「古文書の読めない聖女など不要だ」と追放されました。――では、世界樹の根の《契約書》、十二年ぶりに原文で読み上げますね? ~前世図書館司書の聖女は、原典にしか従いません~
「セラフィーナ。お前との婚約を破棄する」
大神殿の《根の間》。
世界樹ヴェルドナの根が天井を突き破り、床を割り、祭壇ごと呑み込んだこの聖域で、王太子エイリーク・リーヴェン殿下はそう仰いました。
「古文書も読めぬ聖女など、もう不要だ」
金褐色の髪。彫りの深い美貌。剣も政務もそつなくこなす、よくできた王子様。
その隣には、蜂蜜色の巻き毛の少女が立っております。
新しい聖女候補、ミリア様。
神託で選ばれたという、十七歳。
「樹の声が、聞こえるんです」
ミリア様は胸の前で手を組み、潤んだ瞳で頭上の根を見上げました。
「根の文書に手をかざせば、内容が、感じ取れます。文字なんて読まなくても、樹が直接教えてくださるんです」
周囲の神官たちが、ほう、と感嘆の息を漏らします。
(——手をかざして感じ取る)
(羊皮紙は、感じ取られても何も申しませんが)
私は深く息を吸いました。
吐きました。
十二年。
私はこの神殿で、第十七代《根守りの聖女》を務めてまいりました。
仕事は三つ。
根の湿度を測ること。
樹液を汲み、文書の劣化を止めること。
毎朝、同じ祈祷文を唱えること。
地味です。
華がありません。
奇跡も起きません。
そして私は一度も、「《根典》が読めます」と公言したことがございません。
「十二年だ、セラフィーナ」
殿下が、重そうに言葉を継がれます。
「お前は努力した。それは認める。だが、お前は一度たりとも、根の文書を読んでみせたことがない。民の前で奇跡を示したこともない。——聖女とは、樹の声を聞き、民に希望を見せる者だ。祖父の代から、そう決まっている」
(三代前からの運用で原典を上書きするのは、やめていただきたいのですが)
壇上から、大神官ヘルム・オーベリン様が柔らかく微笑まれます。
銀髪を美しく整えた、民に慕われる温厚な老人。
「おお、セラフィーナ殿。お勤め、ご苦労であったな」
(十二年。この方が私の名前以外に覚えていることは、たぶん何もありません)
「地下の古紙どもは、もはや劣化して読める状態ではない。そなたのような実直な娘を、暗い場所に長く置いてしまった。これは解放でもあるのだよ」
解放。
なるほど。
私は祭服の裾を整えました。
作業用の前掛けが、しゃらりと鳴ります。腰に吊るした湿度計、計量匙、小刀。聖女らしさは、この十二年で完全に死滅いたしました。
指先は、インクと樹液で茶色く染まっております。
落ちないのです、これ。
「——かしこまりました」
私は、深く一礼いたしました。
「では、本日分の《根典》写本業務は、本日をもって終了といたします」
「……は?」
「地下第三層の湿度は現在、四十八パーセント。本日朝の計測値でございます。樹液の在庫は小瓶で十一本。次の補充は七日以内が望ましく、第三十一巻から第三十四巻は縫合糸の張力が落ちておりますので、三月以内の再綴じをお勧めいたします」
「待て、何の話を——」
「引き継ぎでございます」
私は顔を上げ、微笑みました。
「後任の方に、お伝えくださいませ」
沈黙が落ちました。
ミリア様が、ぱちぱちと瞬きをなさいます。
殿下が、わずかに眉を寄せられます。
(——十二年)
(誰も、あの地下に一度も降りてこなかったくせに)
地下三十段。
たった三十段です。
王宮の階段より短い。
それでも、誰も降りてこなかった。
「下がってよろしいでしょうか」
「……ああ」
「失礼いたします」
私は踵を返しました。
背後で、ミリア様の鈴のような声がいたします。
「あの方、泣かなかったですね」
大神官様が穏やかに答えます。「感情の薄い娘でな」
(感情はございます)
(ただ、今は記録の整理で手一杯なだけで)
前世の私は、国立図書館の古典籍保存修復員でした。
くずし字の翻刻と、劣化した紙と羊皮紙を百年持たせるのが仕事。
