カンナギ国の攻防 その3
順調だったはずの進軍は、いまや見る影もない。
フルール王国軍の陣地には、湿った土と血の匂いが立ちこめていた。つい先日まで、敵陣を次々と突破し、勝鬨が空を震わせていたというのに——戦線はある一点を境にぴたりと止まり、そして静かに、しかし確実に押し返され始めている。
陣幕の外では、伝令の声がひっきりなしに飛び交う。
「東翼、さらに百歩後退!」
「中央隊、カンナギの増援を確認!」
その報告を受けるたび、指揮官の肩がわずかに震えた。
地図台に両手をつき、彼は強く歯を食いしばる。奥歯がきしみ、こめかみに血管が浮き上がる。
「なぜだ……なぜ崩れる……!」
勝算はあった。兵も士気も十分だった。だが、まるで見透かしたかのように、カンナギ国の軍は要所要所に精鋭を差し向け、補給路を断ち、伏兵を潜ませてくる。
机上の駒が音を立てて跳ね飛んだ。
彼が拳を叩きつけたのだ。
「こちらの策が読まれているとでもいうのか……!」
荒い呼吸が陣幕の中に満ちる。外では鬨の声ではなく、押し返される兵たちの怒号が聞こえてくる。
指揮官は大股で歩き、そして堪えきれぬように地面を踏み鳴らした。
どん、と鈍い音が響く。
「あと一歩で、王都へ至る道を押さえられたのだぞ……!」
握りしめた拳は白くなり、爪が掌に食い込む。それでも怒りは収まらない。焦燥と苛立ち、そしてかすかな不安が胸の奥を締めつける。
勢いを増すカンナギ国の軍は、まるで嵐のようだ。押し返しても押し返しても波が来る。
いや——押し返されているのは、いまや自分たちのほうだ。
指揮官は再び地図をにらみつけた。
「……立て直せ。まだ終わっていない。」
だが、その声には、先日までの確信はない。
歯噛みし、地団太を踏みながら、それでも彼は敗北を認めまいと必死に次の一手を探していた。
◇
「無様だな」
その声は、陣幕の空気を凍らせるように、低く、湿り気を帯びていた。
指揮官は反射的に振り返る。
「くっ、貴様はっ!」
そこに立っていたのは、いつの間に入り込んだのか分からぬ男。
黒衣は夜を切り取ったように光を吸い、口元には三日月のように歪んだ笑み。灯りに照らされた瞳は、底の見えぬ沼のように鈍く揺れている。
“上からの協力者”——そう聞かされてはいた。
だが、漂う気配は味方のそれではない。冷たい。粘つく。まるで蛇が獲物を値踏みするような視線だった。
「乞うのであれば、力を貸すのもやぶさかではないが?」
男はゆっくりと手袋を外し、白い指先を眺めながら言う。その仕草ひとつひとつが芝居がかっていて、わざとらしいほど優雅だ。
指揮官の喉が鳴る。
理性が警鐘を鳴らしていた。
この男の力は、決して正道のものではない。
借りれば、何かを失う。
だが——
外では、また伝令の叫び声。
「中央、さらに後退! 防衛線、突破されました!」
奥歯がきしむ。
(このままでは、敗れる……!)
指揮官は拳を震わせ、やがて視線を落とした。
「グっ……ち、力を貸してもらえぬか……。」
屈辱が、声を濁らせる。
男の口元が、さらに吊り上がった。
「クックックっ……よかろう!」
その瞬間、陣幕の外で風が唸った。
空気が重く沈み、遠くで雷鳴のような低い振動が響く。
男は指を軽く鳴らす。
それだけだった。
だが次の瞬間——
◇
カンナギ国の兵たちは歓喜に沸いていた。
「押せ押せ! 敵は崩れているぞ!」
「フルール軍は終わりだ!」
旗が翻り、鬨の声が戦場を震わせる。
敗走するフルール軍の背を追い、勝利は目前に思えた。
そのとき。
一人の兵が、背後を振り返る。
「……なんだ?」
地平線の向こう。
砂煙が、ゆっくりと立ち上っている。
最初は、ただの陽炎かと思われた。
だが違う。
それは、整然と並ぶ影。
黒々とした軍勢。
フルール軍の背後に——新たな援軍が、現れていた。
その先頭に立つのは、異様な鎧をまとった兵たち。
旗印は見慣れぬ紋章。
足並みは揃い、まるで機械のように静かに進む。
太鼓も鳴らぬ。鬨も上げぬ。
ただ、無言で。
カンナギ兵の一人が、乾いた声で呟く。
「……増援だと? 聞いていないぞ……」
別の兵が後ずさる。
「な、なんだあの気配……」
