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武が駆けつけると、翔が目の前の土台を指差しながら言った。
「ほらこれ、手紙と同じ名前だ。桂木奈緒。間違いない」
武がその場に屈み込み、プレートの名を確認する。プレートには、確かに『桂木奈緒』
と書かれていた。漢字も一緒なので、同姓同名の別人という可能性はないに等しいだろう。
つまりこの瞬間。桂木奈緒の存在が確定したのだった。
「本当にあった……桂木奈緒は存在したんだ」
しかし桂木奈緒という人間は確かに存在しているのに、村民の誰も見たこともないし聞
いたこともないというのは、あまりに不自然な話だった。桂木奈緒の存在が確定しても尚、
謎は一向に解せぬままだ。
プレートを見るために屈み込んでいた武は、足元を這う土台から伸びたケーブルの異常
に気づいた。
「あれ、ケーブルが切れてる……」
なんと部屋中央の円柱型装置へと向かうはずのケーブルが、土台から出てすぐのところ
ですっぱりと切断されていた。切断面を見ると、鋭利な刃物で切断した風ではなく。なに
か切れ味の鈍い物で無理やりに切断した様に、ぼろぼろになっている。また、切断箇所付
近の地面に無数の傷が残っていることから、推測するに、ケーブルに何かを叩きつけるよ
うにして切断したと思われる。しかし一体誰が何のために?
疑問に思っていると、すぐそばで金属と石とが擦れ合うような音が響いた。そちらを振
り向くと、翔が何かを手にぶら下げて立っている。どうやら音は、それを持ち上げる際に
地面と擦れて発せられたらしい。
「……シャベル……だな。なんでこんなところに落ちてるんだ」
翔が、手にもったそれをしげしげと見つめながら呟いた。確かにそれは紛れもないシャ
ベルだった。シャベルと言えば、桂木奈緒がコンクリート小屋内部へ侵入する際、足場と
して使用していた。もしかすると、このシャベルも桂木奈緒のものなのか。しかし、それ
をここまで持ち込んだ理由は何なのか。何かに使用したのか? 武は考察してみたが、結
局答えはわからなかった。
「そういえば、桂木奈緒の家族の名前を見てないな。多分しらない人だろうけど」
それほど期待していないといった様子で、翔が言った。それもそうだろう。桂木という
姓をもち、且つ桂木奈緒と血縁関係のある知り合いがいないことは、事前にわかっていた
からだ。それを踏まえたうえで、武は桂木奈緒の左隣にある脳の、土台に取り付けられた
プレートを見た。しかしその結果は、二人の予想を遥かに裏切るものとなった。
「桂木奈美って……近所の桂木おばさんの名前だ」
桂木奈美。それは武宅の近所に住み、武が桂木のおばさんと呼んで慕っている人物だっ
た。しかしながら、彼女に子供がいるという事実はない。それどころか、桂木奈緒という
名前すら認識していないはずだ。これは先日、武が桂木奈美に桂木奈緒について直接に尋
ねた際、本人の口から聞いた事だから間違いない。ならば何故、桂木奈緒の隣に桂木奈美
の名があるのだろうか。
「え、でもその近所の桂木さんって人、子供はいないって話だよな? どうなってん
だ?」
翔が頭上に疑問符を浮かべながら言う。正直、武にも何がなんだかわからなかった。考
え得る可能性としては、まず一つに、桂木奈緒と桂木奈美がまったく無関係の人物である、
という可能性。これは、二つの名が偶然に隣り合っただけであって、二人には何ら特別な
関係性はないという可能性だ。しかし同じ姓をもつこの二人が、偶然に隣り合う確立はど
れほどのものだろうか。そうなる可能性がないわけではないにしても、恐らくかなり低い
確率だろう。二つ目の可能性としては、桂木奈緒が嘘をついているという可能性。これは、
桂木奈美に桂木奈緒という家族が存在しながらも、何らかの理由で世間にはその事実を秘
匿しているという可能性。しかし武には、桂木奈美が嘘をついているとはどうしても思え
なかった。その根拠として、先日の桂木奈美との会話がある。もし桂木奈美が本当に隠し
事をしているとすれば、会話の中に桂木奈緒という名前が出たとき、桂木奈美には少なか
らず動揺がみられるはずだ。しかし先日の会話中、桂木奈美にそういう挙動は見られなか
った。そういうわけで、武に桂木奈美が嘘をついているとは思えなかった。そうなると、
桂木奈美と桂木奈緒が隣り合ったのは、やはり偶然なのだろうか。残念ながら、今の時点
では真相のほどはわからない。
「だめだ、わからない……。桂木奈緒に直接聞きたいところだが、あいにく彼女は行方
不明。……桂木奈緒は一体何処へ消えたんだ」
そう言った武は深くため息をつく。謎が謎を呼ぶとはこのことだった。この場に桂木奈
緒がいれば、本人から話を聞きだすことで、さまざまな疑問が芋づる式に解決すると思う
のだが。あまりの難問に武が考えあぐねていると、隣で翔が言った。
「なあ、もう一度手紙を見てみないか? 彼女が何処にいるか、何かヒントを得られる
かも。手紙は持ってきてるか?」
考えに行き詰っていた武に、翔の意見に反対する理由はなかった。武は翔の言葉に頷き、
ズボンのポケットから折りたたんだ手紙を取り出した。それからそれを翔にも見えるよう
にして目の前の宙に広げ、二人してそれを見つめた。その後、二人は手紙から重要だと思
われる文を抜粋すると、その中から要点をまとめた。
「この手紙の謎を解く鍵とおもわれる点は三つ。『桂木奈緒が導き出した結論とはなに