残業帰りの深夜、書庫の脚立から落ちて死にました。
転生して、この国の神殿に入って、地下に降りて、十二年。
私が気づいたことは、たった一つです。
——この国の誰ひとり、《根典》を原文で読んでいない。
神官が使っているのは、三百年前に作られた《簡約訳》。
削られた条文があり、誤訳があり、そして。
原文に存在しない一文が、加筆されている。
『聖女は王家に従属する』。
私は十二年かけて、七十八巻すべてを翻刻いたしました。
劣化を止め、差異を取り、一冊の帳面にまとめました。
『原文と簡約訳の差異一覧・三百十二箇所』。
誰にも言わなかったのは、信じてもらえないからではありません。
——訂正は、権限のある者が求めたときに出す。
それが、司書の流儀だからです。
そして今。
この国で最も権限のあるお方が、はっきりと仰いました。
「お前は不要だ」と。
私はもう、神殿の守秘義務の外におります。
《根の間》の扉を閉める直前。
私は最後に一度だけ、頭上の巨大な根を見上げました。
乾いています。
(——三日。もって、三日ですね)
扉が、音もなく閉まりました。
◇ ◇ ◇
荷物は、すぐにまとまりました。
私物は帳面が一冊。
革表紙のすり切れた、十二年分。
祭服は神殿のもの。湿度計も神殿のもの。計量匙も神殿のもの。
全部、机の上に並べて置きました。
(返却物リスト、作成済み。これで備品の紛失責任は発生いたしません)
地下三十段。
最後に降りるつもりはありませんでした。
でも、降りました。
石の階段は冷たく、壁は湿り、下へ行くほど空気が重くなります。カビの匂いと、樹液の甘い匂いと、羊皮紙の古い匂い。
私の十二年の匂いです。
一番下の段に、少年が座っておりました。
「セラ様」
ルゥ。十三歳。
下働きの少年です。髪はいつも粉だらけで、左の頬に焼き窯の火傷の痕があります。
膝の上に、布包みを抱えていました。
「あの、これ、まだ温かいんで」
樹実パン。二つ。
六年間。
彼が働き始めてから六年、毎朝ずっと、この三十段を降りてきた唯一の人間です。
神官たちは笑いました。「あの陰気な女のところへ行くのか」と。
ルゥはそのたび、こう返していたそうです。
「セラ様はパンの礼を、毎朝ちゃんと言ってくださる唯一の方です」
私は布包みを受け取りました。
温かい。
「ありがとうございます、ルゥ」
「っ……」
少年の顔が、ぐしゃりと歪みました。
「セラ様がいないと」
声が震えています。
「セラ様がいないと、樹の根、誰が見るんですか」
(——それです)
(それが、唯一の正しい質問です、ルゥ)
王太子殿下は訊きませんでした。
大神官も訊きませんでした。
新しい聖女様も訊きませんでした。
誰も、「お前がいなくなったら何が止まるのか」を訊かなかった。
訊いたのは、文字も満足に書けない十三歳の下働きだけです。
私はしゃがみ込み、粉だらけの頭を撫でました。
「ルゥ。よく聞いてください」
「……はい」
「これから先、神殿で何かが壊れても、それはあなたのせいではありません」
「えっ」
「壊れるのは、壊した人のせいです。記録しておいてください。誰が何を命じ、誰が何をやめたのか。書けなければ、覚えておけばいい」
「セラ様、それって——」
私は立ち上がりました。
「もう我慢しません」
静かに、はっきりと申し上げました。
「そして——もう、助けません」
十二年。
毎朝、祈祷文を唱えました。
誰も意味を訊かなかったので、誰にも説明しませんでした。
あれはただの慣習ではありません。
根の魔力循環を整える《制御詠唱》です。原典第十一巻、七行目から二十三行目。
簡約訳では、『朝の感謝の言葉』と訳されております。
(感謝ではありません。制御です)
(三百年、誰も原文を見なかった結果です)
「ルゥ。もし誰かが地下に降りてきたら、こう伝えてください」
「は、はい」
「『湿度は、四十八です』と」
「……しつど、よんじゅうはち」
