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沢田武は少し早めの朝食を済ませると、学校へ向う為に家を出た。始業の時刻までは余
裕があったので、通いなれた通学路に新鮮味を見つけ出すように、周囲の景色を眺めなが
ら時間をかけて歩いた。とはいえ、見渡せば田んぼや林や民家やらの景色に、新鮮味を見
つけ出すのはこの上なく難儀なことだった。武は大きな溜め息をついた。
武の住む『小袖村』(こそでむら)という村は、東北地方に存在する人口約二千程の小
さな村で、更に村はいくつかの小さな地区に分けられていた。武の住まう『久間』(ひさ
ま)という地区だけに限定すれば、人口五百人程しかない。田舎も田舎といった所だ。
久間は海に面した沿岸沿いにあり、周囲を小高い山が包囲していた。自然に囲まれてい
るといえば聞こえはいいが、二十一世紀の日本においてすべてが自給自足の生活というわ
けにもいかず、食品や生活用品の買い出しなどの度に車で街まで出て行かなくてはいけな
いので、生活する上で不便な点も多かった。
久間には小学校と中学校が一校ずつ存在し、地区の子供たちは特別な事情が無い限りこ
れら学校へ通うことになる。一校ずつしかないのだから、顔を合わせる面子は必然的に小
中学校通して同じとなる。これから武の向おうとしている中学校も、その村に一校だけの
中学校だった。各学年に一つのクラスしか存在しない小さな学校だ。今年中学二年の武は、
つい半月ほど前に一学期の期末テストを終え、もう一週間ほどで訪れる夏季連休をまだか
まだかと待ちわびていた。
武が教室の扉を開けると、そこには夏季連休目前の独特の雰囲気に満たされた、一種異
様な室内があった。小学校入学当時から変わらぬ面子に片手を挙げ、少々投げやりな挨拶
をする。同じく投げやりな返事を背に受け、武は自分の席に着いた。
武の席は窓際の後ろから二番目の席だった。鞄を机の横に掛けると、次いで左手にある
窓を開放する。それと同時に、顔をしかめたくなる熱気と、かしましい蝉の声が入り込ん
できた。まだ朝九時前だというのに既に相当の量の汗をかいていた。夏は嫌いではない武
だったが、さすがに連日続く最近の猛暑にはうんざりしていた。
武が何とはなしに窓の外を眺めていると、武に挨拶を掛ける者がいた。武が振り向くと、
そこには『桂木 奈緒』(かつらぎなお)というクラスメイトが鞄を掲げて立っていた。
「おはよ。いやー朝から暑いねー。ほんと、まいっちゃうわ」
奈緒は愚痴をこぼすと、自分の席である武の後ろの席へと腰を下ろした。
「そうだな。また夏が始まったって感じ」
武は窓の外に視線を戻しながら呟いた――。
武と奈緒は小学校入学当時から特別仲が良い。それには、奈緒の男女隔てのない性格が
深く関係しているといっていい。
奈緒には小学校時代から少々男勝りなところがある。それは周りの女子がゴム跳びやあ
やとりをしている中、一人男子に混じって野球やサッカーに興じるという具合だった。
性別上は勿論女なのだが、ショートにした髪型と男性的な服装と性格から、男子と遊ん
でいても特に違和感は無かった。なので男子の方からも爪弾きにされるようなことは無く、
すんなりと受け入れられていた。それなら同性との関係は、と思ってしまうが、こちらも
仲間はずれにされるなどといったことはなく、その飾らない人柄から同性からも好かれて
いた。つまり誰とでも仲良くなれる人物だったのだ。さすがに小学校高学年辺りからは男
子と遊ぶことは少なくなったが、中学生になった今でも、相手がたとえ異性でも気兼ねな
く接するというスタイルは変わらなかった。
