アルメリア聖王国の窮状 後編
セシリアの叫びを受け止めきれず、イリシスの肩が小さく震えた。
「……っ」
唇を噛みしめたまま、必死に堪えようとする。
けれど、溢れた感情は止まらなかった。
ぽろり、と。
一粒、また一粒。
透明な雫が、床に落ちる。
「……私が……悪かったのかな……」
掠れた声。
それは、罪を背負う者のものだった。
その瞬間。
「――違う」
低く、しかしはっきりとした声が、場を切り裂いた。
カズトだった。
彼はイリシスの前に立ち、真っ直ぐにその泣き顔を見据える。
「まずな。前提が、根本から違う」
イリシスは、驚いたように顔を上げる。
「確かにさ、お前が無茶をしたのは事実だ。
結果的に、ブラックな環境を作る一因になったかもしれない」
そこで一度、言葉を切る。
「でもな、それを“是正しなかった”のは誰だ?」
静かな問いだった。
「現状を知ろうともしなかった教会だ。
もしかしたら……知ってて、押し付けてた可能性だってある」
セシリアが、はっと息を呑む。
カズトは構わず続けた。
「普通ならさ、“一人で全部やってる聖女がいる”って分かった時点で、止めるんだよ。分担させる。仕組みを変える。支える」
拳を握る。
「それをしなかった。楽だからだ。任せれば回る。文句も言わない」
視線が、イリシスから外れ、宙を睨む。
「それって、完全に管理側の責任だろ」
そして、今度は視線を戻す。
「あとさ」
少しだけ、語気が強くなった。
「知ってるか知らないかは別として、 “全部押し付けて、自分はサボってた”他の聖女たちにも、責任はある」
セシリアは反論しかけて、言葉を失う。
「誰かが倒れそうになるまで働いてるのを見て、何も言わず、何もしなかったんなら――それはもう、共犯だ」
重い沈黙が落ちる。
カズトは、最後に一歩近づき、イリシスの頭に手を置いた。
乱暴ではないが、逃がさない力で。
「全部を一人に押し付けてたこと自体が、そもそもの間違いだ」
声は、少しだけ柔らいだ。
「だからな。イリシス、お前は悪くない」
イリシスの瞳が、大きく揺れる。
「助けられる力があったから、助けただけだろ。守れるから、守っただけだろ」
ぽろぽろと、涙が止まらなくなる。
「それを“罪”にする世界の方が、おかしい」
カズトは、不器用に笑った。
「だからさ……もう、自分を責めるな」
その言葉に、イリシスは堰を切ったように泣き出した。
嗚咽を漏らし、子どものように。
カズトは何も言わず、ただそこに立ち続ける。
逃げ場を与えない代わりに、否定もしない。
セシリアは、その光景を見つめながら、唇を震わせていた。
自分がぶつけた言葉が、どれほど重かったのか。
そして同時に、今、ようやく誰かが――
イリシスの味方として、彼女の前に立ったのだということを。
その事実が、胸に深く、突き刺さっていた。
「……なぁ、イリシス」
泣き止んだばかりの彼女に、カズトは静かに問いかけた。
「お前は、どうしたい?」
その言葉は、責めでも誘導でもなかった。
ただ、答えを急かさない、真っ直ぐな問いだった。
けれど――イリシスは、何も言えなかった。
唇を開こうとして、閉じる。
視線が彷徨い、指先が小さく震える。
(助けたい……)
その気持ちは、確かにある。
国が崩れていくのを知って、見捨てられるほど、冷たくはなれない。
辺境で怯える人々の姿が、容易に想像できてしまう。
(でも……)
胸の奥に、別の感情が、確かに存在していた。
追放されたこと。
断罪されたこと。
信じていた場所から、何もかも奪われたこと。
恨み、と呼ぶほど強くはない。
それでも――僅かに、確かに、心を刺す棘のように残っている。
(私は……捨てられた……)
その事実が、彼女の足を縛る。
さらに、先程のセシリアとの会話が、頭の中で何度も繰り返される。
自分がやればいい。
自分に出来るから。
自分がやらなければ、誰もやらない。
――その結果が、これだ。
善意だったはずの行動が、
責任を分散させる機会を奪い、
他者を考えなくさせ、
そして最終的に、国を歪ませてしまった。
(だったら……)
もし、今ここで手を差し伸べたら?
また同じことを、繰り返すのではないか。
自分一人が無理をして、問題を覆い隠し、本来向き合うべき者たちから、逃げ道を与えてしまうのではないか。
(助けることが、正しいの?それとも……見守ることが、正しいの?)