「それだけで結構です。意味は、いずれ誰かが調べます」
私は階段を上りました。
三十段。
短い階段です。本当に。
振り返ると、ルゥが泣きながら手を振っていました。
私は手を振り返し、それから二度と振り返りませんでした。
◇
王都を出て、馬車で九日。
辺境の町エルドの、写本工房《鉄葉亭》。
給金は銀貨十二枚。
聖女の俸給の、二十分の一です。
「……字が、小さいな」
雇い主が、私の試し書きを覗き込んで唸りました。
身の丈六尺五寸。顔面を斜めに走る古傷。右腕は肘から先がありません。無言で立っているだけで新入りが泣く、という噂の男。
ヴァルド・ケーレン。
元・王国最強と謳われた竜騎士。
「小さいが、揃ってる。行間が死んでない。——インクは何を使った」
「工房の棚の、左から三番目のものを」
「あれは没食子酸が多い。半年で紙を食う。こっちを使え」
彼は左手一本で、インク壺を押し出しました。
「……お詳しいのですね」
「鉄の比率が二割を超えると紙が焼ける。樹液を一滴垂らすと食いが止まるが、乾きが遅くなるから冬は不向きだ。最近は北方の樫を使った煮出しが——」
三時間、止まりませんでした。
(インクの話を三時間できる人間が、この世にいた)
(前世の職場にもいなかったのに)
私は、初めて「自分のために」文字を写す日々を始めました。
誰にも感謝されない仕事ではありません。
銀貨十二枚分、きっちり感謝される仕事です。
給金が出た日の夜。
窓際で、固いライ麦パンを齧りながら、私は帳面を開きました。
『原文と簡約訳の差異一覧・三百十二箇所』。
(さて)
最初の頁に、私は新しい日付を書き入れました。
『貸出可否:未定』
——世界樹の葉が黄変を始めたという報せが辺境に届いたのは、その十九日後のことでございます。
◇ ◇ ◇
神殿が最初に気づいたのは、匂いだった。
地下三十段。
一番下から立ちのぼる、酸っぱいような、埃っぽいような、甘い腐敗の匂い。
「……なんだ、これは」
エイリークが松明を掲げて降りたのは、セラフィーナが去って四日目の朝だった。
生まれて初めて降りた、三十段。
「殿下、おやめください。お召し物が」
「構わん」
最下層の文書庫。
整然と並ぶ七十八の木箱。その蓋が、白く曇っている。
箱を開けた。
羊皮紙の表面に、灰緑色の綿のようなものが浮いていた。
「……カビ、か」
神官の一人が震え声で答えた。「三日で、ここまで……」
「三日だと? 三百年保ったものが、三日で?」
「そ、それが、その」
「誰が管理していた」
「……セラフィーナ様が」
沈黙。
壁の柱に、鉄の釘で打ちつけられた小さな板がある。
そこに、十二年分の数字が彫られていた。
四八、四八、四七、四八、四八、四九、四八——
気の遠くなるほどの数字の列。
毎朝、一つずつ。
最後の数字で、列は途切れている。
「……これは、何の数字だ」
誰も答えられなかった。
◇
異変は、地下だけでは終わらなかった。
六日目、ヴェルドナの最上層の葉が黄ばんだ。
十日目、黄ばみは中層まで降りた。
十四日目、王都近郊の麦畑が、理由もなく立ち枯れた。
樹神国リーヴェンの魔力も、農作物も、天候も、すべては樹の根から汲み上げられている。
根が澱めば、国が澱む。
「ミリア」
王宮の一室で、エイリークは聖女候補の肩を掴んだ。
「樹の声は、何と言っている」
「……え」
「聞こえるのだろう。お前には」
蜂蜜色の巻き毛の少女は、唇を震わせた。
「あの、その、たぶん、樹は、お怒りで……民の信心が足りないと……」
「信心」
「は、はい」
「葉の黄変は信心の問題なのか」
「——わかりません!」
ミリアは叫んだ。それは、生まれて初めて口にした本当のことだった。
「わかりません、わたし、本当は、何も……! 神官様が、こう言いなさいって、紙を渡してくださって、それを覚えて、言ってただけで……!」
エイリークは、手を離した。
◇
大神官ヘルムは、最後の手段を命じた。
《根典》第一巻。