武と奈緒は家が近所ということもあり、二人で一緒に遊ぶということが多々あった。遊
びの多くは自然的なものが多く、夏は川遊び、海水浴、虫取り、近所の山の探検。冬はソ
リ遊び、かまくら造り、雪合戦、などといった具合だ。
夏休み等は朝早く奈緒に連れ出されて家を出て、夕方遅くに帰宅というのが常だった。
それは今思えばかなりハードな日常だったが、それでも武は毎日が楽しいと思っていた。
しかし先に述べた通りそういう自然的な遊びは成長するにつれて減ってゆき、最終的には
週に二三度、お互いの部屋に集まって話すという形に落ち着いた。
武の今までの人生を通して言えば、男友達と遊んでいる時間より奈緒と遊んでいる時間
の方が圧倒的に多かった。それは単純に、他の誰と遊ぶより奈緒と遊んでいる方が楽しか
ったからだった。
普通、二人の男女がほぼ毎日のように一緒に遊んでいれば、〝二人は恋人同士なのでは
〟などと噂されるものなのだが、武と奈緒に限ってはそういうことは不思議となかった。
恐らくそれは、前述したような奈緒の同性とも異性とも分け隔てなく接する性格に由来す
るのだろう。武にしても、小学校卒業までは奈緒のことを異性の友達というよりは同性の
友達に近い感覚で捉えていた。いや、恐らくクラスの男子の大多数は武と同じ風に思って
いたことだろう。
しかし中学校入学を境に、武の奈緒に対する気持ちに変化が生じ始めた。奈緒は中学生
になり、それまで短く揃えていた髪を伸ばし始めた。同時に、小学生時代は自由だった服
装が制服へと変わり、セーラー服を纏うようになった。その二つの出来事が、武に少なか
らず気持ちの変化をもたらしたのだ。その時から武は、今まではほぼ無いに等しかった奈
緒を異性の友達として考える気持ちを抱き始めた。それは少し気恥ずかしくもあり、少し
嬉しくもあり、少し寂しくもあった。
――6時限目の終了を告げる予鈴が教室内に響き渡る。長かった一日が終了し、武のク
ラスは放課の時間を迎えた。
「んじゃ、帰ろっか」
「うむ。あー疲れた……」
武と奈緒はいつもの様に二人揃って教室を出た。家が近所である二人は、小学校時代か
ら二人で下校することが多かった。お互いに友人との予定がない場合は、自然とこういっ
た流れになる。
夕方になっても外は相変わらず暑かった。それでも日中の容赦ない日差しに比べれば、
それが弱まった分いくらかましに思えた。
生徒玄関から出てきた生徒は、皆口々に暑さに対する泣き言を漏らす。武と奈緒もそれ
らの生徒に混じり、二人ならんで校門を出た。
自宅への道のりを歩いていると、奈緒が口を開いた。
「ねえ武、あれ覚えてる? 小学生のころ、瀬山さん家の裏の林を探検したときのこと。
そこで、コンクリートでできた小屋を見つけたよね」
突然に昔の事について訊かれたので、武はそれを思い出すのに数十秒を要した。
「あぁー、懐かしいな。中に入ろうとしたけど、扉に鍵が掛かってて入れなかったやつ
か」
武と奈緒は小学生時代、探検と称して近所の山へ出かけることが何度かあった。コンク
リート小屋とは、その時に偶然発見したものだった。
「そうそう。周りもフェンスで囲まれてたし。なんだったんだろうね、あれ」
「さあなー。何かの施設だとは思うんだけど。でも林の奥にあんな厳重な施設なんて必
要なのかな」
「どうだろうね。そもそもあの小屋の存在自体、知ってる人少なそう。親に聞いても知
らなかったし。でも使われてるのは確かだと思う。あの時私たち、中へ入っていく人見た
よね?」
「あぁ、俺たちが一生懸命、フェンスの下に穴掘ってた時か。咄嗟に隠れたから見つか
らなかったけど、あん時は本当焦ったな。確か作業服みたいなの着た人が、鍵開けて中へ
