演習 2
扉が閉まり、重厚な足音が完全に遠ざかったのを確認した瞬間だった。
「――怖かったよぉっ!」
張り詰めていた糸が切れたように、シーラは一気に表情を崩し、勢いよくアリーナに飛びついた。
さっきまでの冷静沈着な領主令嬢の面影はなく、腕に顔を埋めて震えるその姿は、年相応の少女そのものだった。
「あなたねぇ……」
アリーナは少し呆れたように眉をひそめる。
「誰かに見られたら、どうするのよ」
そう叱りながらも、突き放すことはしない。
しっかりと腕を回し、優しく抱き留める。
「だって……」
シーラはくぐもった声で続ける。
「みんな、あんな目で見てきて……。間違えたら、街を見捨てることになったかもしれないし……」
「はぁ、あなたはよくやったわよ」
アリーナは静かに言った。
その一言に、シーラの肩が小さく揺れる。
「怖いのに、逃げなかった……甘いことを言えば、きっと利用されていた。それを分かっていて、ちゃんと“線”を引いた」
アリーナは、シーラの髪を撫でる。
戦場で数え切れない修羅場をくぐり抜けてきた勇者姫の手は、驚くほど穏やかだった。
「私はね、正直、あなたを見誤っていたわ。ただの甘えたお嬢様だと思っていた……だけど、あなたはしっかりと《《役目》》を果たせる……そういう強さを持っているのは、素直にすごいと思うわ」
「……ほんと?」
顔を上げるシーラの目は、少し赤い。
「ええ、本当」
アリーナは微笑む。
「だから今だけは許してあげる」
抱きしめ返してくるアリーナに、シーラは、もう一度ぎゅっと抱きついた。
外ではまだ、魔物が吼えている。
魔物の恐怖に人々が怯えている。
それでもこの小さな空間だけは、
二人にとって、ほんのひとときの安全な場所だった。
◇
シーラは、背筋を伸ばし、卓の前に立った。
先ほどまでのアリーナと二人でいた時の幼さは影を潜め、その瞳には迷いのない光が宿っている。
「アヴグスト」
名を呼ばれただけで、街長は背筋を跳ね上げた。
「非戦闘員の避難誘導を。老人、子供、負傷者を最優先。地下倉庫と西側の石造区画を使いなさい。最悪の場合は西門から王都方面へ逃げれるように」
淡々と、しかし具体的だ。
「混乱を抑えるため、“街長の命令”として布告を出すのよ。あなたの顔が必要なの」
「は、はい!」
アヴグストは反射的に頭を下げた。
責任を押し付けられる恐怖ではない。
――役割を与えられた安堵が、そこにあった。
「ガイゼル」
冒険者ギルドマスターが一歩前に出る。
「冒険者は東門へ集中配置。魔物の主力はあそこに向かっている」
地図に指を走らせる。
「他の門は今は最小限でいい。見張りと伝令だけ残し、戦力は分散させないで」
「了解だ」
ガイゼルは短く答えた。
無駄がない。
現場を知る者の判断だと、彼は直感していた。
「報酬は?」
「街の人々の笑顔と感謝の声……それだけじゃ不満?」
シーラの答えに言葉を失うガイゼル。
「冗談よ。後で正式に出すわ。命を賭ける価値は保証する」
その言葉に、彼は居住まいをただし、にやりと笑った。
「十分だ」
「カッター」
呼ばれた瞬間、商業ギルドマスターは身構える。
「食料と資材の供出を。三日分でいいわ」
一瞬の間を置き、きっぱりと言い切る。
「ただし、栄養と味は妥協を許しません」
「なっ……味、ですと?」
思わず声が裏返る。
「空腹と不味い食事は、士気を殺します」
シーラは冷静に続けた。
「戦う人間も、逃げる人間も同じ。弱らせる理由はないでしょう?」
カッターは言葉を失い、やがて苦笑した。
「……分かりましたよ」
損得勘定の奥で、別の理解が芽生えていた。
――この娘は、今の数字だけで街を見ていない。しかし、その先をも見据えている。
――つまりは、将来への投資だ。
カッターはそう思うことにした。