《大枯渇の対処法》が記されているという、最古の一巻。
それは、開かなかった。
表紙に封はない。錠もない。糸も切れていない。
ただ、頁が互いに吸いついたように、びくとも動かない。
「力づくで開けろ!」
「なりません! 破れます!」
「ならばどうしろと言うのだ!」
「——《開封詠唱》が、あるはずです」
神官たちは《簡約訳》を漁った。
三百年、彼らが拠って立ってきた唯一の写本。
該当する記述は、一行だけだった。
『第一巻は、正しき時に開く』
正しき時とは何か。
詠唱の音はどこにあるのか。
簡約訳には、音が記されていない。
訳とは、音を捨てて意味だけを拾う作業だからだ。
「……大神官」
エイリークの声は、低かった。
「原典は、どこだ」
「は?」
「貴殿は言った。地下の古紙は劣化して読めぬ状態だと。——読めぬのか、読まなかったのか、どちらだ」
「殿下、それは言葉の綾というもので——」
「十二年だ」
エイリークは窓の外を見た。
黄ばんだ巨大な樹が、空を覆っている。
「あの女は、毎朝、何をしていた?」
答えられる者は、神殿に一人もいなかった。
◇
ただ一人、答えを持っている人間がいた。
厨房の隅で、下働きの少年が、ぽつりと言った。
「湿度は、四十八です」
「……何だと?」
「セラ様が、そう伝えろって。それだけでいいって」
ルゥは、粉だらけの手を握りしめた。
「意味は、いずれ誰かが調べますって」
神官が少年の胸倉を掴んだ瞬間、彼は初めて大人に向かって声を張り上げた。
「あの人の報告書、どこですか!」
「は?」
「セラ様、毎月、報告書を出してました! 十二年、ずっと! 僕が運んでたんです、大神官様の部屋まで!」
沈黙が落ちた。
大神官ヘルムの執務室。
書棚の最下段、奥の木箱。
そこに、麻紐で束ねられた書簡が積まれていた。
百四十四通。
すべて——封が、切られていなかった。
エイリークは、一通を手に取った。
指が震えていた。
封を切る。
『第百四十四号報告 根層湿度ならびに第一巻開閉条件に関する件』
冒頭の一行に、こう書かれていた。
『第一巻は詠唱では開きません。湿度四十八にて自然に開きます。未開封の報告書が百四十三通ございますが、ご確認いただけておりますでしょうか』
「……俺は」
エイリークの膝が折れた。
「俺は、何を見ていたんだ」
窓の外で、また一枚、黄色い葉が落ちた。
◇ ◇ ◇
その日、工房の扉を叩いたのは、泥だらけの少年でした。
徒歩、十一日。
靴は片方ほとんど無くなっていて、足の裏は血で固まっていました。
「セラ様」
ルゥは、布包みを両手で差し出しました。
「あの、これ、もう、温かくないんですけど」
樹実パン。二つ。
私は、何も言えませんでした。
前世を含めて四十年以上生きて、私は言葉を扱う仕事ばかりしてきましたのに。
翻刻も、校訂も、目録も作れますのに。
この時だけは、何も出ませんでした。
「……冷たいパンも、好きです」
ようやく出たのが、それでした。
「ほんとですか」
「ええ。冷えると、樹実の甘みが締まりますから」
ルゥが、泣きました。
声を上げて、十三歳らしく。
厨房からヴァルドが出てきて、少年を見下ろし、無言で肩に担ぎ上げ、湯の張った桶の前に下ろしました。
「足を洗え。飯は後だ」
「は、はいっ」
「——それと」
彼は私を振り返りました。
「客が来るぞ。街道に、王都の紋章の馬車が三台」
◇
王太子エイリーク・リーヴェン殿下。
聖女候補ミリア様。
大神官ヘルム・オーベリン様。
三人が、辺境の写本工房の前に立っておりました。
半年ぶりでございます。
殿下は痩せておられました。目の下の隈が、生まれつきのもののように濃い。
「セラフィーナ」
「お久しぶりでございます、殿下」
「戻れ。お前が管理していた文書が、開かないのだ」
(挨拶が「戻れ」)
「国が枯れる。頼む」
「頼む、と仰いました?」
「頼む」
王太子が、頭を下げました。
驚くべきことでした。この方は、そういうことができる方だったのです。