彼らの背後から迫るその軍勢は、戦場の喧騒とは異質だった。
重く、冷たい圧力が、空気ごと押し潰すように広がる。
フルール軍の旗が再び翻る。
そして、押し返されていたはずの兵たちが、一斉に足を止めた。
前後を挟まれた形のカンナギ軍。
歓喜は、凍りついた。
「……包囲、されている?」
誰かの声が震える。
その瞬間——黒い軍勢が、無言のまま進軍を加速させた。
悲鳴が上がる。
さきほどまで勝利に酔っていた兵士たちの顔は、みるみるうちに絶望へと塗り替えられていく。
◇
その様子を、小高い丘の上から眺める影があった。
黒衣の男。
口元には、変わらぬ歪んだ笑み。
「クックック……愚かだな。勝利を確信した瞬間が、最も隙だというのに。」
その瞳は、もはや戦局など見ていない。
もっと深い、何か別の企みを見据えている。
「さあ……踊れ。滅びの舞を。」
怪しさを増したその声は、戦場の喧騒に紛れ、誰の耳にも届かない。
だが確実に——
運命の歯車は、音を立てて狂い始めていた。
◇
一方その頃——
カンナギ国前線の指揮砦は、勝利の熱気に包まれていた。
厚い木材と石で組まれた簡素な砦の中、地図卓を囲む将兵たちの表情は明るい。そこへ、風を切るように入ってきた一団があった。
獣人たちの援軍である。
先頭に立つのは、青年——カズト。
その背後には、耳と尾を揺らす戦士たち。タマモもその中にいた。
現地指揮官は大股で歩み寄り、深々と頭を下げる。
「よく来てくれた! 貴殿らの参戦で戦局は大きく傾いた。カンナギ国を代表して、感謝する!」
その声は朗々と砦に響き渡る。
兵たちも口々に歓声を上げた。
「獣人隊、万歳!」
「助かったぞ!」
カズトは一歩前へ出て、落ち着いた笑みを浮かべる。
「お役に立てたなら何よりです。我らは盟約に従ったまで。今後も力を尽くしましょう。」
物腰は柔らかい。言葉も丁寧だ。
この後に控える国王との会見を思えば、ここでの印象は重要だった。
(悪くない流れだ……)
内心で安堵する。
だが——
ちらりと横を見ると、タマモたちは明らかに落ち着かない様子だった。
称賛の視線。
大げさな歓待。
肩を叩かれ、酒を勧められ、笑顔を向けられる。
タマモは耳をぴくぴくと揺らし、小声で呟く。
「……なんか、むずがゆいのじゃ」
別の獣人戦士も尾を縮こまらせる。
「戦っているほうが、気楽だな……」
彼らにとって、こうした儀礼的な歓迎は慣れないものだった。誇らしくはあるが、どこか居心地が悪い。
指揮官はさらに声を張る。
「今宵は祝宴だ! 前線とはいえ、英雄を迎えぬわけにはいかぬ!」
砦内がどっと沸く。
そのとき——
ばたん、と扉が勢いよく開いた。
伝令が駆け込んでくる。
息を切らし、顔色は青い。
「ご報告! 敵軍後方に、新たな軍勢が出現!」
空気が一変した。
「……何だと?」
指揮官の声が低くなる。
「は、はい! フルール軍の背後より、正体不明の増援が出現! 規模は……不明。ただし相当数!」
ざわり、と砦内が騒めく。
「援軍だと? フルールにそんな余力があるはずが……」
「いや、聞いていないぞ!」
カズトの目が細まる。
(このタイミングで……?)
歓声は消え、代わりに緊張が広がる。
地図卓へと人が集まり、駒が動かされる。
指揮官は険しい顔で問いただす。
「旗印は確認できたか!」
「い、いえ……旗はなく……少なくとも目に見える班にには見当たらないとのこと!」
沈黙。
さきほどまで祝宴を口にしていた砦は、いまや戦時そのものの空気に包まれている。
タマモが、ぴたりと耳を立てた。
「……嫌な気配がするのじゃ」
彼女の尾が、ゆっくりと揺れる。
カズトは静かに息を吐き、指揮官に向き直る。
「状況を詳しく。もし挟撃の形になるなら、こちらも動きを変える必要があります。」
穏やかな声音の裏で、思考が高速で巡る。
国王との会見どころではないかもしれない。
砦の外では、遠くの地鳴りのような振動が微かに伝わってきていた。
勝利の熱は、完全に消え去った。
代わりに満ちるのは——
正体の分からぬ“何か”が戦場に現れたという、不穏な予感だった。
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