カンナギ国の攻防 その5
砦の作戦室。壁に掛けられた簡素な地図の前で、カズトは静かに指揮官を見据えていた。外からは、遠く鬨の声が響いている。
「まずは、獣人たちの援軍を前線に投入します」
低く、しかし迷いのない声だった。
「さらに、アリーナ隊も前へ。前線の兵を段階的に下げさせ、秩序ある撤退を行います」
腕を組んでいた指揮官が眉をひそめる。
「……撤退だと? 籠城するのか?」
短い沈黙。
カズトは、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ」
その隣で、銀髪を揺らしたルミナスが一歩前に出る。冷静な光を宿した瞳が、部屋にいる者たちを順に見渡した。
「我々は逃げるのではありません。戦場を“作る”のです」
ざわ、と空気が揺れる。
カズトが地図に手を伸ばし、砦から伸びる街道を指でなぞった。
「何を言おうが、数は暴力です。……闘いは数だ」
その言葉に、若い副官が息を呑む。
「だからこそ、正面からぶつからない。撤退しながら敵を誘導する」
「誘導……?」
ルミナスが頷く。
「敵は勢いに乗っています。それに、魔物たちの知能は低い。そこを利用するのです」
カズトの指が、地図の途中に描かれた森と丘陵地帯を叩く。
「狭い道、林の影、丘の死角。罠を仕掛け、側面から奇襲をかける。追撃に夢中になった部隊を切り崩す」
「削る、というわけか」
「はい。主戦場に辿り着くまでに、出来るだけ数を減らす」
そして、指は最終地点へと移る。
砦から数百メートル先――広がる草原地帯。
「ここです」
室内が静まり返る。
「遮蔽物はない。身を隠すものもない。だが」
ルミナスが窓の外、砦の魔導塔へと視線を向ける。
「この距離なら、砦からの遠距離魔法が届きます」
「……草原におびき寄せるのか」
指揮官の声は、もはや疑問ではなかった。
「ええ」
カズトは頷く。
「ここまで引きずり出す。そして、魔法の連発でさらに数をそぐ」
重い沈黙が落ちる。
「兵士たちには、負担をかけます」
カズトの声は、わずかに低くなった。
「撤退しながら戦い、罠を張り、奇襲をかける。消耗も出るでしょう」
だが、その瞳は揺れない。
「それでも、草原で止める。ここを守り切る背水の陣です」
ルミナスが続ける。
「もし草原地帯を抜けられれば、我々は砦に籠城するしかなくなる。そうなれば包囲され、消耗戦。勝ち目は薄い」
「だから、その前に決める」
カズトは言い切った。
「敵の勢いを削り、数を減らし、草原で叩く」
指揮官は地図を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……戦場を選ぶ、か」
「はい」
「逃げるのではない。作るのだな」
カズトは静かに頷く。
「敵の土俵では戦いません。こちらの土俵に引きずり込みます」
長い沈黙のあと、指揮官は大きく息を吐いた。
「いいだろう。賭けよう」
拳で机を叩く。
「全軍に伝達だ。段階的撤退を開始。獣人部隊とアリーナ隊を前線へ!」
部屋の空気が一変する。副官たちが駆け出していく。
その喧騒の中、ルミナスが小さく呟いた。
「時間との勝負になりますね」
「ああ」
カズトは草原の印を見つめたまま答える。
「ここまで、削り切る」
迫り来る大軍の足音が、すぐそこまで近づいていた。
◇
砦の中庭では怒号と号令が飛び交い、矢束を運ぶ兵士たちが走り、魔導兵が詠唱の確認を繰り返している。緊張と焦燥が入り混じったざわめきが、石壁を震わせていた。
だが、その喧騒から少し離れた指揮室の一角。
厚い幕で仕切られた小さな空間に、カズト、ルミナス、タマモ、アリーナ、そして砦の指揮官が集まっていた。声は自然と低くなる。ここから先は、軽々しく広められる話ではない。
士気に関わる。
「問題は、後方の巨大な魔物だな」
カズトの言葉に、場の空気がさらに重くなる。
ルミナスが静かに頷き、手元の魔導板を操作した。淡い光が揺れ、ぼやけた映像が浮かぶ。
「探査虫から得られた画像越しでの情報ですが……強化されたオークキングですね」
映像の中、通常種とは比べものにならない巨躯がうごめいている。
「通常種の数倍の体躯。筋繊維の密度も異常です。そこから放たれるパワーは未知数」
指揮官が低く唸る。
「魔法で削れんのか?」
ルミナスは一瞬、言葉を選んだ。
「魔力抵抗は、かなり高そうです。遠距離魔法での決定打は期待できないでしょう。……むしろ、物理で力押しの方が有効かと」