できる方が、十二年、しなかった。それだけのことです。
私が口を開きかけたとき。
——どん、と空気が重くなりました。
六尺五寸の体が、扉の前に移動しておりました。
「——この工房の主は俺だ」
ヴァルドの声は、低く、静かで。
護衛の騎士たちが、揃って半歩下がりました。
「職人への面会は、予約が要る」
「無礼な。相手は王太子殿下であられるぞ!」
「元・第三竜騎士団長、ヴァルド・ケーレンだ」
「……っ」
騎士たちの顔色が変わりました。
「だが今は、ただの写本屋だ。——うちの職人は、今、第四十巻の校合中でな。中断させるなら、それ相応の理由が要る」
「国が枯れているのだぞ!」
「ならなおさらだ。急ぐ仕事ほど、順番を守れ」
(この方、たぶん今、めちゃくちゃ怒っていらっしゃいます)
(インクの配合を語るときと声が同じなので分かりにくいのですが)
ヴァルドは、首だけ振り返りました。
「——で、お前はどうする」
私に訊いたのです。
王太子でも、大神官でもなく。
(ああ)
十二年と半年。
私の仕事について、私の意思を訊いたのは、この人が二人目です。
一人目は、十三歳の少年でした。
「……お通しください」
私は前掛けで手を拭き、インクの染みた指を布で包みました。
「ご説明すべき点が、三点ございます」
◇
作業台の上に、私は一冊の帳面を置きました。
革表紙のすり切れた、十二年分。
「まず一点目」
私は、湿度計を帳面の横に並べました。
「《根典》第一巻が開かないのは、封のせいではございません」
「……何?」
「あれは、『樹の呼吸に合わせて開く』文書です。羊皮紙は湿気を吸うと膨らみ、乾くと縮みます。第一巻は七十八巻の中で最も薄く、最も古い。湿度が四十を切ると、頁同士が吸着して開かなくなります」
「吸着……」
「十二年間、私が毎朝、地下の湿度を四十八に保っていたからこそ、あれは開いておりました」
殿下の唇が、わずかに動きました。
「——では、お前は、毎朝……」
「樹液を汲み、湿気を足し、換気孔を開閉しておりました。所要時間は約二時間。三十段を降りて、二時間です」
「……二時間」
「《開封詠唱》などというものは、最初から存在いたしません」
大神官ヘルム様が、慌てて口を挟まれます。
「ま、待ちなさい。簡約訳には『正しき時に開く』と——」
「原文では『樹の息に合うとき開く』でございます。『息』が『時』に誤訳されております。原典第一巻、序の三行目。差異一覧、十七番」
私は頁をめくりました。
「二点目」
「っ」
「《簡約訳》には、原文にない一文が加筆されております」
部屋の空気が、止まりました。
「『聖女は王家に従属する』。——原典第三巻、該当行にはこう記されています」
私は、原文の音のまま読み上げました。
十二年、毎朝、地下で復元した発音で。
「——『樹を読む者は、王に属さず、樹に属す』」
殿下が、一歩、後ろによろめかれました。
「つまり私は、最初から婚約を破棄される立場ですらございませんでした」
「……なん、だと」
「あれは、私からお断りできる契約だったのです。十二年前から、ずっと」
「そんな……」
ミリア様が、床にへたり込まれました。
「だって、神官様が……聖女は王家のものだって、ずっと、そう……」
「ええ。そう書き換えられた写本を、三百年、皆様が読んでこられましたので」
私は大神官様を見ました。
この方だけは、顔色が変わっておりません。
白いまま、固まっている。
「——セラフィーナ殿」
粘るような敬語が、絞り出されました。
「原典というものはな。解釈されて、初めて意味を持つものだ。古代の文言をそのまま民に与えれば、混乱を招く。我らは三百年、この国を——」
「解釈する前に」
私は、静かに申し上げました。
「読んでいただく必要がございます」
「……っ」
「解釈は、読んだ者の権利です。読まずに決めたものは、解釈ではなく、創作でございます」
沈黙。
