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その日の放課後、武は自宅への帰路を歩いていた。道程も残りわずかで、数分歩けば我
が家である。その道中、武宅のすぐ近所にある、「桂木」という表札を掲げた一軒の家に
通りかかった。桂木奈緒と同じ姓を持つ人の家である。
この桂木家には一組の夫婦が住んでいる。武が母から聞いたところによると、残念なが
ら夫婦のどちらも奈緒という名ではないらしい。また、桂木夫婦はどちらかの両親と同居
しているというわけでもなく、子供もいない。近隣ということで、沢木家と桂木家は頻繁
に交流のある親しい間柄だったが、武の家族の中で、桂木家に親類らしき者が訪ねてきて
いる所を目撃した者はいなかった。そういうわけで、桂木奈緒が桂木家の親戚の者である
という可能性も考えにくい。
以上の点から、武は桂木家の人物と桂木奈緒はまったくの無関係であると結論付けてい
た。
武が何とはなしに桂木家を眺めていると、突然何者かが声を掛けた。
「あらたけちゃん、こんにちは。何かご用?」
武が声の掛けられた方向へ振り向くと、一人の女性が買い物袋を手にぶら下げて立って
いた。それは桂木家の嫁で、武がおばさんと呼んで慕っている人物だった。名は桂木奈美
『かつらぎなみ』という。印象的である、柔和な笑みを浮かべていた。
「こんばんはおばさん。別におばさんの家に用があったわけではないんです」
「あらそうなの。そんなところにボーっと立ってるから、何か用があるのかとおもっち
ゃた。どう? 学校は楽しい?」
「ええまあ、それなりに楽しくやってます。成績のほうは相変わらずですが」
「あらあら。そういえば、もう直ぐ夏休みかしら? でも遊んでばっかりじゃダメよ。
学生の本分は勉強なんだから」
「おばさん何だか僕の母親みたいなこと言いますね」
「あらごめんなさい。ふふふっ」
――それからしばらく、二人のとりとめもない世間話が続いた。そして話題が尽きかけ
た頃、武が切り出した。
「あの、おばさん。変なこと聞きいていいですか?」
「なにかしら?」
武は少し考えて、例の手紙の件について聞いてみることにしたのだ。
「小母さん、カツラギナオって名前に心当たりありませんか?」
「カツラギナオさん? うーん、初めて聞く名前ね。知り合いでそういう名前の人はい
ないし、同じ桂木って苗字だけれども、親戚にもそんな名前の人はいないわね。いったい
どういう方なの?」
「あ、知らなければいいんです。気にしないでください。実際に存在するかもわからな
い人物ですから。すみません、いきなり変なこと聞いて」
「うーん……よくわからないけど、力になれなくてごめんね。お父さん帰ってきたら、
聞いてみようか?」
「いえ、大丈夫です。そんな大事な話じゃないですから。それじゃあ僕、これから用事
があるので帰りますね。変なこと聞いて、本当にすいませんでした」
武は無い用事があると嘘を言った。無論、これ以上この話題を広げられる前に、会話を切
り上げるためである。
「あら、用事があったのね。私ったらそんなことつゆ知らず長話しちゃって、ごめんね。
ああそうだ、この前頂いたメロン、お母さんにおいしかったって伝えておいてね」
「はい、伝えておきます。では」
桂木奈美の笑顔に見送られ、武は再び歩き出した。
武は後悔していた。どうして桂木奈美に、桂木奈緒について訊いたのか。尋ねた結果が
どうなるか、予想できたはずだ。それでも訊いてしまったのは、単に話の間を繋ぐためか。
それとも、無意識にしろ武にはなんらかの思惑があったのか。
よこされた返答は予想通りなのに、武は何故だかひどく寂しく思った。そして話中、ま
た例の違和感。その不快な違和感は、その後の道中も武の中に嫌らしく纏わりついた。