因じゃないとは思うけど、もう何をどうしたら良いか判らなくて」
『判ったよ。暫く待っていなさい』
「うん、判った」
博明は頷き、通話を切った。ぐったりしている店員に、
「大丈夫ですか。歩けますか。少し横になった方が良いんじゃないかと思いますけど、業務員用の休憩室とか救護室みたいなところはありますか」
救護室はなかった。だから、休憩室に運んで、椅子の上に寝かせて水を飲ませた。
「暫く寝ていてください。喉が渇いたら、水を飲んで。それと、責任者の方はどちらにいらっしゃいますか」
博明が尋ねると、店員は力なく博明を見た。
「……いつもは店長室の筈ですが、おそらくは店内に」
警察と救急に通報するべきだと博明は考えていた。だが、一言店の責任者と会話してからにしたかった。
(ばあちゃんが来てからにしようかな)
正直、途方に暮れていた。こんな事態は想定していなかった。つくづくこの場に高松がいなくて良かったと思う。
(とにかく混乱を何とかしないと、怪我人が出てしまう)
それは困る。そんなつもりは毛頭なかった。人が傷付く姿など見たくなかった。
不意に、くらりと眩暈を覚えた。
『嫌だ』
また幻聴だ。耳の奥が痛む。今度は男の声。
『責任取らされるのは嫌だ』
ズキズキと頭が痛む。
『俺のせいじゃない。俺の責任なんかじゃない。そうだ、あいつの責任だ。精肉売り場担当の沢田、あいつの監督責任だ。だからあんないい加減な遅刻ばかりするバイト、さっさとクビにすれば良かったんだ。そうしておけば、こんな騒ぎにはならなかった』
博明はふと思い出す。確か、あの宇多という男を取り押さえた男の右胸のバッジには、沢田と書かれていた気がする。
『俺のせいじゃない。あいつのせい、あいつのせい、あいつのせい……』
吐き気がしそうな思念だ。意識を遮断しようとするが、かなわない。異質な思惟が流れ込んでくる。
『嫌だ嫌だ嫌だ、責任なんか取りたくない、俺のせいじゃない、絶対に俺の責任じゃない、あいつの、あいつの、あいつのせい……』
頭が痛い。博明は心の中で呟く。
(大丈夫。この状況でそんな事を考えている人を頼ろうとは思わないから。だから、ゆっくり休むと良い)
憐れみを込めて。
「じゃあ、僕は行きます」
誰のせいだとか、誰の責任なのかとか、そんなものは知ったことじゃない。
事態を収拾できる可能性のある人間に助けを求めるのは、責任を果たして貰うためではなく、事態をなるべく早期に適切に収拾するためだ。
とりあえず最初にやれる事は、と考える。
「みなさん、落ち着いてください」
博明は目をぱちくりした。自分はまだ何も言っていない。拡声器を使って、店員が落ち着いた声でアナウンスする。
「皆さん、まず落ち着いて、深呼吸してください。まだですよ。数を数えますから、一、二、三で息を吸って、四、五、六で吐いてください。では、いきますよ、一、二、三……」
声に近付くと、沢田というバッジを付けた眼鏡をかけた店員だった。少し汗をかいているようだったが、落ち着いているように見える。博明は安堵した。客の三割から四割くらいは、アナウンスで少し落ち着いたようだった。
ぐったりして動けない客に、同行者らしき別の客が慌てていたり、店内で嘔吐していたり、ガタガタと震えていたり、過呼吸に陥っている者もいた。
博明は惣菜コーナーで大きめの紙袋を拝借して、過呼吸で苦しんでいる客の元に近寄った。傍らにいた店員は、どうしたら良いか判らずにオロオロしていた。博明は客に顔が見える位置で立ち止まり、ゆっくり屈み込むと、手にした紙袋をかざして見せる。
「今からこの紙袋を被せます。紙ですから、空気がちゃんと出入りします。密封状況にはなりません。これを被せたら、数を数えますから、ゆっくり息を吸って吐いてください。ただし、あまり深く息を吸い込まないで。逆に吐く時は、ゆっくり長くしっかり吐いてください。それで少し楽になります」
客は女性だ。汗をかき、ゼェゼェと息を切らしている。こちらを向いてはいるが、視線は合っていない。もしかしたら、聞こえていないかもしれない。
「水を持ってきてください。飲料用です」
博明は店員に言った。店員は弾かれたように駆け出して行った。博明は女性客の額に手を当てた。女性客は一瞬ビクリと痙攣した。
「すみません。熱はないみたいですね」
そう言って左手を取る。
「僕の声が聞こえていたら、指に力を入れてください。少しで良いです。無理はしないでください」
握っている左指に力が込められた。博明は微笑んだ。
「じゃあ、これから紙袋を被せます。一、二、三、四でゆっくり息を吐いて、五、六、七で息を吸ってください。逆にしないでください。過呼吸だと思いますから、二酸化酸素を吸う必要があります。苦しかったり、何かおかしいと感じたら、左指に力を入れてください。すぐにやめますから。危険な事も、痛くなるような事もしませんから、安心して力を抜いていてください」
過呼吸で人が死ぬ事はない。本人は苦しくて、呼吸ができない、酸素が足りないと思うから、息を懸命に吸おうとするが、実際は酸素濃度が高くなっており、二酸化炭素が少ない。後遺症もほとんど残らないので、大抵は医師の診察を必要としない。重度であれば鎮静剤が必要だが、こちらの質問に反応できるなら、おそらくは大丈夫だろう。他の病気や何か持病の発作であれば、お手上げだが。
博明は女性に紙袋を被せ、数を数える。
(いずれにせよ、気分が悪くなった人全員、心療内科か精神科か、何らかのカウンセリングを受ける必要があるよな)
だが、正直そこまで干渉したり面倒みる気はない。そこらへんは誰かが考えてくれるだろうと思う。
(気が重い)
おそらく今日か明日には、警察の事情聴取を受ける事になるだろう。そんな理由で学校を休んだり、遅刻したりしたくはないなと思った。自業自得ではあるが、こんな事になるとは予想もしなかった。
数を数え終えて、紙袋を外す。
「大丈夫ですか。まだ苦しいですか」
尋ねると女性はコクリと頷く。
「上半身を起こします。眩暈がしたり、気持ち悪かったり辛かったら、言ってください。指に力を入れても良いです」
そう言って、女性が頷くのを確認してから、博明は女性の上半身を貧血を起こさないようにゆっくりと助け起こす。
「大丈夫ですか。貧血や眩暈はしませんか」
女性が濡れた瞳で見上げてくる。博明は一瞬ドキリとした。
(うわ、この人、すごい美人だ)
思わず顔が赤くなる。
(従姉のたまきちゃんと同じくらいか年下くらいかな……って、そんな事を考えてる場合じゃない)
雑念を払って、紙袋を今度は口元に持っていく。
「息を吐いて、それを吸ってください。落ち着いてゆっくりです。焦らないでください」
先程の水を取りに行った店員が、ミネラルウォーターのペットボトルを2,3本持って駆け寄ってきた。
(1本で良かったんだけど、まぁ、他にも必要な人がいるだろうし、別に良いか)
博明がそう考えていると、
「売り物ですけど、きちんとレジは通してありますから、安心して使ってください」
そう言われて、博明は眉を上げた。目の前の店員の顔は真剣だ。随分律義で真面目な人だとは思ったが、口に出したのは、
「有り難うございます。助かります」
だった。店内は少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。博明は安堵しながら、受け取った。
――To be continued. Next 5th story is "Grandmother".