私は、帳面の最後の束を開きました。
「——そして、三点目」
帳面を、作業台の上で百八十度回転させました。
読む側に、向けて。
「原文と《簡約訳》の差異は、三百十二箇所ございます」
「——三百、十二」
「誤訳が百八十四。脱落が九十七。加筆が三十一。そのうち、国の存亡に直接関わるものが、百九箇所」
エイリーク殿下が、帳面に手を伸ばし——触れる寸前で、止めました。
指が震えています。
「……《大枯渇の対処法》は」
「第一巻、裏表紙の内側に記されております」
「裏……?」
「表紙裏は、最も劣化しにくい場所です。古代の書記は、最重要事項をそこに書きます。——簡約訳の編者は、おそらく表紙裏を見ておりません」
「では、簡約訳の『大枯渇の章』は」
「本文中の別の記述を、それと誤認したものでございます」
私は頁をめくりました。
差異一覧、二百七番。
「簡約訳ではこうなっております。——『大枯渇に際しては、王族の血を根に捧げよ』」
ミリア様が、ひっと息を呑みました。
殿下の顔が、白を通り越して灰色になっております。
「……そうだ。神殿は、それを提案してきた」
「存じております。十九日前の王令、辺境まで伝わっておりますので」
「俺は、了承した」
「でしょうね」
「……三日後に、儀式の予定だった」
(三日後)
私は、思わず深く息を吐きました。
「——危ないところでございました」
「何?」
「原文を、読み上げます」
私は、第一巻の該当行の音を、復元したまま唱えました。
十二年間、毎朝の祈祷文と同じ音階で。
地下三十段で、誰にも聞かれずに積み上げた、十二年分の音です。
唱え終えて、私は訳しました。
「『大枯渇に際しては、王族、三年、根を掃え』」
「…………」
「『血』ではございません。原語の『ヴェルナ』は、『血』と『労』の両方を意味します。語尾の子音が一つ違うだけです。三百年前の編者は、おそらくそこを読み違えた。あるいは——」
私は、大神官様を見ました。
「——『血』と訳した方が、神殿の権威が高まると判断したか」
「わ、私ではない! 三百年前の話だ!」
「ええ。ですから、あなたの罪は加筆ではありません」
私は、別の束を取り出しました。
麻紐で縛られた、見覚えのある書簡の束。
ルゥが、王都から十一日かけて運んできたものです。
「——未開封の報告書、百四十四通。あなたの罪は、これです」
大神官ヘルム・オーベリン様の膝が、音を立てて折れました。
「訂正の機会は、百四十四回ございました」
私は、静かに申し上げました。
「私は、訂正を押し売りはいたしません。訂正は、権限のある者が求めたときに出すものです。——ですが、あなたは一度も、求めなかった」
「封を切るだけで、よかったのです」
「…………」
「十二年。三十段。封一つ」
(本当に、それだけでよかったのです)
私は帳面を閉じ、殿下に向き直りました。
「ご指示を仰ぎます、殿下。《大枯渇の対処法》、原文の通りでよろしゅうございますか」
「……王族が、三年、根を掃除する」
「はい」
「それだけで、樹は戻るのか」
「根の澱みの原因は、糞土と菌糸と、落ち葉の堆積です。三年分、溜まっております。湿度管理と並行して、人の手で掻き出すほかございません」
「人の手で」
「はい。——魔法では落ちません。試しましたので」
殿下は、長い間、黙っておられました。
そして、顔を上げて。
「……誰がやる」
「原文には、こうございます」
私は、最後の一行を読み上げました。
「『王族、三年、根を掃え』」
「王族」
「はい」
「……俺、か」
「血ではなく、労働です」
私は、深く一礼いたしました。
「どうぞ、お励みくださいませ」
◇
静寂のあと。
工房の隅で、ごとり、と音がしました。
ヴァルドが、インク壺を取り落としたのです。
「……すまん」
「いえ」
「あの、だな。セラフィーナ」
「はい」
「お前、今の原文の音、第十一巻の祈祷文と同じ音階だったな」
「——お気づきになりました?」