入って行ったな。顔は見えなかったけど。一時間くらいして外に出てきたと思う」
「ということは今でも使われている小屋であることは間違いないわけだ。それなのに、
私の知り合いや親は誰一人としてあの小屋の事を知らない。ねえ武、なんか気にならな
い?」
「気になるって、何が? というか、何たっていきなりそんな昔の事を思い出したん
だ?」
考えてみれば、奈緒が昔話をするのはめずらしいことだった。それほどに気になる事が
あるのだろうか。それから少し間があってから、奈緒は切り出した。
「武、もう入りたい高校とか決めてる?」
「え?」
意表をつき、奈緒が口にしたのは先ほどの会話の内容とはまったく関係のない話題だっ
たので、武は面食らってしまった。
「また唐突だな。まだ決めてないけど、それがどうしたんだ? さっきの話と関係ある
のか?」
「私達、来年はもう三年生だよ。つまり受験生。そうなったら、受験勉強やら何やらで、
きっと忙しくなるよ。そうなる前に、私武ともっと遊んでおきたいと思ったの。昔みたい
に。そんな時コンクリート小屋の事思い出して、また二人であんな風にわくわくするよう
なことしたいなあなんて……」
武は話を聞き、奈緒が何故急に昔話を始めたのかを理解した。奈緒は中学三年生という
多忙な時期を迎える前に、今しかできぬであろう中学時代の思い出を、武と共に作ってお
きたいと考えたのだ。
それを知ると同時に、武は感心していた。
奈緒は既に受験生という先のことまで考えている。それが武の知る奈緒の考え方よりも
少し大人びて感じられた。中学二年生の武には、高校受験の話などまだ先のことと思われ
ていた。しかし言われてみれば、確かに受験という事実はもう間近に迫っているのだと思
い知らされる。
「なるほどな。それでお前、またあのコンクリート小屋に行ってみたいと思ったの
か?」
「うん。実を言うと、コンクリート小屋が気になるっていうのはただのこじつけ。本当
は場所なんてどこでもよかったんだ。また昔みたいに武と一緒に遊べるなら。……ねえ、
駄目かな?」
恐らくそれは、小学生時代の大半を一緒に過ごした武にしか協力できぬことだ。奈緒も
そういった武との昔の記憶を回顧するうちに、今回の思い出作りを提案するに至ったのだ
ろう。
武は奈緒のその思いを知り、思い出作りにできる限り協力しようと思った。また武自身
にも、奈緒と中学時代の思い出を作っておきたいという気持ちがあった。
「おいおい、あの頃のお前なら、俺に有無を言わさず家から引っ張り出してたじゃねえ
か。もちろんいいに決まってる」
「ほんと? ありがとう! 武ならそう言ってくれると思ってたよ。そうと決まれば、
小屋の中へ忍び込む方法とかいろいろ考えないと」
「え、小屋の中に忍び込むのか?」
「あたりまえじゃん。子供の頃はできなかったけど、今度はちゃんと中まで入って、あ
の小屋の正体を明かそう。ということで、早速今日武の家にいってもいい?」
「今日かよ。今日はもう遅くないか」
「思い立ったらすぐに実行したいの。武、私の性格知ってるでしょ」
「……わかったよ。じゃあ家帰ったら俺ん家集合な」
「うん、わかった。なんかわくわくするな!」
実のところ、武も多少ながら胸を躍らせていた。中学入学以来そういった事とは久しか
ったので、また奈緒と二人で子供の頃のように遊びに興じられるということは、とても嬉
しいことだった。たとえコンクリート小屋がただの打ち捨てられた廃墟だったとしても、
そこに至る過程で満足できればそれでよいとさえ思った。忘れていた、二人で野山を駆け
回った少年時代の記憶が次々とよみがえる。帰路、二人の昔話は家に着くまで尽きること
なく続いた――。