姫巫女 その7
完全に、詰んでいた。
理屈では分かっている。
カンナには、もう打つ手はない。
元より、差し出すものがないから助けを求めているのだ。
(……これ以上、何があるの)
喉の奥が、ひくりと鳴る。
必死に保っていた冷静さが、音を立てて崩れていく。
「……っ」
こらえたはずの嗚咽が、漏れた。
「グスン……」
自分でも驚くほど、あっけなく。
知らないうちに、瞳から涙が零れ落ちていた。
(泣くな……今は、泣いてる場合じゃ……)
そう思えば思うほど、視界が滲む。
現実の重さが、胸を圧迫する。
選択肢はない。
逃げ道もない。
この場を切り抜けなければ、その先すら存在しない。
(それでも……)
心の奥で、必死に何かが抵抗する。
触れてはいけないものに、手を伸ばそうとする感覚。
(……言っちゃ、だめ……)
でも――
それ以外に、打開策が見えなかった。
唇が震える。
歯を食いしばり、血が滲むほど強く噛み締めてから、カンナは口を開いた。
「い……いもうとを……」
声が、かすれる。
言葉が、刃のように自分自身を切り裂く。
「国にいる……八歳になる妹……マイカを……」
名前を口にした瞬間、胸が締め付けられた。
(マイカ……)
無邪気に笑う顔。
袖を引いて離れなかった小さな手。
「おねえちゃん」と呼ぶ、あの声。
それらすべてを、思い出してしまう。
(ごめん……ごめんね……)
涙が止まらない。
視線を上げることもできず、床を見つめたまま、震える声で続ける。
「……魔王様に、捧げます……」
言い切った瞬間。
心の中で、何かが音を立てて壊れた。
自分の信念。
守ると誓ったもの。
姉であるという誇り。
(こんなこと……したくない……)
それでも。
それでも、そうしなければ道が開けないという現実が、残酷に突きつけられている。
カンナの心は、恐怖と罪悪感と自己嫌悪でぐちゃぐちゃだった。
自分を差し出すよりも、はるかに痛い。
マイカも王族の使命をわかっているはず。ちゃんと話せば理解してくれる。
それでも口にしてしまった事実が、さらに彼女を追い詰める。
(私は……何を、守ろうとして……何を、壊そうとしてるんだろう……)
涙を流しながら、立ち尽くす少女。
それは、どうしようもない現実の前で、最も大切なものを差し出してしまった、一人の姉の姿だった。
◇
「おーい、ルミナス。姫巫女ちゃんを泣かすなよぉ~」
場違いなほど、のんきな声だった。
ルミナスの斜め後方――
聖女イリシスに膝枕をされ、あまつさえ、耳かきまでしてもらっているカズトが、間延びした調子で手を振っている。
現状の緊迫感など、どこ吹く風だ。
「……泣かしてません」
ルミナスは即座に言い返す。
感情の起伏を感じさせない、いつもの淡々とした声。
膝枕されているカズトへ向けられたその視線が、一瞬だけ羨ましそうに見えたが、次の瞬間には、静かにカンナへとむけられる。
紫の瞳が、まっすぐに射抜く。
「はぁ……。確かに意地悪し過ぎたかもしれませんね。……では、お姉さんに、ひとつ聞きます」
空気が、張り詰める。
「お姉さんの目的は、本当に、パンニャ領に行くことなのですか?」
カンナの胸が、びくりと跳ねた。
(……え?)
反射的に、答えが喉までせり上がる。
――その通りだ。
――パンニャ領へ行くために、ここまで来た。
そう言いかけて、言葉が止まる。
「……」
口を開いたまま、声が出ない。
(……違う)
頭の奥で、何かがひっくり返る感覚。
今まで必死に積み上げてきた思考が、根元から揺さぶられる。
(私は……何のために……?)
パンニャ領へ向かうのが、目的だったか?
いや、違う、それは――手段だ。
次々と、思い出が蘇る。
焼かれた村。
疲弊し、飢える人々。
祈っても、祈っても、振らない雨に、救われなかった現実。
(……そうだ)
心の奥で、忘れかけていた“本質”が、静かに声を上げる。
(パンニャ領に行くことが目的なんじゃない)
拳が、ぎゅっと握りしめられる。
(カンナギ国を……救うためだ)
自分がここに立っている理由。
交渉をし、頭を下げ、涙を流し、妹を差し出しても、成し遂げなければならない理由。
(私は……いつから、道を、履き違えてた?)