「同じ書記の手だ。息継ぎの位置が同じだった」
(この人)
(今、国家の存亡より先に、書記の筆癖の話をしている)
私は、思わず笑ってしまいました。
十二年と半年ぶりの、ちゃんとした笑いでした。
◇
帰り際、ミリア様が、私の前に立たれました。
巻き毛が、涙でべたべたになっています。
「あの」
「はい」
「わたし、樹の声、聞こえません」
「存じております」
「……ずっと、嘘をついてました」
「ええ」
「でも」
十七歳の少女は、拳を握りました。
「読めるようになりたいです」
私は、少し驚きました。
「——地下は、カビの匂いがいたしますが」
「怖いです。でも、行きます」
「古代文字は、活字一つ覚えるのに三日かかります」
「三日でいいんですか」
(この子、意外と芯があります)
私は、帳面から一枚、頁を切り離しました。
差異一覧の、最初の一頁。
「写してください。原本は渡しません。貸し出しもいたしません」
「えっ」
「——写本とは、そういうものです。自分の手で写した分だけが、自分のものになります」
ミリア様は、その紙を両手で受け取り、胸に抱えました。
馬車に乗り込む前、彼女は後ろで巻き毛を束ねました。
邪魔だったのでしょう。
◇
三台の馬車が、街道の向こうに消えていきます。
隣で、ヴァルドが呟きました。
「……お前、国を一つ買えるぞ。その帳面で」
「売りません」
私は答えました。
「貸し出します。期限は二週間です」
彼は、しばらく黙っておりました。
それから、小さく。
「——貸出期限は、守れよ」
「当然でございます。延滞には、相応の措置がございますので」
「どんな」
「もう一度、最初から読んでいただきます」
ヴァルドが、初めて声を上げて笑いました。
古傷の走る顔が、くしゃりと崩れて。
(ああ、この人、笑うと仔犬の挿絵を見るときと同じ顔をするんですね)
◇ ◇ ◇
一年後。
辺境の町エルドに、小さな建物が一つ建ちました。
《根典図書館》。
入館料、銅貨一枚。
誰でも入れます。読み書きができなくても入れます。
開架の棚には、七十八巻すべての翻刻写本が並んでおります。
原典ではなく、翻刻。原典は樹の下に戻しました。あれは根と一緒に呼吸するものですから。
壁の一面には、大きな板が掲げてあります。
『原文と簡約訳の差異一覧・三百十二箇所』
全文、誰でも読めます。
写すのも自由です。紙は持参していただきますが。
◇
「セラ様」
司書見習いの少年が、梯子の上から声をかけてきました。
ルゥ。十四歳になりました。
相変わらず髪が粉だらけですが、最近はインクの染みも増えました。
「今日の湿度、四十八です。測れました」
「ありがとうございます、ルゥ。記録簿に」
「もう書きました! ほら!」
彼が差し出した記録簿には、たどたどしい数字が並んでいます。
四八、四八、四七、四八——
自分の名前しか書けなかった少年が、一年で、数字と日付と、二十四文字を覚えました。
「あの、それで」
ルゥが、布包みを差し出しました。
「これ、まだ温かいんで」
樹実パン。二つ。
私は受け取り、窓際の席に座りました。
陽が当たります。
地下三十段では、一度も当たらなかった光が、頁の上で白く跳ねています。
「ルゥも座ってください」
「えっ、いいんですか、仕事中——」
「休憩です。記録しておきます。『司書見習い、十五分の休憩を取得』」
「……セラ様、そういうとこ、変わらないですね」
二人で、パンを齧りました。
温かい。
◇
王都からの便りは、月に一度届きます。
大神官ヘルム・オーベリンは、神殿内の全地位を剥奪されました。
断罪のきっかけは、未開封の報告書百四十四通。
「読まなかった」という、たったそれだけの罪状です。
現在は、写字室の最下級の掃除係として、神殿の地下に出入りしているそうです。
三十段を、毎日。
ミリアは、聖女位を自ら返上しました。
今は地下文書庫の写本見習いとして、翻刻帳を書き写しています。
巻き毛は、首の後ろで短く括られているとのこと。