か』『桂木奈緒が実行した“ある事”とはなにか』『その“ある事”を行動に移した際、
桂木奈緒が消失してしまう理由』恐らくこれら全ては相互に関連する事柄だから、どれか
ひとつでもわかれば他もわかると思うんだけど……」
この部屋を訪れてから現時点までに見てきたものを総合し、武はこの部屋が、何かの研
究施設ではないかと当たりを付けていた。しかしそれが桂木奈緒の出した結論と同じかど
うかは、本人に聞かぬ限りわからぬことだろう。現時点でわかる余地があるとすれば、そ
れは他の二つの点だろう。
武は桂木奈緒が実行したであろう事柄について考察することにした。今確認されている
部屋の異変は、切断されたテーブルと、所有者不明のシャベルだ。ケーブルの切断につい
ては翔が気づいていないかもしれないので、まずはその旨を翔に伝える。
「実は桂木奈緒の脳の土台から出てるケーブルが、何者かに切断されてるんだ。翔、ど
う思う?」
翔はその事実を知らなかった様子で、武からその話を聞くと、すぐに現場へ確認に向か
った。現場に到着すると、その場にかがみこんで例の切断されたケーブルを興味深そうに
眺めだした。それから一頻り手に取ったり眺めたりした後、翔が口を開いた。
「本当だ……。なあ、これって、このシャベルで切断したんじゃないかな? 切口がど
うみても無理やりだし、地面の傷も、シャベルを叩き付けた時に出来たと考えれば、つじ
つまが合う」
成るほど、と武は思った。これならこの場にシャベルが存在することにも納得ができる。
そしてこのケーブル切断が桂木奈緒が実行した内容だとして、手紙の文面どおり解釈すれ
ば、彼女はケーブルを切断したことによって、自らを消失したことになる。
しかしどのような理屈で考えれば、ケーブルを切断することで彼女が消失するというこ
とになるのか。そもそもこのケーブルが何の役割を果たしているのかも分かっていないの
だから、その辺りから考えていく必要がある。
このケーブルは、脳と部屋中央の円柱型装置とをつないでいる。その間で何らかのやり
取りを行っているとすれば、ケーブルを切断することで、そのやり取りを無理矢理に中断
させることになる。それが桂木奈緒に何らかの影響を及ぼし、結果的に彼女の消失に繋が
ったと考えられるだろう。しかしどうして脳と円柱型装置とのやり取りが断たれることが、
桂木奈緒の消失に繋がるのかがわからない。だって、脳や装置は桂木奈緒と物理的に繋が
っているわけではないのだ。にもかかわらず影響を及ぼすとは、一体どういう原理なのだ
ろう。もしや、『ケーブル切断=自身の消失』という仮定が間違っているのか?。だとす
れば、今必死になって考察している事自体が、無意味となる。
しかし、この仮定の真偽の程を確かめるのに、直接的且つ至極簡単な方法があった。た
だし、仮定が真実であった場合、武自身が消失するかも知れぬというリスクを伴うが……。
「……なあ翔、仮に桂木奈緒がケーブルを切断したとして、その後どうなったかを知る
には、これはもう、桂木奈緒と同じ事を試してみるしかないと思うんだ」
「試してみるって、自分のケーブルを切断するのか?」
翔の質問に武は頷いた。勿論、自分がそれを実行にするつもりだった。
「うん。そしてもし、桂木奈緒の手紙通りならば、恐らくケーブルを切断した瞬間に、
俺は消える」
自分で言っておいてなんだが、武は実に現実味のない話だと思った。しかしその実、こ
の突拍子のない考えをどこかで信じている自分もいた。
「おいおい、たかが電線一本切ったくらいで、人が消えるはずないだろ。確かに脳みそ
が入ってる得体の知れない装置だけど、そんなことで人が消えるなんて、絶対にないね」
「俺だってそう考えたさ。でもその以外に、手紙の内容とつじつまが合う理由が考えら
れないんだ。嘘か本当かは、お前の目で直接確かめてくれ」
そう言うと、武は翔に右手を突き出し、シャベルを貸すよう要求した。翔はどうしてい
いのか分からぬといった態度だったが、武に実行をやめる気持ちがないことがわかると、
結局はそれに押されるような形で、武にシャベルを渡してしまった。シャベルを受け取っ
た武は、翔に礼を述べてから自分の脳のある場所に向かって歩き出した。
この時武の中には、自分がどうなってしまうのかという恐怖もあるにはあったが、それ
よりも、ケーブルの切断がどういう結果をもたらすのか知りたいという好奇心の方が勝っ
ていた。しかし手紙を読む限り、桂木奈緒の方は、ケーブル切断時にそれほどの余裕があ
ったとは思えない。何故二人にそのような心境の違いが生まれるのか。それは恐らく、桂
木奈緒は全てを捨てる覚悟でこの事柄に望んだのに対し、武は頭の中に、しかし消失した
後でまた元通り復帰できるかもという、希望的観測が存在していたからかもしれない。消
失後に復帰できる確証など、どこにもないのだが……。
そうこうしているうちに、武は自分の脳の置かれた台座の前に到着した。そのまま裏側
に回り、ケーブルを見下ろす位置に立つ。
「おい……本当にやるのか?」
実行を前にして、翔が不安そうな声を出した。しかし武は不安など微塵も感じさせない
態度で、翔の問いかけに悠然と返して見せた。
「大丈夫。きっと、死ぬわけじゃないさ」
その一言が最後だった。武はシャベルを両手でしっかりと掴むと、頭上高くそれを振り
上げた、そして足元の目標めがけ、それを力一杯叩き付けた。