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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

心の漣

作者: けると
掲載日:2026/04/01

私が鬱気味だったときに作った物語です。初めて作ったので、多分読むのに苦労すると思います。読んでくれれば幸いです。

1話 青

 「いつもだ…」そう呟き、私は電話の繋がらない古い彼女への通話を切った。私の脳は、すでに疲れてしまっている。友人もいない、親も他界。心の拠り所はすでに、彼女しかいなかったのだ。しかし、繋がらない。喧嘩して家を飛び出したっきり、行方も、私のことを覚えてるかさえ、わからないのだ。

 彼女とは、23歳の冬に付き合い、24歳の夏に別れた。なぜ好きになったかは、いまだにわからないが…本能が…いや、もっと大きな別の存在が、私の心を奪っていったのだろう。たった1年ほどなのに、彼女は私の心の奥底に大きな跡をつけ、大好きなお菓子が腐っていた時のような、あの後味の悪さを残して、去っていった。

 生きていても楽しいこと、ましてやいいことなど、これまで一度きりしかなかった。クソッタレな人生に終止符を打とうと、先々週、安物の銃を買い、弾を入れ、頭に向けた。しかし、打てなかった。忌々しい自己防衛本能が、それを頑なに阻止したのだ。私は、自分自身の抗えない本能に嫌気がさし、舌打ちをしたあと、静かに、硬くなったベッドに伏せた。彼女といた頃は、周り全てが、今より千倍は明るく感じた。枯れる直前の花ですら、良い香りを放ち、いつまでも華やかに咲いているのだと錯覚するほどの能天気ぶりだった。しかし、今は心の波は静寂へと変わり、まるで、自ら命を差し出している者のように、なんの意欲も湧かなかった。

 明日は…明日こそは脳天を貫いて、この未練もない世界とおさらばしようと考え、目を瞑った。しかし、目が冴えていたので、一向に寝れる気配がない。目を瞑ることにさえ、疲れを感じるほど。それほど、彼女の喪失は大きかったのか?今まで自分一人で生きていけてたではないか。なぜ、人一人の喪失が、ここまで虚しく、私の全てを奪ってしまうほどだったのであろう。心を全て開け渡してしまうほどだと思っている。仕事もない。

 たった一つのこのボロボロの家は、親から譲り受けたもので、フロリダの海岸沿いに建っている。朝には潮風が吹き、少し外に出て網を投げていれば、いくつかの食料は確保できた。親は小金持ちであったため、その遺産で、遊べはしないものの、まだ数年生きていけるほどの量があった。しかし、それも嬉しくない。本当に、動こうとしても動けない。気力が湧かないのだ。それなのに、死ぬのが怖いという人のエゴからは、たとえ北方を探検したとかいう冒険者や、病気の治療法を探しに、自らはるばる遠国の地へと足を踏み入れた者でさえ、少しは巣食っていたのだと思う。    

 能天気な映画は、束の間の気楽を作ってくれた。「ああ、こんな世界なら。同性でも、エルフでもいい。むしろ現実的じゃないほうがいい。互いに愛し合える者がほしい。こんな幸せな世界に足を運び入れたい」と、強く願うほどであった。しかし、それはあくまでフィクション。私の苦しみとは違う、現実ではない話なのだ。

 私は、気持ちを紛らわすためにどんな映画でも見た。殺人ピエロや、イギリスの探偵、現代風に改変した日本の昔話のアニメ映画もだ。鬱映画は、私と同じ、またはそれ以上の境遇にある者を描いていて、親近感、または優越感的なものに浸っていた。しかし、感情をうまく表せていない作品。これは、ただ「つまらない」という言葉で片付く。

 仕事を探そうとも思った。どこかに旅に行こうとも思った。ただ、できないのだ。気力も、意欲も湧かなかったのだ。あぁ、誰か私を解放してくれ。私を自由にしてくれ。頭の中にそういう言葉が何回も響いた。

 安楽死。というものがあるらしい。それは私からすると喉から手が出るほどやりたいものだ。楽に、何も感じず、死んだことにすら気づかない。まさに、私の願望である。この世への執着やら未練やらはもうない。あるのは、このクソッタレな本能だけだ。人間なんかに生まれてこなければ…いや、そもそも生自体を受けなければ、こんな思いを、苦しみを、悩みを持たなかったのであろう。