ルミナスの問いは、あまりにも正確に、核心を突いていた。
カンナは、ゆっくりと顔を上げる。
涙に濡れた瞳の奥に、揺らぎと、気づきが混ざり合っている。
「……いいえ」
ようやく、声が出た。
「私の目的は……カンナギ国を救う事……」
その言葉を聞いて、膝枕のままその様子を見ていたカズトが、どこか満足そうに、へらっと笑う。
「だよなぁ」
軽い一言。
だが、それは不思議と、場の空気を少しだけ和らげた。
「ですね。」
ルミナスもニコニコしながら頷いている。
カンナだけが、訳が分からず、呆然としていた。
◇
薄く灯る転移陣の光が、部屋の床に静かに揺れていた。
カズトの腕の中で、カンナは身をすくめるように肩をすぼめている。彼の腕はしっかりと彼女を支えているだけなのに、その距離の近さがどうしても意識にのぼってしまい、胸の奥が落ち着かなかった。
「あのぉ、本当に必要なのでしょうか?」
控えめにそう尋ねる声は、かすかに震えている。
視線はカズトの胸元あたりをさまよい、決して顔を正面から見ようとはしない。転移石が未完成で、使用者に接触していなければならない――理屈では理解している。それでも、理解と感情は別問題だった。
生まれてこの方、男性とここまで近づいたことはない。
腕に伝わる体温、呼吸のわずかな上下、厚手の服越しでも分かる確かな存在感。それら一つひとつが、カンナの意識を必要以上に刺激していた。
「嫌なら、いいんだぜ? アイツら置いていくだけだから。」
軽い調子でそう言いながら、カズトは顎で横を示した。
そこには、全身鎧の騎士ガルドと、その背や腕、脚にまで必死にしがみつく数名の兵士たちがいる。転移石の周囲に集まり、今にも振り落とされそうな有様は、必死というより必死すぎて、どこか滑稽ですらあった。
カズトとルミナスがカンナに示した未来――
それは、「魔王の力を使って、カンナギ国を救う」という、あまりにも突飛で、危うい提案だった。
当然、カンナがすぐに信じられるはずもない。
魔王の力。それは国を滅ぼす象徴であり、忌避され、恐れられてきたものだ。それを“救い”に使うなど、常識では考えられない。
「信じろ、とは言わない」
そう前置きした上で、カズトは言った。
ルミナスもまた、カンナの疑念を見越しているように静かに頷く。
「だからこそ、一度ダンジョンへ行こう。そこで――証拠を見せる」
「カンナギ国を救えると、納得できるまで説明するわ」
その言葉は誠実にも聞こえたが、同時に拭いきれない不安もあった。
見知らぬ場所へ移動するということは、捕らえられる可能性もある。逃げ場のない状況に追い込まれるかもしれない。カンナだけでなく、周囲の者たちもその危険性は十分に理解していた。
それでも――。
今のカンナギ国には、打つ手がない。
現状を維持したところで、待っているのは緩やかな滅びだけだ。希望を疑うことはできても、何もせずに終わる選択肢は、もはや残されていなかった。
カンナは小さく息を吸い、ゆっくりと吐く。
そして、覚悟を決めたように視線を上げた。
「……分かりました。行きます」
それは信頼ではない。
だが、背を向けることもできない現実の中で選び取った、苦渋の決断だった。
やることが決まれば、後は実行に移すだけ。しかしここで問題が起きる。
本来、カズトの予定ではカンナ一人だけを連れて行くつもりだった。
だがそれを聞いた瞬間、ガルドが「それはならん!」と全力で反対する。
当然ではあるが、カズトとしても、全員分の転移石を用意できるわけではない。用意していた分は、殆どアルメリアに置いて来たのだから。
しかし、ガルドは、騎士の威厳をかなぐり捨てて食い下がり、諦めようとはしない。結果、折衷案として、ルミナスの転移石をガルドに預け、それで移動できるだけついてくる形で話がまとまった。
――その“結果”が、今である。
「……何か、騙されている気がする……」
カンナがぽつりと呟くと、カズトは分かりやすく視線を逸らした。
否定も肯定もせず、ただ転移石の調整を装って黙り込む。その態度が、逆に答えを雄弁に物語っていた。
本当は、手を繋ぐだけでも条件は満たせた。
だが「せっかくの機会だし」「どうせ一瞬だし」と、頭の中で都合のいい言い訳を並べ立てた末に、彼が選んだのは――お姫様抱っこ。
こういう機会でもなければ、「姫巫女」をお姫様抱っこする機会なんてありはしない。
普段は慎重で、いざという場面では妙に及び腰なくせに、こういう時だけは驚くほど行動が早い。
カンナを抱き上げた瞬間の迷いのなさが、逆に彼の内心を物語っていた。
カンナはというと、抵抗する間もなく腕の中。
恥ずかしさと疑念が入り混じった視線を向けるが、カズトは決して目を合わせない。
調整が終わったのか、転移石が光を帯び始める。
その横で、ガルドと兵士たちは必死に体勢を保ち、もはや誰もこの状況にツッコミを入れる余裕はなかった。
「大丈夫だ。すぐだから。」
落ち着いた声でそう答えるカズトは、彼女の戸惑いを察しているのか、彼女を抱く腕に力を込める。カンナは、その力強さを頼もしく思うものの、恥ずかしさは消えない。
転移石が淡く輝きを増す。
その光に包まれながら、カンナはぎゅっと目を閉じ、心の中で自分に言い聞かせた――これは必要なこと、仕方が無い事なのだ、と。
それでも、頬の熱だけは、どうしても抑えられなかった。
――こうして、かなり不純な動機と、だいぶ無理のある隊形のまま、一行は魔王のダンジョンへと飛ばされていく。
小屋の中には、眠そうな目で一行を見送る、ホワイトドラゴンのユキだけが取り残されていた。