しかし、その声は次第に小さくなる。
それが簡単にできるなら、誰も苦労はしない。
沈黙が落ちた。
獣人部隊も、カンナギの兵も、前線で押し寄せる魔物の処理に追われる。あの怪物にまとまった戦力を割く余裕はない。
カズトは視線を横へ向けた。
「アリーナ、頼めるか?」
問いは短い。
アリーナは腕を組み、少しだけ肩をすくめた。
「うん。……たぶんボクじゃないと無理だよね」
軽く笑ってみせるが、その瞳は真剣だ。
タマモが小さく息を呑む。
「バトルメイド隊を付ける」
カズトが続ける。
「前線を切り裂き、道を作る。雑魚は任せろ。獣人とカンナギ兵が抑える」
「ボクは、一直線にあれのところまで行けばいいってわけだね。」
「ああ」
地図の上、巨大な印が置かれた位置をカズトが指で叩く。
「オークキングを倒せば、群れは崩れる。統率個体を失えば、魔物は逃げ出す可能性が高い」
指揮官が低く言う。
「つまり――あれを倒せば勝ち、か」
「単純な話ですよ。」
ルミナスが静かに応じる。
「ですが、それゆえに難しいのです。」
誰も反論しない。
すべては、あの一体。
そして――
すべては、アリーナにかかっている。
重い沈黙の中、アリーナは拳を握った。
「任せてよ。」
その声は、思いのほか明るい。
「ボクが倒せばいいんでしょ?」
カズトは真っ直ぐに彼女を見る。
「無理はするな」
「無理しなきゃ勝てないでしょ?あなたのお嫁さんを信じてよ。」
小さく笑う。
だがその奥に、覚悟が宿っていた。
タマモがそっと言う。
「……必ず、援護する」
ルミナスも頷く。
「魔導支援は可能な限り行います。隙は作らせません」
指揮官は深く息を吐き、静かに言った。
「あれを落とせば、この戦は終わる……お願いする……勝ってくれ」
外から、角笛の音が響く。
時間が来た。
幕の向こうでは、兵たちが命を賭ける準備をしている。
アリーナはくるりと背を向け、扉へ歩き出す。
「じゃあ、ちょっと大きいの、片付けてくるよ」
その背中を、誰も引き止めなかった……カズトを除いて。
扉へ向かおうとしたアリーナの背に、低い声がかかった。
「待て……これを持って行け」
振り返った彼女の前に、カズトが一振りの剣を差し出す。
鞘は簡素だが、鍔と柄には見慣れない紋様が刻まれていた。淡く脈打つような光が、まるで呼吸するかのように瞬いている。
「これ……」
アリーナは両手で受け取る。
「まだ未完成だけどな……今の剣よりはましだろ?」
少しだけ照れ隠しの混じった声音。
アリーナはゆっくりと柄を握った。
――瞬間。
ぞわり、と背筋を駆け上がる感覚。
剣から、奔流のような魔力が流れ込んでくる。ただ強いだけではない。荒々しさはなく、彼女の中の力に寄り添い、共鳴し、押し上げる。
「……すご」
思わず漏れた声。
身体強化を軽く発動させると、反応がまるで違う。重さが消え、感覚が研ぎ澄まされる。握力、脚力、反応速度――すべてが一段、いや二段は底上げされている。
ただの剣ではない。
いくつもの効果が重ねられているのが、握っているだけで分かる。
「うん、ありがと! これならやれるよ」
無邪気な笑み。
だがその目は、戦士のそれだ。
カズトは一歩近づき、剣を確かめる彼女の肩に手を置く。そして、そっと引き寄せた。
不意のことに、アリーナが小さく息を呑む。
強く、だが壊れ物を扱うような抱擁。
周囲にタマモやルミナス、指揮官がいることなど構わない。ただ今は、この一瞬だけ。
カズトは彼女の耳元に顔を寄せ、低く囁く。
「無理するなよ」
その声は、指揮官としてではなく、一人の男のものだった。
「カンナギ国より、お前の方が大事だ。いざとなれば逃げろ」
戦場に向かう者へ向ける言葉としては、あまりに私情に満ちている。
だが、偽りはない。
アリーナは一瞬だけ目を伏せ、そして小さく頷いた。
「ん」
短い返事。
抱きしめ返すように、空いている手でカズトの背を軽く叩く。
「カズトを悲しませることはしないよ」
約束、というより宣言。
離れた彼女の表情は、もう迷っていなかった。
剣を肩に担ぎ、くるりと踵を返す。
扉の向こうでは、角笛が再び鳴り響く。
決戦の時が来た。
カズトはその背中を見送りながら、静かに拳を握りしめる。
――必ず、生きて帰れ。
声には出さず、ただ強く願った。
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