 「今日は満月か」私は誰にも聞こえないほど小声で呟いた。何か心で思うと、それを呟いてしまう。私の小さな癖だ。ゴミみたいな教師に、悪口を言ったと思われて、反省文を2、3枚書かされたこともあった。ただ、その授業で覚えたことをまとめていただけなのに。そもそも、こんな癖を治さなかったからこそ、彼女と別れたのか?それとも、また別の原因か。そんな自問自答が、何年も何年も、私の心を蝕んでいる。

 ああ、頭を撃ち抜きたい。この安物のリボルバーで、私の脳天を、ぐしゃぐしゃにしてやりたい。皮膚を、頭蓋骨を、脳を、全てを貫いて、この生き地獄に終止符を打ちたい。そう思いながら、湿った弾丸入れの箱を眺めていた。

 私はすっと起き上がり、湿ったタバコを咥えた。ライターの火がつかない。オイルが切れたようだ。なにか依かかれる物をと思い始めたタバコに、今はすっかり取り憑かれてしまっている。私はタバコを口から離し、ゴミ箱に捨てた。このまま1時間。いや、1年寝転がっていても眠れる気がしないほどだったため、何年前のものかもわからない睡眠薬を、酒で流し込み、硬いベッドの上で必死に目を瞑った。

 次に目が覚めたのは、まだ日の出ていない頃だった。私の心に巣喰ったものは、私の心、体力も全てを奪い、このままゆっくりと私を締め殺していくのだろう。

 腹も空かん。喉も乾かん。私は、ボロボロの棚から、ボロボロの最後に洗ったのがいつかすらもわからない服を取り出し、それに着替え、ベッドの上に座った。財布を確認し、靴を履き、外に出て、家の鍵を閉めた。酒とライターを買おうと思ったのだ。しかし、外を確認すると、外は土砂降りであった。なぜ気づかなかったのか。窓から見ると、巨人の唾液のように大粒の雨が、滝のように降っていた。これでは、外出する気力も起きない。私は、もう一度、ベッドの上で寝ようと考えた。

 とんでもない吐き気がする。思い当たる節がありすぎるのと、どうせいつもの事なので、我慢して目を瞑った。吐きたくなったら、窓から吐けばいいのだ。どうせ、この雨で流されるに違いない。

 なぜ、彼女は離れてしまったのだろうか。毎回、自己嫌悪を重ねるだけなので、1分もすれば考えることを放棄していたが、今の私はどうも気になり、少ない脳細胞をフルで稼働させ、必死に考察してみた。しかし、そんな思いも虚しく、私の脳細胞は、すでに絶望という名のカビに侵されており、考えれば考えるほど、耳から脳漿が溢れ出すような痛みが、頭を襲った

 私の人生、転べば、必ず怪我をし、ほとんどの場合、その場所が膿んでしまっていたし、私が体育の授業でパスのために投げたボールが、クラスメートの目に当たり、教師からは怒鳴られ、相手の親からは陰で頭を5、6回殴られた。そんな私でも、自分を変えたいと思い、明るく振る舞い、必死に偽の笑顔を貼り付けた。そんなこんなでできた彼女も、自分の能力の限界か、怠惰か。うっかり自分の本来の性格を見せてしまったのか、あの癖のせいなのか、離れてしまったのだ。私の心は、すでに芯まで錆びていた鉄釘のようであったが、その一撃で、完全に折られてしまっていた。私は彼女を愛していたし、この人生を捧げてしまってのもいいとさえ考えていた。実際、今このような状況に置かれているのは、私が心を捧げてしまったからなのであろう。彼女が私を愛していたかどうかは、知る由もないが。

 もう、人生を投げ出したい。どこか遠くの知らない国で、この腐った人生を終わらせることができたらこの上なく嬉しいが、自己防衛本能はそれを許してくれず、飛行機の予約を入れるために携帯電話を開くことでさえ、私の手は許してくれなかった。

 人間は、映画のようにはならない。すぐ死ぬことも、簡単に幸せになることも、まずあり得ないのだ。そんな思いが、私の心を蝕む。いや、この世の全てが、私の存在自体をもが、私の心を蝕み、食い荒らしていく。

私の生存本能は、私の体の中の鐘を鳴らした。冷蔵庫の中から、いつ買ったか覚えていないエナジーバーを取り出し、齧り付いた。「まずい。」エナジーバーは私の腹を満たしてくれるが、私の心までは満たしてくれないようだ。

