12
――闇黒の空間を、二つの弱々しい光が下っていく……。
あれほど耳障りだった蝉の鳴き声もここへは届かない。音源といえば、階段を下る度虚
ろに響く、自分らの足音のみだった。もちろん二人の話し声も無い。階段を下り始めたき
り、口を閉ざしている。その沈黙は、二人の気が張り詰めていることを物語っていた。
階段は、幅一メートル、高さ二メートル程度の窮屈な作りだった。二人が横に並んで進
むのは困難だったので、話し合いの結果、翔が先頭を歩き、武が後ろに続く形となった。
階段の狭さから階段の作りのほうも乱雑なのではと思われたが、そちらの方は意外なこと
にしっかりとしていた。左右と天井の壁は剥き出しの土ではなく、きちんとコンクリート
で固められているし、ひびも入っていない。その作りは、言うなれば階段として使用する
上で最低限必要な幅、高さ、機能、強度だけを残した作りだった。
二人は常に緊張を維持したまま歩を進めた。湿度のせいか、武の懐中電灯を握る手は妙
に汗ばみ、気を抜くと落としそうになった。武はその度にTシャツで手の平を拭い、神経
を研ぎ澄ました。
階段を六メートルほど下った頃、どちらかの懐中電灯の光が階段の終点を捉えた。あと
数メートル下ったところで、階段は終わりを迎えている。
「見ろ、もうすぐ階段が終わる」
武の、地下へ降りてからの第一声だった。
「うん。しかしこの先何が待ち受けているかわからない。引き続き、注意して進もう」
翔が注意を喚起する。何しろ全てが未知の場所ゆえ、何処にどのような危険が潜んでい
るかわからないのだ。桂木奈緒の手紙によれば、彼女はこの地下で、“奇怪で恐ろしいも
の”を目撃したらしいではないか。その得体の知れぬ恐怖が二人の頭の中にあり、嫌でも
警戒せざるを得なかった。
ややあって、二人は階段を下り終えた。とりあえずは無事に階段を下り終えたことに安
堵し、人心地付く。しかしそれもつかの間、直ぐに進行方向にまだ通路が続いていること
に気づいた。
「……今度はまっすぐか」
直線的な通路が一本、奥へと伸びていた。翔が電灯の明かりを前方にかざす。しかし光
は途中で闇にかき消され、突き当たりを捉えることはできなかった。どうやら通路はずい
分と奥まで続いているようだ。
「どうやら道は、この一本だけらしいな」
「うん。それにしても、先が見えない……最深部まで、あとどれくらいの距離があるん
だろう」
翔はそう言い、額の汗を拭った。照らし出された影が、それに合わせて動く。
「意外ともうすぐかもよ。この地下を作った人が、桂木奈緒の見た“何か”を隠すため
だけに地下を掘ったんだとしたら、通路を無駄に長くするなんて無意味なことはしないと
思う」
武は地下を開設した人間の立場に立って考えた意見を述べた。割と説得力のある意見に、
翔も納得したような顔をした。
「確かにそうだな……。そうとなれば、早速本丸目指して出発だ」
わずかながら気力を回復した二人は、再び通路の奥へ向かって歩き出した。
先の発言などから、比較的落ち着きを保っているかのように見える武だが、実は先ほど
から、恐怖や不安からくる緊張、窮屈さによる圧迫感などで、胃がきりきりと痛むのを感
じていた。できることなら今すぐにでも地上に戻りたい。しかし、武はここで引き返す訳
にはいかなかった。桂木奈緒が見た“何か”を、武は自身の目で確かめると心に決めたの
だ。今ここで引き返しては、苦労してここまで辿り着いた意味がなくなってしまう。言う
なれば、手紙の謎を明かすという使命感がだけが、今の武を突き動かしていた。
「なあ、桂木奈緒が見た奇怪で恐ろしいものって、何だと思う?」
藪から棒に、翔が質問した。二人の間で何度も話題に上がった疑問だ。しかし手紙の文
だけではさっぱりなので、直接見て確かめようという結論に至ったはずだ。
「さあ。奇怪で恐ろしいものってだけじゃあなんとも……」
「なあ、地底人やUMAってことはないかな?」
普通なら口にするのを躊躇いそうな事も、翔は恬として発言する。実を言えば、同じよ
うな事を武も一度は考えた。しかしあまり現実的な話ではないので、早々に候補から除外
していた。
「いや、無いだろう。仮にそうなら、とっくに桂木奈緒が公にしてるはずさ。それでも
って今頃は、新聞やニュースがその話題で持ちきりだ。でも実際はどうだ? どこかの村
で地底人が発見されましたなんて話、ちっとも聞かないだろ。つまりはそういうことさ」
武がもっともらしい事を言って、翔の意見を切り捨てる。しかし翔も、負けじとそれに
反駁する。