先月、彼女から短い手紙が届きました。
『……第三巻、四十二行目の異綴り、三つ目です。師の見落としを一件、発見いたしました』
(よろしい。それでこそ写本です)
私は赤インクで『確認済。四つ目も探しなさい』と書いて、返しました。
◇
王太子エイリーク・リーヴェン殿下は、根の清掃に従事しておられます。
一年と二ヶ月。残り、一年と十ヶ月。
驚いたことに、逃げておられません。
泥にまみれ、菌糸を掻き出し、樹液を汲み、換気孔を開閉し、黄ばむ羊皮紙に震える日々。
湿度計の針が四十七に落ちただけで、夜中に飛び起きるのだそうです。
先日、殿下からも手紙が来ました。
一枚。短い手紙でした。
『今朝、第一巻が、勝手に開いた。
湿度は四十八だった。
——俺は、何を見ていたんだ』
私は、返事を書きませんでした。
代わりに、《根典図書館》の入館券を一枚、封筒に入れて送りました。
銅貨一枚分の、ただの紙切れです。
(三年経ったら、どうぞ。正面から、銅貨を払ってお越しください)
◇
夕刻。
閉館の鐘を鳴らしたあと、ヴァルドが現れました。
左手に、小さなインク壺を一つ。
「粘度を落とした。細字用だ」
「……また、無言で置いていかれるのかと」
「今日は口で言った」
(進歩です)
彼は、私の机の高さをちらりと見ました。
三度調整されています。全部、無言で。
窓の向きも一度変わりました。これも無言で。
「ヴァルド様」
「何だ」
「来月、原典第一巻の再綴じをいたします。右手が——いえ、手が、もう一つ要ります」
彼は、少しだけ目を見開いて。
「……貸出期限は」
「生涯でございます」
六尺五寸の元竜騎士が、インク壺を取り落としかけました。
◇
その夜。
私は蝋燭を灯し、革表紙のすり切れた帳面を開きました。
十二年分の、私の全部。
最終頁に、新しい記録を書き足そうとして。
——手が、止まりました。
最終頁の、一番下。
覚えのない筆跡が、ありました。
いえ。
覚えがない、のではありません。
——十二年前の、私の筆跡でした。
まだ慣れていない、角のある、少し震えた古代文字。
地下に降りた最初の年の、私の手。
書いた記憶が、ありません。
そこには、こう記されておりました。
『七十九巻目は、まだ根の下にある』
◇
蝋燭の炎が、揺れました。
七十八巻。
それが《根典》のすべてだと、三百年、この国の誰もが信じてきました。
私も、そう翻刻してきました。
(——七十九巻)
階下で、椅子を引く音がします。
背の曲がった小柄な老婆が、白く濁った右目をこちらに向けました。
雑務係のノーナ。本人曰く、年齢は「七十八巻と同じだけ」。
「司書様」
「……ノーナさん」
「あたしの代にはね」
彼女は、左目だけで笑いました。
「七十九巻目の、目録があったよ」
「目録」
「けど、本体は見つからなかった。あたしは古代文字まで届かなかったからねえ」
三代前の《根守り》。
同じく地下に封じられ、同じく『読めない聖女』として追放された、先達。
「神殿ってのはね、読める女が嫌いなのさ。読めない女は飾れるけど、読める女は邪魔だからね」
私は、帳面を閉じました。
指先が、まだインクで茶色く染まっております。
落ちないのです、これ。
(——七十九巻目)
(誰かが隠したのか。それとも、誰かが私に遺したのか)
窓の外、遥か東。
青を取り戻しつつある世界樹ヴェルドナの影が、星空を切り取っています。
あの根の下に、まだ一巻ある。
私は、新しい頁を開きました。
一行目に、こう書きました。
『貸出申請:第七十九巻。
所在——不明。
——捜索を、開始いたします』
【完/第二部『第七十九巻編』へ続く】
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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貸出期限は、設けておりません。




