アルメリアの聖女騒動 その4
イリシスは、ひどく混乱していた。
王太子の婚約者として紹介される――そう告げられたとき、胸の奥で小さく鳴った違和感を、彼女は「緊張のせい」だと片づけた。
豪奢な広間。頭上のシャンデリアは星の群れのように輝き、香水と酒と甘い菓子の匂いが、空気を重くしていた。
視線が突き刺さる。
値踏みするような、好奇と計算の混じった視線。
祝辞は波のように押し寄せ、言葉は意味を失っていく。
微笑めと言われ、うなずけと言われ、彼女は操り人形のようにそれに従った。王太子の横に立つ自分が、どこか遠い。まるで、磨かれた床に映る影を見ているようだった。
いつの間にか、ざわめきは静まっていた。
いつの間にか、自分を守ってくれるはずの王太子に罪状を突き付けられていた。
……そんなの知らない。
王太子が言うことは、イリシスにとって、全く身に覚えのない事ばかりだった。
「ちがう。しらない」
そう言いたいのに言葉が出ない。
気づけば、場の喧騒は薄れ、笑い声は歪み、世界が水の底に沈んだように遠ざかっていた。足元がおぼつかず、思考が霧に包まれる。これは夢だ、と何度も自分に言い聞かせた。そうでなければ、あまりにも現実が、彼女を置き去りにしすぎていたから。
次に意識がはっきりしたとき、そこはパーティ会場ではなかった。
知らない天井。
知らない匂い。
知らない体温。
心が、ひどく静かだった。
叫ぼうとしても、声が出ない。身体は自分のものであるはずなのに、どこか他人のもののように遠い。理解が追いつく前に、胸の奥で何かが、ぽきりと折れる音がした。
――いつの間にか。
その言葉だけが、残酷なほど鮮明だった。
視線を横に向ける……見知らぬ男と目が合う。
「起きたか?」
その声に聞き覚えがあった。
「あの……。私は……。」
そのあとの言葉が続かない。
裸で、男の人と同じベッドの中……それが意味するのは一つしかない。
そう理解すると、心がガラガラと音を立てて崩れていく気がした。
すべてが悪い夢だ、そう思いたかった。だけど、冷えた指先と、肌に直接伝わる男の体温が、現実であることを告げる。
イリシスは、自分の内側へと沈み込もうとしていた。
考えてはいけない。
感じてもいけない。
そうやって心に蓋をしてしまえば、きっと壊れずに済む――はずだった。
けれど、身体は嘘をつけなかった。
アンバー色の瞳がわずかに揺れ、瞬きのたびに光を孕む。
こぼれ落ちるまいと堪えようとした涙は、意志とは無関係にあふれ出し、頬を伝って静かに落ちていった。
嗚咽はない。ただ、呼吸が少し乱れ、肩が小さく震えているだけだった。
その様子を目にしたカズトは、明らかに動揺した。
「え、えっと……だ、大丈夫、だから。その……」
慰めようと差し出した手は宙を彷徨い、かける言葉も見つからない。背中をさすればいいのか、声をかけるべきか、それともそっとしておくべきか。考えれば考えるほど、動きはぎこちなくなり、結果的に何もできずに立ち尽くす。
その空回りした沈黙を、軽やかな声が切り裂いた。
「おにぃちゃん、もういい?」
いつの間に来ていたのか、ルミナスが扉口に寄りかかり、にやりと笑っている。状況を一目で察したのか、あるいは面白がっているだけなのか、彼女はわざとらしく肩をすくめた。
「おにいちゃん、また女の子泣かせてる」
からかうようなその一言に、カズトはびくりと肩を跳ねさせる。
「ち、違っ……!」と反射的に否定するものの、言葉は尻すぼみになった。
現に、目の前のイリシスは泣いているのだから。
ルミナスはそんなカズトを一瞥すると、今度はイリシスの前にしゃがみこみ、視線を合わせる。軽い調子はそのままに、声だけが少し柔らいだ。
「ほらほら、そんな顔しないの。おにぃちゃん困ってるでしょ。この人、こう見えて、繊細で不器用なんだよ」
イリシスは答えない。ただ涙を落とし続けながら、どこか遠くを見ている。その沈黙が、言葉よりも雄弁に彼女の混乱と痛みを語っていた。
場の空気は、ぎこちなく、そして重かった。
