姫巫女 その1
姫巫女呼ばれる、カンナギ国のカンナ・スメラギ。
その一行は、グランベルグ王国のパンニャ領を目指し、前人未到の地と言われて久しい、紫焔山脈を越えるべく、ゆっくり、かつ慎重に歩を進めていた。
紫焔山脈は、その名の通り、夕暮れになると岩肌が紫がかった炎のように揺らめいて見えるという。だが実際に一行を迎えたのは、美しさよりもまず、圧倒的な威圧だった。
切り立った岩峰が幾重にも連なり、風は常に低く唸り声をあげている。踏みしめる足元の石は脆く、わずかな油断が谷底への転落を招きかねない。
姫巫女カンナ・スメラギは、白と緋を基調とした巫女装束の上に旅装を重ね、一行の中央に身を置いていた。
「……この山、やはり“生きている”ようですね」
低く呟いたのは、護衛役の老剣士ガルドである。彼の長年の経験が告げていた。ここは単なる険地ではない、と。
カンナは小さく頷き、胸元に下げた神紋の護符にそっと指を添えた。紫焔山脈は古来、神代の争いで大地に刻まれた傷だと伝えられている。人の祈りも、呪いも、未だ残滓として漂っている場所――だからこそ、巫女である自分がここにいることにも意味がある・・・・・・と信じたい。
一行が尾根を越えかけた、その時だった。
風の流れが、不意に変わった。
冷たく、重く、そしてどこか湿った気配。ガルドが即座に剣の柄に手をかけ、後方の若者たちに合図を送る。
「止まれ。……来るぞ」
次の瞬間、岩陰の奥で紫色の火花が弾け、山の静寂を引き裂くような低い咆哮が響いた。
紫焔山脈が、侵入者を試すかのように、その牙を剥いたのだった。
「位置に気をつけろっ!」
ガルドの怒号が、剣戟と獣の唸りに混じって響く。彼の足運びは最小限、決して無駄に踏み込まない。背後には切り立った岩壁、左右には崩れやすい斜面――そして、見えない“境界線”があった。
ここから先は、ホワイトドラゴンの縄張り。
それは地図にも記されず、標もない。だが紫焔山脈に生きる獣たちは、本能でそれを知っている。襲いかかってくるウルフたちも、牙を剥き、殺意をむき出しにしながら、決してその一線を越えようとはしなかった。見えない壁に阻まれるように、一定の距離を保って円を描く。
「ちっ……賢い獣どもめ」
若い護衛の一人が舌打ちする。追い払おうにも、深追いはできない。こちらが踏み込めば、今度は人の側が“侵入者”になるのだ。
カンナギ国は、森羅万象、あらゆるものに“神”が宿ると信じる、八百万の神々の国。
山に神あり、川に神あり、風の流れ、火の揺らめき、名もなき石ころにさえ、意志がある。カンナギの民はそれを畏れ、敬い、共に生きてきた。その感覚は、精霊と血縁すら感じさせるエルフ族のそれと酷似していると言われる。
自然は征服するものではない。
対話し、譲り合い、時に叱られ、時に守られる存在だ。国民の誰もが、その事を知り、肌で感じ取っている。
だからこそ――。
「……まだ……山が、怒っているわけではありません」
剣戟の合間、カンナはそう告げた。視線はウルフでも、仲間でもなく、紫焔山脈そのものへと向けられている。
「ただ……見ているのです。ここに在る“主”が」
ガルドは一瞬、眉をひそめたが、すぐに理解した。カンナギの姫巫女は、音や匂いではなく、“気配の重なり”で世界を捉える。
紫焔山脈に息づくもの。
それは単なる魔物の集合ではない。
岩に染み込んだ神代の熱。
大地に残された古き誓約。
そして、頂に君臨する白き竜――。
それらすべてが、ひとつの巨大な「圏内」を形成している。
ウルフたちが一線を越えないのも、恐怖だけではない。
そこから先は、彼ら如きが入り込めぬ領域だからだ。
「我らが踏み込めば……」
「ええ」
カンナは小さく頷いた。
「私たちが、試される立場になります」
自然と寄り添う国、カンナギ。
その民は、紫焔山脈の沈黙を“敵意”ではなく“問い”として感じ取っていた。
――汝らは、何者か。
――この地に、何を求めるのか。
山は、まだ答えを待っている。
そしてその問いの中心に、白き影は静かに身を起こしつつあった。
紫焔山脈が、次に示すのは拒絶か、それとも――通行の許しか。
人には見えない境界。しかしウルフたちは知っている。
だからその動きを、しっかりと見極めれば、おのずとその境が見えてくる。
兵士たちは戦いながら、その境界を見定め、決して踏み込まないように立ち回りを続ける。
戦場は、否応なく狭められていた。
ウルフの一体が岩を蹴り、低空を滑るように跳びかかる。ガルドが受け止め、刃を返して喉を裂くが、その瞬間、別の二体が死角から迫る。
「危ないっ!」
叫びと同時に、淡い光が走った。