 いまこの瞬間、私以上に苦しんでいる人はどれだけいるのだろうか。おそらく、一つ一つを砂粒のような大きさにしたとしても、この手から溢れ出してしまうほどいるのであろう。私は、ボロボロの窓から見える、私の心とは対比的なほど色のついた空を見上げていた。朝だ。

 私はついさっきまでの目的を思い出し、頭の中を曝け出すかのような大きな力で、扉を開け、そして閉めた。

 私は、この忌々しく、嘘に塗れた世界で、今日も。いや、おそらくあと20年は生きていかねばならないのだろう。仕事を探さねば。私は、この自己嫌悪の中、生きていこうという偽りの希望に縋りつく。生きていくのが、この世界への復讐なのだと頭に必死に刷り込み、家の鍵を閉めた。


2話 水

雨は未だ止んでいなかった。屋根から落ちる水音が、まるで私の心臓の鼓動を外から模倣しているかのように、一定のリズムで響いていた。しかし、少しは弱くなっていたため、重い腰を上げて外に出ようと考えた。私は傘も差さずに歩き出した。どうせ濡れたところで、風邪を引こうが死のうが、大した違いはない。

 海岸沿いの道は泥にまみれ、靴底が重く沈むたびに、足首から上がこの世界に引きずり戻されるような感覚がした。海は荒れていた。白い波頭が砕け、灰色の空と溶け合い、境界が曖昧になっていた。私の心のように。

 「……くだらない」

 また、声に出してしまった。だが、ここには私の呟きを咎める教師も、足枷のようになっている彼女もいない。ただ、風と雨だけが、私の言葉を奪っていった。

 最寄りの商店までは、歩いて三十分ほどだ。こんな天気では、客も少ないだろう。店主の老人は、いつも私を見ると不思議そうな顔をした。まるで、まだ生きているのが信じられないと言わんばかりの目だった。

 店の戸を開けると、錆びた鈴が情けない音を立てた。

 「……おお、珍しいな」

 老人は新聞から目を上げた。私は何も答えず、棚の前に立った。安い酒と、オイル式ライター。それだけを掴み、レジへ置く。

 「顔色が悪いぞ」

 「いつものことです。お気遣いどうも。」

 私はそう返した。昔から人と話すのは苦手なので、クラスメート相手でも、敬語とタメ口を混ぜて話していた。老人は何か言いかけて、やめた。沈黙のまま、会計が終わる。私は小銭を受け取り、踵を返した。

 「おい」

 背中に声が飛んできた。振り返ると、老人は新聞を畳みながら、ぼそりと言った。

 「海は今日は荒い。足元、気をつけろ」

 それだけだった。ただの世間話だ。だが、その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。

 店を出ると、雨は少し弱まっていた。私はライターにオイルを入れ、震える手でタバコに火を点けた。煙を吸い込むと、肺が病に侵されているように痛んだが、その痛みがかえって自分がまだ生きている証のように感じられた。まあ実際、病の一種のようなものだが。

 帰り道、海を見下ろす崖の上で足を止めた。

 ここから飛び降りれば、きっと楽だろう。銃の引き金を引けない私でも、重力なら容赦なく私を海へ叩きつけてくれる。水は冷たく、肺に入り、やがて何も感じなくなるはずだ。

 私は柵に手をかけた。

 そのときだった。

 グゥー…

 足元から、虫の命乞いのように細い声がした。

 見ると、濡れ鼠のようになったみみっちい小さな猫が、私の靴の陰に震えていた。骨ばった体が雨で貼りつき、目だけが異様に大きく見えた。私は、昔から犬の方が好きだ。猫は不気味だ。細長い目をしているので、あまり可愛いという印象が持てなかったのだ