そんな中、ルミナスだけが明るい声で言う。
「えっとね、何を心配してるかわかるけど、大丈夫だよ?おにぃちゃんはオッパイしか触ってないから。」
ルミナスの言葉をうけて、イリシスの瞳にわずかに光が戻る。
「ほんとに……嘘……」
「嘘じゃないよ。お姉ちゃんはまだ乙女だよ?」
その言葉に冷静になるイリシス。
確かに下腹部に違和感はない。
話で聞いただけだが初めての時はとても痛いと聞く。
だから、もしそんなことをされていれば、今は痛みがあるはず……それがないという事は、この少女の言葉を信じてもいいのかもしれない。
でも……。
イリシスは、自分の胸元に視線を落とす。
鎖骨の下あたりに刻まれた奴隷紋。目の前の男の人の所有物であるという証。
今回は、確かに何もなかったのかもしれない。
ただし、それが今後も続くという保証はない。
奴隷となった以上、ご主人様の命令を拒むことはできない。
それこそ、今にでも、目の前の男の人が”命令”すれば、自分は従うしかないのだ。
おびえるイリシスに、幼女がそっと囁く。
「大丈夫、心配しないで。無理やり襲われることはないから。」
少女の言葉には不思議な説得力がある。
だけど容易に信じることが出来なかった。
男の人が女の人を奴隷にしたら、することは一つだと聞いている。
奴隷に落とされたら、できることは、従順に従い、媚を売って、ご主人に気に入られるようにすることだけだと聞く。
夜伽の命令は、主人の当然の権利であり、奉仕をするのは奴隷の義務なのだ。
なのに、その心配がないって……
「ご主人様は……ヘタレ?」
「なんでやねんっ!!」
おもわず呟いてしまった言葉に、ご主人様は大きく反応し、少女はくすくすと笑い続けるのだった。
◇
「……そんなかんじです」
静かな声で、イリシスは語り終えた。
長い説明だったはずなのに、その締めくくりは驚くほど淡々としている。
カズトはしばらく言葉を失ったまま、彼女を見つめていた。
先ほどまで胸の奥にあった疑念――噂は本当なのか、という問いは、今や別の重さに変わっている。
「噂は……事実なのか?」
そう問いかけた時、イリシスははっきりと首を横に振った。
「知りません。そんな話、私は聞いたこともありません」
その一言で、すべてが裏返った。彼女がカズトの奴隷になった以上、「うそ偽りなく話せ」という命令に逆らうことはできない。
つまり、彼女が語ったことは、すべて本当のことなのだ。
セドリックが言っていた「公女への嫌がらせ」。
それは誰かを陥れるために歪められた言葉で、実際に嫌がらせを受けていたのは、他でもないイリシス自身だった。
仕事をさぼっていた――それもまた虚偽。
聖務を放り出していたのは他の聖女たちで、イリシスは責められる立場にありながら、彼女たちの分まで黙って仕事を引き受けていた。
不満を口にすることもなく、評価されることもなく。
ただ「やるべきだから」という理由だけで。
カズトは、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
噂を信じた者たちの軽さと、目の前で静かに事実を語る少女の重さ。その落差が、ひどく痛かった。
イリシスは視線を落とし、小さく息を吐く。
「……だから、本当に、それだけなんです」
それだけ、で済ませていい話ではないと、カズトは強く思っていた。
しかし、今や彼女は罪人であり、この国に長くは留まれない。
一応、犯罪奴隷として、カズトの所有物になっているから、しばらくは大丈夫だろうが、国の上層部が、いつ気が変わるとも知れない。
「まぁ、とりあえずダンジョンに帰るか。」
カズトは帰還を選択し、最後に、街中を観光しようと提案するのだった。
18禁版では出番がなさそうなヒロイン、イリシスです。
ネタが詰まったら出るかもしれませんが、聖女枠は別のヒロインで埋まる予定なので、イリシスちゃんの活躍?は全年齢版でしか読めません。
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