カンナが、静かに印を結ぶ。地面に刻まれた神紋が一瞬だけ輝き、ウルフたちの足元を縛るように風が逆巻いた。強力な術ではない。だが、この場では十分だった。
「感謝します、姫巫女様!」
迫りくるウルフを凌ぎ、捌きながらカンナの側へと移動するガルド。
「いいえ……私にはこれくらいしか・・・・・・でも、長くは持ちません」
カンナの声は冷静だったが、その額にはうっすらと汗が滲んでいる。ここは神の気配が濃すぎる。力を借りるたびに、無防備に素肌を曝し、なにかが絡みついて身体中を這いまわる感覚・・・・・・いつまでたっても慣れることがない。それがここでは、さらに顕著に感じるだけに、出来れば力を使いたくはなかった。
ウルフたちは距離を保ったまま、低く唸り声を重ねる。まるで、こちらが疲弊するのを待っているかのように。
そして――。
山の奥、縄張りのさらに向こうから、重く、空気を震わせるような吐息が響いた。
誰もが一瞬、動きを止める。
それは咆哮ですらない。ただの呼吸音。しかし、それだけで分かってしまう。
――目覚めている。
ホワイトドラゴンは、まだ姿を現していない。だが確実に、この戦場を見下ろしていることだろう。
「……まずいな」
ガルドが低く呟く。
ウルフたちの間にも、動揺らしきものが走るのを感じる。
このまま去ってくれればいいが・・・・・・
しかし、ガルドの願いは届かなかった。
群れの中から一頭のウルフが飛び出してくる。
兵士の一人が、そのウルフに押し倒される。
不味いっ!
ガルドの顔から血の気が引く。
ウルフに押し倒された兵士が転がった場所・・・・・・そこは、境界の向こう側だったからだ。
空気が変わる。
大地が震え、空間が揺らぐような威圧感が押し寄せてくる。
ウルフたちは、本能的に危険を察知したのか、あっという間に姿を決した。
「姫様、こうなっては仕方がありません。急いでこの場から去りましょう」
ガルドの声には、決断を遅らせる余地がなかった。老剣士は一瞬たりとも迷わない。ホワイトドラゴンが“完全に”姿を現す前に、なわばりを抜ける――それが唯一の生存策だった。
カンナは短く息を整え、静かに頷く。
「……皆、撤退します。・・・・・・お山に背を向けること、どうかお許しください」
それは仲間に向けた命令であると同時に、山そのものへ向けた祈りでもあった。
一行は陣形を崩さぬまま、素早く隘路へと駆け込む。両側を岩壁に挟まれた、辛うじて人がすれ違えるほどの細道。上空は切り取られた空の細片しか見えず、足元には冷たい影が溜まっている。
隘路を抜けた、その瞬間。
視界が開け、冷たい風が吹き抜ける。向こう側には、黒々とした樹海が広がっていた。枝葉が絡み合い、陽光すら拒む、魔境の森。人を喰らうと噂される難所――だが。
「……抜けた、か?」
若い護衛が安堵の息を漏らしかけた、その時だった。
空気が、凍りついた。
風が止み、音が消える。森のざわめきすら、まるで息を潜めたかのように沈黙する。
カンナは、胸を締め付けられるような感覚に、思わず足を止めた。
「……違います」
声が、震えを帯びる。
「これは……出口ではありません」
――影が、落ちた。
太陽を覆い隠すほど巨大な影が、ゆっくりと大地を這う。霧のような白い吐息が、冷気となって地表を舐め、岩も草も瞬く間に白く染め上げていく。
次の瞬間、轟音とともに、山肌が砕けた。
白銀の鱗をまとった巨体が、断崖の上に姿を現す。広げた翼は雲を裂き、一本一本が槍のような爪が岩を掴む。その双眸は氷晶のごとく澄み切り、逃げ場を失った一行を、確実に捉えていた。
――ホワイトドラゴン。
伝承に語られる“山の主”。
紫焔山脈の意志、その具現。
ドラゴンが、ゆっくりと首をもたげる。
その動きだけで、圧倒的な力の差が理解できた。
「……通しては、くれないようですね」
ガルドが剣を構える。その手は微かに震えていたが、視線は逸らさない。
カンナは一歩前に出る。足元の大地が、彼女の存在に呼応するかのように、かすかに脈打った。
八百万の神々を信じる国の姫巫女として。
そして、山に問われる者として。
白き竜は、まだ咆哮しない。
ただ、試すように、その巨大な瞳を細めていた。
――ここから先は、逃走ではない。
運命そのものが、彼女たちの前に立ちはだかっていた。
カンナギ編です
姫巫女を出したかったんですよっ!
作中で出てくることはないだろうから、裏設定を。
カンナのスキルは神託と巫術です。
巫術は属性魔法と精霊魔法の間ぐらいの位置関係。
一応聖属性に分類されますが、雷、炎、水、風等も操ることもできます
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