 「……どこから来た」

私は問う。

 猫は答えるはずもなかった。考えるまでもないことだ。ただ、私の顔を見上げて、もう一度鳴いた。

 私は舌打ちをした。どうでもいい。こんな生き物一匹、私の人生とは何の関係もない。そう思い、柵から手を離しかけた。

 だが、猫はふらつきながら一歩、私に近づいた。そして、濡れた鼻先を私の足首に押し当てた。

 その温度は、驚くほど微かで、しかし確かに、生き物のものだった。

 まだ、生きている。

 その事実が、猫ではなく、なぜか自分自身に向けられているように感じた。私は大きく息を吐き、乱暴に猫を抱き上げた。

 「……チッ、面倒なものに出くわした」

 猫は抵抗もせず、ただ弱々しく喉を鳴らした。私のコートはすぐに泥と雨で汚れたが、そんなことはどうでもよかった。どうせ、汚れても汚れなくても、洗わないのだから。

 崖から離れ、私は家の方へと歩き出した。腕の中の小さな重みが、なぜかさっきまでよりも足取りを確かなものにしていた。

 このまま締め殺してやってもよかった。自分を屑だと思えれば、引き金を引きやすくなると思ったからだ。しかし、この猫には生きようとする微かな力が見えた。どうせまた、腹を空かせて鳴き、苦悩に満ちるだけなのに

 家の鍵を開け、私は小さく呟いた。

 「……今日、死ぬのはやめだ」

 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。ただ、私の脳が、自己満足のために放つことを命令した言葉だ。ただ、雨音の中で、かすかに揺れただけだった。

家の中は、相変わらず死人の臓物の中のように暗く静かだった。雨音だけが、外界との繋がりを証明している。私は濡れた靴を脱ぎ捨て、猫を床に下ろした。

 猫はふらつきながらも、部屋の隅へと歩いていき、その場に小さく丸まった。警戒しているのか、それともただ力がないのか、見分けはつかなかった。少なくとも、この残り少ない脳細胞で考えるほどでもなかった。

無駄だと考えたらすぐにやめる。私のもう一つの癖だ。

 「……勝手にしろ」

 私はそう言いながら、台所へ向かった。まともな食べ物などあるはずもない。冷蔵庫を開けると、冷気と一緒に、時間の止まった匂いが流れ出てきた。

 昨日齧ったエナジーバーの残りと、二つ買ったはいいものの、不味くて放置していた缶詰が一つ。

 しばらく見つめたあと、私は缶詰を手に取った。中身が何かすら確認せず、適当に開ける。鈍い音がして、油の浮いた中身が顔を出した。

 それを皿に移し、猫の前に置く。

 猫はすぐには食べなかった。ただ、匂いを嗅ぎ、こちらをちらりと見た。その目は、どこか疑っているようで、同時に、ほんの少しだけ期待しているようにも見えた。

 「毒なんか入ってねえよ。私の汚い肺くらい不味いと思うがな。」

 呟いたあと、自分で少し笑った。自分への嘲笑だ。もし毒を盛ったとしても、私にはなんのメリットもない

 数秒の沈黙の後、猫はゆっくりと口をつけた。ぎこちなく、それでも確かに、生きようとする動きだった。

 その様子を、私は壁にもたれながら眺めていた。

 生きようとしている。

 たったそれだけのことが、妙に目についた。

 私はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。今度は、ちゃんと火がついた。煙がゆっくりと天井へ昇っていく。

 猫は食べるのをやめ、今度は部屋を見回し始めた。まるで、この場所が安全かどうかを確かめているように。

 「安心しろ。お前の目に映るもの以外、何もない」

 実際、何もなかった。希望も、楽しみも、未来も。あるのはただの失望だけ。ただ、雨と、腐った家の中の腐った生活と、死に損なった人間が一人。

 猫はやがて、私の方へと歩いてきた。さっきよりも、ほんの少しだけ足取りがしっかりしている。

 そして、私の足元で止まり、ゆっくりと座った。

 逃げない。

 その事実に、私はほんの一瞬だけ戸惑った。

 「……物好きなやつだな」

 猫は答えない。ただ、静かにそこにいた。

 私は煙を吐き出しながら、天井を見上げた。

死ぬことを先延ばしにした理由が、こんなものだとは思わなかった。たった一匹の、名前もない猫。

 それでも。

 「……まあ、いいか」

 その言葉は、これまでのどの呟きよりも、わずかにだけ軽かった。

 雨は、未だ降り続いていた。

 屋根を叩く音はむしろ強くなり、さっきまで遠くにあった雷鳴が、じわじわと近づいてきているのがわかる。窓ガラスに打ちつける巨人の唾液が、不規則に弾け、部屋の中にまで湿気を押し込んでくるようだった。