そう思わなければ、目の前にある損害を受け止めきれないからだ。
最後に、シーラは全員を見渡す。
「私は中央で全体指揮を執ります。状況は一刻ごとに変わりますからすぐ報告を」
短い沈黙の後、《《三人》》が一斉に頷いた。
グローハラは、今地下牢にいる。
ハルゲルの、直接指揮下にあるようなものを野放しにはしておけないのだ。
もはや誰も、彼女を“保護される令嬢”とは見ていない。
ここに立つのは、街の命運を背負い、決断を下す指揮官だった。
そしてその背後で、アリーナは静かに腕を組み、微笑む。
――大丈夫。
シーラなら、立派に役目を果たせる。
(さすがはご主人様ね。)
アリーナは窓から魔物たちが迫りくる、さらに向こう側を見つめながら、微笑むのだった。
◇
「ねぇ、アリーナ。カズト様から何か聞いてる?」
緊急にあつらえられた指揮室にて、シーラはアリーナに訊ねる。
ここにはアリーナ以外に誰もいないから、安心して本音で会話ができる。
ここまではカズトの指示通りにできていたと思う。しかしこの後についてはどうすればいいのだろう?
アリーナは地図台の前から視線を上げ、わずかに首を振った。
「いいえ。最後に届いたのは……“ここまでは予定通り。あとは現場判断で”という一文だけです。あと、「指揮はリラが執るから」と。
シーラは小さく息を吐いた。やはり、そう来るか、とおもう。
「カズト様は意地悪ですね。あえて素人のリラに任せることで、私の能力を図ろうだなんて。」
しかし、アリーナは、そんなシーラにくぎを刺す。
「甘く見てはだめですよ。最近はリラも、マイに師事して色々勉強していると聞いてます。逆に今回の件もシーラさまを踏み台にして、リラの力を向上させるつもり、とも捉えられます。」
「うそっ!じゃぁ、私はリラちゃんの咬ませ犬っ!カズト様酷いっ!」
よよよ……と泣き崩れるシーラを横目にアリーナは室内を見まわす。
臨時で設えられた指揮室は、元はアヴグストの執務室だった場所だ。壁際には急ごしらえの通信結晶、机の上には未整理の報告書が山積みになっている。外からは、部隊の移動に伴う足音と、緊張を含んだざわめきが微かに伝わってきた。
「現場判断、咬ませ犬、ねぇ……」
アリーナは腕を組み、地図に視線を落とす。
「案外、シーラ様のために仕組んでいるようにも見えるけどね。」
アリーナは苦笑するでもなく、淡々と続ける。
「カズト様らしい判断です。全体の流れは作るけれど、その後は私たちに委ねる。リラが指揮する魔物の集団を、シーラ様がどう退けるか?退けるだけの手腕が発揮できるのか?……それを見たいのだと思いますよ?」
その言葉に、シーラの表情が引き締まった。
私の采配次第……。
「斥候からの最新報告は?」
シーラは即座に思考を切り替えた。
「第二防衛線は持ちこたえています。ただし、予想より敵の展開が早い。このままでは、前線が削られます」
「つまり」
シーラは地図上の一点を指で叩いた。
「ここで、私たちが賭けに出る必要がある」
一瞬、指揮室に沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、外で鳴った警報結晶の低い音だった。
アリーナは静かに背筋を伸ばす。
「シーラ。指揮権は、あなたにあります」
シーラは目を閉じ、ほんの一拍だけ迷いを噛みしめ――すぐに目を開いた。
「なら……アリーナ。アナタは北門に向かって。そこに、必ず奇襲部隊……少数で門を破れるような、怪力自慢の魔物が来るはずだから。」
その声には、揺らぎはなかった。
アリーナは、シーラから細かい指示を受けると、呼ばれてやってきた、近衛隊の隊長と入れ違うようにして、南門へと向かうのだった。
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