「警察やマスコミに相手にされなかっただけかもよ。地底人を発見しましたなんて話、
信じる人のほうが稀だ」
少々苦しい主張だったが、武は少し考え、翔の意見にも一理あると思った。武も、事情
を知らぬ状態で誰かに『地底人を発見した』などと言われたら、まず初めにその人間の精
神状態を疑うかもしれないと考えたからだ。
「うーん……可能性は無きにしも非ず……」
「だろ? もしこの話が本当なら、世紀の大発見だぜ。そうなれば、地底人の第一発見
者ということで俺たちは一躍有名人だ。それでテレビに出ちゃったりなんかして、それか
ら――」
そこから翔は、自分の予想する未来を嬉々として語り続けた。すでに自分の想像が真実
だと信じきっているようだ。後ろを歩く武からは、その時の翔の表情を確認することはで
きなかったが、翔が満面の笑みを浮かべている様は容易に想像できた。
「夢があって大いに結構。でも正確には、第一発見者は桂木奈緒だということを忘れる
な」
夢中で語る翔に武が口を挟む。しかしその言葉はもはや、翔の耳に届いてはいないよう
だった。武は空いているほうの手で頭をかいた。けれども、翔のおかげで武の緊張は大分
和らいでいた。こんな時でも楽天的に振舞える翔の性格に、武はひそかに心の中で感謝し
た。恐らく翔という存在がいなければ、武がここまで来る事はできなかっただろう。そん
なことを思いながら通路を歩き始めて二十メートルほどの地点に来た時、電灯の明かりが
ついに通路の突き当たりを捉えた。
「おい見ろ、扉だ!」
武は立ち止まり、弾んだ声を出した。自分の世界に入り込んでいた翔も、武の一言で我
に帰り、前方を見遣った。
「本当だ! やっと終点か? それともまだ続くんだろうか」
電灯の光が二つとも通路の奥へと注がれた。ぼんやりとだが、暗闇の奥に扉らしき物が
確認できる。二人はそこに目標を定め、再び歩き出した。
先ほどまで弛緩していた空気が、一転して緊張を帯びる。そのせいか、二人はまたもや
口を閉ざしていた。黒い影が足音だけを残して進んでいく。扉との距離はみるみる縮まっ
いき、やがて二人は扉の前に到達した。
「さて……何の扉だ」
それは何の変哲も無い、金属製の片開き戸だった。表面は淡いベージュ色に塗装されて
いて、所々ペンキが剥げた部分は、錆が浮いていた。
「鍵がついていないから、このまま開けられそうだな。この先はどうなってるんだろ
う」
そう言うと、翔は扉に片方の耳を当て、扉の向こうに耳を澄ました。十数秒そうしてか
ら耳を扉から離すと、渋面を浮かべて首を左右に振る。
「ダメだ、何も聞こえない。さてどうする」
翔が武に意見を仰ぐ。武は少し考えるそぶりを見せた後、口を開いた。
「どうせ進むんだ。開けてみるよ」
武はここで立止っていても仕方がないと考え、扉を開けることを提案した。翔はその提
案に特には反対せず、頷いて了承の意を伝えた。
「わかった。ただ、開ける時は慎重にな」
武は翔の忠告に頷き、扉のノブに手を掛けた。ノブを捻り、静かに扉を前に押し出す。
金属の擦れ合う鈍い音と共に、扉がゆっくりと動き出した。すると、僅かに開いた隙間か
ら、内部の灯りがこちら側に漏れ出した。
「……! 青い光だ」
なんと扉の向こうから、青色をした光が漏れ出した。それは舞台などで使われる青いス
ポットライトの様な光だった。その不気味な青白い光を見て、武は一旦ドアを押す手を止
めた。
「一体何だろう……翔、わかるか?」
二人の間に、一瞬にして警戒の色が広がる。武の問いかけに、翔は険しい表情を浮かべ
た。
「……わからないけど、中に何かあることだけは確かだ。どうする? このまま進む
か?」
翔が武に選択を迫る。それは言外に、ここで引き返すかどうかを問うていた。しかし武
の答えは、心うちですでに決まっている。
「翔、お前はここで待っててくれ。ここから先は、俺一人で行く」
武にここで引き下がるという選択肢はない。何があろうと前進あるのみだ。しかし友人
まで未知の危険に晒すことはできない。よって武は翔をここに残し、一人で扉の向こうに
赴こうと考えた。
「おいおい、俺は引き返すなんて言った覚えは無いぜ。俺はただ、お前の覚悟が知りた
かっただけさ」
翔はそう言い、不敵に笑って見せた。どうやら揺るがないものを持っていたのは、武だ
けではないようだ。二人は顔を見合わせる。お互いのその目が、先に進む決意があること
を雄弁と物語っていた。
「よし、開けるぞ」
武は再び扉に手を掛けた。未知への怯えなどはすでに消えていた。ここからは先は、た
だ全てを受け入れるだけだ。そして今度は躊躇などせず、一気に扉を開け放った。