 猫は、いつの間にか眠っていた。

 床の上、さっきの場所で丸まり、小さく呼吸を繰り返している。その背中が、かすかに上下するたびに、まだ壊れていない何かがそこにある気がした。

 私はベッドに腰を下ろし、濡れた服のまま、ぼんやりとそれを眺めていた。

 「……弱そうだな」

 私が今ここでじわじわと締め殺しても、何も抵抗できず、声も上げられないのであろう。しかし、メリットはなかった。

 呟きは、相変わらず勝手に口から漏れた。

 だが、その言葉は、そのまま自分に返ってきた。

 弱い。何もできない。何も変えられない。ただ、流されるだけ。私も、ここにもし人間より上の捕食者がいるとしたら、私と同じことを思うのであろう。

 違いがあるとすれば…

 私は、生きる理由を持っていない。

 猫は、理由なんてものを最初から持っていない。

 それだけだ。

 雷が鳴った。

 猫の耳がぴくりと動き、一瞬だけ目を開けたが、すぐにまた閉じた。逃げようともしない。ただ、そこにいる。おそらく、逃げたくても逃げられないのだ。ここが、今のところ一番安全な場所なのだろう。しかし、ここまで懐くものか。私は少し、この昔の私のように能天気な猫を、憐れと、不気味と思った。

 私は立ち上がり、窓に近づいた。

 外は白く霞み、海も空も一つに溶けていた。境界は消え、どこまでが世界で、どこからが空なのかもわからない。

 あの頃の私なら、これを美しいと言い、携帯電話を向け、2、3枚写真を撮ったであろう。

 彼女といた頃、こういう雨の日に、くだらないことで笑った記憶が、ぼんやりと浮かんだ。内容は思い出せない。ただ、笑っていたという事実だけが残っている。

 それだけで、少しだけ胸が痛んだ。

 私は窓から離れ、床に座り込んだ。猫との距離は、手を伸ばせば触れられるくらい。

 しばらく迷ったあと、指先でその背に触れた。

 温かい。

 ほんのわずかだが、確かに温かかった。

 猫は目を覚まさなかった。ただ、呼吸のリズムが、少しだけ深くなった気がした。

 「……生きてるな」

 当たり前のことを、確認するように呟く。

こいつにも…生きている証、名前があってもいいのかもしれない。昔から行きたかった国の人名にちなんだものをつけようと思った。

 雨音が、少しだけ弱まった気がした。

 気のせいかもしれない。それでも、さっきまでの圧迫するような音ではなく、どこか遠くへ引いていくような響きに変わっていた。

 時間が、ゆっくりと動いている。

 私はその場に座ったまま、何もせずに過ごした。何かを考えるでもなく、何かをするでもなく。ただ、音と、呼吸と、わずかな温もりの中にいた。

 どれくらい経ったのかは、わからない。

 ふと気づくと、雨はほとんど止んでいた。

 屋根を打つ音は消え、代わりに、雫がぽたり、ぽたりと落ちる音だけが残っている。

 静かだった。

 あまりにも静かで、自分の呼吸がやけに大きく感じるほどに。

 猫が目を開けた。

 ゆっくりと起き上がり、体を震わせ、水気を飛ばす。そのあと、まっすぐこちらを見た。

 逃げない。

 ただ、見る。

 私は、小さく息を吐いた。

 「……止んだな」

 猫は何も言わない。

 当然だ。

 それでも、なぜかその沈黙は、さっきまでとは違っていた。

 外に出ることもできる。

 何かを始めることも、やめることもできる。

 何も変わっていないはずなのに、ほんの少しだけ、選べる気がする。

 私はゆっくりと立ち上がり、湿った弾丸の箱と重い銃へ目をやった。次に空の酒の缶と、湿ったタバコに目をやった。もう一度吸おうと考えたが、私はそれを行動に移すことをしなかった。

 それから、猫に視線を戻す。

 「……どうする、エカチェリーナ。」

 答えはない。

 エカチェリーナ。それが私のつけた名前だ。高貴な名前だが、それは、私から強く生きる意志を持つ彼女への尊敬の心だ。

 そして、私はそっと、猫へ呟いた。

 彼女は、弱く鳴いた

 その声は、大きさに見合わず、耳に異様にこびりついた。

 あの大きな、それでいて記憶の片隅にすら残らない大雨とは対極に。

 世界は今も変わらず、熱と嘘を持って動き続けている。

 ただ、この場には小さな命と、崩れそうな命が二つ、ただそこにあるだけだった。

お疲れ様でした!読んでくれて、この上ない喜びです!

これからも小説をいくつか出す予定ですので、頭の片隅にでも入れてくれれば幸いです。

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