答えが、見つからない。
正しさと間違いの境界が、曖昧に溶けていく。
善と悪の区別さえ、もはや自信が持てない。
イリシスは、両腕を抱きしめた。
まるで、自分自身を守るかのように。
「……わからない……」
掠れた声が、ようやく零れ落ちる。
「私には……もう……」
何が正しくて、
何が間違っているのか。
誰を救うべきで、
誰の責任なのか。
その判断を下す力が、今のイリシスには残っていなかった。
彼女はただ、立ち尽くす。
助けたい心と、傷ついた過去と、二度と同じ過ちを繰り返したくないという恐怖の狭間で。
「解らない……どうしていいか……。」
カズトは、じっと、イリシスを見つめる。。
イリシスの沈黙を遮らず、その小さく丸められた背中を、ただ見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「……それでいい」
低く、穏やかな声だった。
「解らないって言えるのは、ちゃんと考えてる証拠だ」
一歩近づき、視線の高さを合わせる。
「即答できるやつの方が、危ない。正義だの、使命だの、責任だの――そういう言葉で、自分を誤魔化して突っ走る方がさ」
少しだけ、苦笑する。
「前のお前は、たぶん、そうだった」
責める響きではない。
ただの事実として。
「だからさ……今は、無理に決めなくていい」
イリシスの手に、そっと触れる。
「助けるって決めるのも、関わらないって決めるのも、逃げるって決めるのも――全部、選択だ」
声が、少しだけ強くなる。
「でもな、“決められない自分”を責めるな」
まっすぐに、目を見て。
「混乱してるのは当たり前だ。裏切られて、追い出されて、それでもまだ国のこと考えてるんだぞ?」
少し間を置いて、静かに言う。
「十分すぎるほど、優しい。あんな国は放っておいていいんだ。裏切られて尚、その国の事を考える必要なんてないんだ。」
小さく笑う。
「今のお前はさ、聖女なんかじゃない。ただのイリシスでいればいい……それだけでいいんだよ」
その言葉は、決断を迫らない代わりに、彼女の存在そのものを肯定するものだった。
イリシスの肩が、ほんの少しだけ、緩む。
カズトは答えを示してくれたわけではない。
ただ自分を肯定してくれた、それだけだ。
それでも……
イリシスは救われた気がしたのだった。
・
・
・
「まぁ、今回の件に関しては簡単な解決法がある。」
しばらくしてから、カズトがそういう。
「そうなの?」
「あぁ、あの国を亡ぼせばいい。」
イリシスは、その言葉を聞いた瞬間――
はっきりと、息を呑んだ。
「……滅ぼす、の?」
「そうだ。どうせ、放っておいても、あの国は魔物によって蹂躙される。」
カズトは迷いなく答える。
「それをちょっと後押ししてはやめてやるだけですむ。そうすれば、お前が悩む必要も、憂う必要もなくなる。何か言われても、俺は魔王だしな。国の一つや二つ、滅ぼして何が悪い?」
断言だった。
慈悲でも、冗談でもない。
“魔王らしい”、あまりにも明快な結論。
しばらく、イリシスは何も言えなかった。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
恐怖……ではない。
怒り……でもない。
(……簡単、なんだ)
壊れたものを、壊して終わらせる。
迷いも、責任も、過去も、全部――灰にしてしまえばいい。
確かに、それなら。
追放された痛みも。
裏切られた記憶も。
自分が間違っていたのではないかという迷いも。
全部、消える。
だけど……
イリシスは、ゆっくりと首を振った。
「……いいえ」
その声は、震えていたが、はっきりしていた。
「それでは……私の憂慮は、消えません」
カズトの視線が、わずかに細くなる。
イリシスは、胸に手を当てた。
「確かに……あの国は、私を傷つけました。追い出して、罪を押し付けて、壊れかけている」
小さく息を吸う。
「でも……そこには、私が守ろうとした人たちがいます」
辺境の村で笑っていた子ども。
祈りに手を合わせていた老人。
名前も知らない、けれど確かに生きていた人々。
「国を滅ぼすということは……間違えた者だけでなく、何も知らず、何も選べなかった人たちも――
一緒に踏み潰すということです」
視線を上げ、まっすぐにカズトを見る。
「それで私の心が軽くなるなら……私は、最初から聖女になっていません」
沈黙が落ちる。
それでも、イリシスは続けた。
「私は……復讐を望んでいません。 赦せない気持ちが、無いわけではない。
でも、それを理由に……滅びを選んだら」
声が、少しだけ弱くなる。
「私は、私でなくなってしまう」
一歩、カズトに近づく。
「だから……お願いです」
懇願ではない。
命令でもない。
ただの、選択の表明。
「滅ぼすことを、“私のため”だと言わないでください」
そして、静かに、しかし確固として言う。
「もし、あなたが国を滅ぼすなら――それは、魔王としてのあなたの意志です。」
イリシスは、シズカに、しかしハッキリと言い切る。
「今の私は、あなたの奴隷です。あなたが望むなら、私は黙って従います。でも……それで私の憂慮は、消えるものじゃない」
少し、寂しそうに微笑む。
「私は……壊れた世界の中で、壊れきらずに生きている人を、見捨てたくない。だから……あなたが国を滅ぼすというのなら、それは私の為じゃない。あなたの名において、あなたの意志で実行してください。私の為、だなんて言わないでください。」
それが、彼女の答えだった。
魔王の“滅び”に対し、聖女でもなく、罪人でもない――
イリシスという、ただ平和を願う、一人の人間としての、拒否。
そして同時に、自分が何を守りたいのかを、ようやく言葉にできた瞬間でもあった。




